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第7話:真実の鍵

湿った石畳と、決して乾くことのない血の匂いが混ざり合った、冷たく重い香りがスハの心を蝕んでいく。

意識が遠のきそうになる中、かすかに聞こえる水滴の音を聞いていた。

身体中の痛みはひどく、まるで水中に沈んでいくようだった。

それ以上に、この場所を支配する絶望の香りがスハを苛む。


その時、閉ざされた鉄の扉の向こうから、微かに何かの香りが漂ってきた。


それは、かすかな心配と、そして……


扉が開く音とともに、優しい、花の香りがスハの鼻腔を満たした。

スハがゆっくりと目を開けると、そこに立っていたのは、あの日のご婦人だった。


「よくぞ、耐えましたね」


ご婦人は、スハの体を起こすと、そっと抱きしめた。

その香りは、スハが幼い頃、川辺で嗅いだ優しい香りと全く同じだった。

…しかし、その奥に、冷たい土と、朽ちていく花のような香りが、微かに混ざっているのを、スハは感じ取っていた。


ご婦人は、スハを抱え上げた。

その腕は細く、わずかに震えていたが、確かな力強さがあった。

その香りの奥に、微かな苦痛の香りが混じっているのを、スハは嗅ぎ取っていた。


迷路のような地下通路を歩いていく。


「あなたは……一体……」


スハが掠れた声で問いかけると、ご婦人は静かに答えた。


「双子を産み落とした妃、秀真すじん。…あなたに香りを教え、この道を導いてきた者」


秀真すじん妃の言葉に、スハは息をのんだ。

まさか、巻物で読んだ悲劇の妃が、目の前にいるとは。


「そして、香で、この宮廷の真実を語る者」


秀真妃はそう告げると、スハの手を取り、再び地下通路を歩き出した。

二人が向かったのは、苔むした壁の奥に隠された、小さな鉄の扉だった。

扉を開けると、そこは地下にもかかわらず、どこからか陽の光が差し込む、小さな秘密の部屋だった。

部屋全体が、優しく、しかしどこか神秘的な香りで満たされている。

そこには、秀真すじん妃が香りを調合した道具、古びた書物と、無数の香料瓶が、ひっそりと置かれている。

それらは、この部屋が王の庇護ひごのもと、特別に設えられた空間であることを物語っていた。


「ここは、この宮廷で、唯一自分自身でいられる場所。

……あの御方が、この才能を愛し、唯一残してくださったものです」


スハを床に座らせると、静かに語り始めた。


「この宮廷は、真実を香りで隠し、噓を塗り重ねて、繁栄を保っている」


秀真すじん妃は、遠い目をして続けた。

言葉を区切るたびに、わずかに息をのむ音が聞こえた。

それは、彼女が語る一つ一つの真実が、自らの命を削り取っているかのようだった。


「私には、双子の妹がいました。

名を美蘭みらん

双子を産んだ私とは異なり、男児を産み、この宮廷の希望となった」


「その希望は、あっけなく散らされました。

美蘭みらんは、イナ妃によって、この世から消された」


スハは、巻物で読んだ真実が、すべて現実だったことを知った。


美蘭みらんの悲劇を、この宮廷に知らしめる者は誰もいない。

誰もが、己の幸せだけを求め、香りに惑わされている。

そんな中で、ただ一人、美蘭みらんの悲劇を悼んだ者がいた」


秀真すじん妃は、スハが持っていた詩を指さした。


「あの詩は、わたくしの侍女である明溶みんよんが書いたもの。

美蘭みらんを深く慕っていた明溶みんよんは、美蘭みらんの悲劇を悲しみ、その感情を香りに込めて、あの詩を綴った」


「選ばれぬ花は、土に落ちる」


その言葉が、スハの胸に強く響く。


それは、妃候補として選ばれなかった花たちの悲しみだけではなかった。


美蘭みらん妃という、この宮廷で最も美しく咲き誇るはずだった花が、非情な権力争いによって土に落ちていった悲劇。

その悲劇を目の当たりにしながら、何もできなかった、無力な者たちの悲しみが込められていたのだ。


スハの頬にそっと触れた。


「あなたは、その真実をすべて知った。

香りを嗅ぎ分けるその能力は、あなたに与えられた使命。

この歪んだ宮廷の香りを正し、消された命の声を蘇らせるために」


スハは、秀真すじん妃の言葉に、これまでの旅路の意味を悟った。

自分がこの宮廷に来たのは、ただの偶然ではなかった。

ご婦人が、自分に香りを教え、道を導いてくれたのは、この日のためだったのだ。


(私は、この館で何をすべきなのか……)


スハは、心の中で問いかけた。


「あなたの進むべき道は、あなたの心の香りが決めるでしょう。

……すでに真実を知ったあなたは、この場所を去ることを許さないはず」


秀真すじん妃は、スハの心を見透かしたように言った。


「この場所を去り、静かに暮らすこともできる。

この宮廷の真実を知ったあなたは、もう、元には戻れないでしょう」


スハは、黙って秀真すじん妃を見つめた。

心の奥底から湧き上がる、強い決意の香りを嗅ぎ取った。

それは、もはや誰にも消し去ることのできない、真実の香りだった。


(私は、この道を行く……)


その瞬間、スハの身体から放たれた決意の香りが、秘密の部屋を満たし、さらに強く、遠くへと広がっていく。


それは、イナ妃の作り上げた偽りの香りの壁を突き破り、夜の闇へと消えていくほどに。


「これから、もっと、残酷で悲惨なことを目利きするであろう。そなたであれば……」




(つづく)


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