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第5話:虚香宮(きょこうぐう)の影

夜の帳が降り、花館が静寂に包まれる。


他の少女たちが寝静まった頃、スハは自室で横になっていた。だが、眠りは訪れなかった。


脳裏に焼き付いているのは、古びた巻物に記されていた悲しい真実。

その香りは、深く沈み、まるで石のように重かった。

そして、その真実を誰にも話すことができない、重苦しい孤独の香りが、部屋全体に満ちていた。


この宮廷に来てから、スハは真実の香りを嗅ぎ分けてきた。

だが、真実を知れば知るほど、自分の存在が、この宮廷の美しくも歪んだ真実の中で、次第に小さくなっていくような気がした。


ふと、窓の外に視線を向けた。

満月が、闇夜を白く照らしている。

その月明かりの下で、一人の人影が、庭を静かに歩いている。

アヨンだった。


アヨンは、花館の少女たちが普段は近づかない、庭の隅にある大きな木の下で立ち止まっていた。

その香りは、いつもと変わらない、甘く、涼やかで、どこか神秘的なものだ。

しかし、スハの鼻腔は、その香りの奥に、深い悲しみが隠されていることを知っていた。


(なぜ、彼女は私を待っているのだろうか……)


スハは、そっと自室を抜け出した。

アヨンが待っている、そう直感的に感じた。


アヨンは、スハが近づいてきたことに気づくと、微笑んだ。

その笑顔に滲んだ香りは、夜に咲く白い花のような、底知れない秘密を隠していた。


「あなたの香が、私をここに引き寄せたの。眠れないの?」


アヨンが静かに問いかける。

その言葉に、スハは胸の奥を突かれたような気がした。

アヨンは、自分の孤独の香りを嗅ぎ取っていたのだろう。

スハは、頷く代わりに、遠い窓の向こうの光を指差した。


「…花館の一角に、ひとつだけ歪んだ香りを放つ花包がありました。

れすぎた果実のような発酵の匂いと、濡れた壁土のような沈み。

なぜ、あの花包は、あのような香りを放っていたのですか?」


アヨンは、その質問にわずかに目を見開くと、笑顔がわずかに凍りつく。

その表情に、ほんの一瞬、夜の闇に隠されたような、深い悲しみの香りが立ち上った。


「…それは、花包が置かれていた場所の香りを、染み込ませてしまっただけよ。この館では、珍しいことじゃないわ」


アヨンは、そう言ってすぐに笑顔に戻った。

だが、スハの鼻腔は、アヨンの香りの奥に、イナ妃の真意に触れた時と同じ、かすかな恐怖の香りを嗅ぎ取っていた。


(花包の真実を隠している。でも、なぜ?)


アヨンは、再び窓の外に視線を向けた。

庭の片隅で、ココロが静かに花を摘んでいる。


アヨンの視線の先にココロを見つけたスハは、静かに問いかけた。


「なぜ、あの子は花館の衣を着ていないのかしら?」


「さあ、どうでしょうね。」

アヨンは、小さな笑みをこぼすと、スハの方に顔を向けた。


「ここは、后になるために集められた少女たちの檻。

でも、中には親に売られ、無理やり連れてこられた子も多いわ。

彼女たちは、この場所を『選ばれた幸せ』だと信じ込んでいる」


アヨンの言葉に、スハは巻物で知った悲劇の記憶が重なった。


「でも、本当はね。もっと酷い場所もあるの。

后候補として見込みのない子、あるいは特別な『香』を持つ子は、別の場所に送られる。

そこは、この花館よりもずっと…冷たい場所だって噂よ。

香をまとった虚飾きょしょくだけがある」


アヨンの言葉に、スハは警戒の香りを嗅ぎ取った。

その香りには、深い悲しみと、イナ妃に対するかすかな恐怖が混じっていた。


「……それが、イナ妃様の本当のお顔だと、私は思っているわ」


アヨンがそう告げたとき、その笑顔はわずかに陰りを帯び、どこか寂しげな香りを放った。

それは、イナ妃の真実を知った上で、自らもその闇に囚われていることを示すようだった。


アヨンは、そう言ってスハの手をそっと握った。

彼女の手は、驚くほど冷たかった。

まるで、花館の華やかな香りの裏に隠された、底なしの冷たさを体現しているかのようだった。


「私と、一緒に行きましょう。あなただけではないわ」


アヨンがそう告げたとき、スハは初めて、孤独の香りから解き放たれるのを感じた。


アヨンが握りしめた手から伝わるのは、ただの決意の香りだけではなかった。

それは、自分と同じように重い真実を背負いながら、それでも前を向こうとする、共感の香りだった。

そして、その香りは、暗闇で一人震えていたスハの心を、温かく包み込む光のように感じられた。


(私は、一人ではない……)


スハは、アヨンの言葉と香りに導かれるように、静かにうなずいた。


夜の闇の中、二人は足音を立てないよう、花館の裏側へと向かう。

アヨンが言っていた「花館よりも冷たい場所」の香りが、微かに確かな存在感をもって、スハの鼻腔をくすぐる。

それは、華やかな花々の香りとは全く異なる、ひっそりと朽ちていく古い苔と、冷たい鉄錆さびの香りが混じり合ったような、陰鬱いんうつな香りだった。


その香りをたどっていくと、人目につかない場所にある、苔むした古い扉の前にたどり着いた。

扉は堅く閉ざされており、まるでこの世から切り離されたかのように、ひっそりと佇んでいる。


アヨンが、そっと扉に触れた。

その手は、冷たい鉄の扉に触れてもなお、凍えるように冷たかった。


「この先に、この宮廷の真実があるわ。…そして、それを守るため、あらゆるものを犠牲にしてきた者たちの、香りもね。」


アヨンが囁いたその言葉に、スハは息をのんだ。

アヨンの香りの奥に、自分と同じ悲しみだけでなく、そして、その悲しみを隠すための強い覚悟の香りが立ち上った。


スハは、震える手でアヨンと共に、冷たい扉に手をかけた。


(ここだ……)


(この扉の向こうに、この宮廷の、そして私自身の、本当の物語が隠されている)



(つづく)



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