夕方、部屋に戻った私(左大臣の大君の方)はトメに今後、中の君宛の文は私に届けさせるようにと指示した。
「北の方様のお耳に入ってしまったら……」
「手習いや歌のお稽古で紙が沢山必要だと答えればいいわ」
字にしろ歌にしろ女御になるなら上手ければ上手いほどいいのだ。
勅撰和歌集というのは実力で選ばれる(帝以外)。
例え妃であろうと
にもかかわらず入集している妃は多い。
それくらい歴代の妃達は皆、優秀なのだ。
当然、私も次に勅撰和歌集が作られることになったときは一首くらいは入集できるような歌が作れる方がいいに決まっているのだから手習いや歌のお稽古に紙を沢山使うと言えばお母様は納得するはずだ。
帝にしても例外的に入れてもらえると言っても優れている歌だけだ。
どうしても自分の歌を勅撰和歌集に入れたくて、こっそり他の人の歌を抜いて自分の歌を入れてしまった帝がいるくらいである。
それを周りに知られてしまっているというのも中々恥ずかしいと思いますけど……。
まぁもう崩御されているからいいのですけど……。
「姫君の亡き者にしたい誰かが
キヨが物語を読んでいた。
「なんてひどい!」
「怖いわ! 私、
二の姫と三の姫が口々に言った。
「蛇が失敗したと分かると今度は食事に毒を入れました。
毒を入れたのが自分だと分からないように全員の食事に混ぜたので邸の人間は皆、寝込んでしまいました。
幼かった一番下の妹君は助からず……」
「なんですって!」
私(左大臣の大君の方)は大声を出して
「姫様!?」
トメや他の女房達も飛び起きて集まってくる。
「いかがされましたか!」
外から頼浮の声がした。
庭にまで声が聞こえてしまったらしい。
それで見回り中の頼浮は駆け付けてきてくれたのだろう。
「ごめんなさい。悪い夢を見たみたいで……」
私がトメにそう言うと、トメがそれを頼浮に伝える。
「随身が、陰陽師をお呼びしましょうかと聞いておりましたが」
悪い夢は不吉なので陰陽師に占ってもらったり、現実にならないように
官職のある貴族だと
夢見が悪かった、などと言うのは当日の朝まで分からないことだから急な休みというのは珍しくないのだ。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
私の答えをトメが頼浮に伝えに行く(貴族の女性が以外の殿方と話すのは大変なんですのよ)。
頼浮は
「あ! 待って!」
私の声に頼浮が立ち止まったのが分かった。
「姫様?」
トメが当惑した表情で私を見る。
貴族の女性が殿方と直接言葉を交わすなど本来あってはならないことだからだ。
「
私の言葉にトメは戸惑ったようだったが、それでも頼浮に聞きに行ってくれた。
「詳しいと言うほどではないそうですが多少は分かるとのことです」
戻ってきたトメが報告する。
「なら急いで
私が言わんとしていることを察したのだろう、トメは慌てて頼浮のところに向かった。
「おかずに使う材料に毒草が混ざっていたそうです」
しばらくしてトメが戻ってきて報告した。
「なんてこと……」
危うく四の姫が
けど……。
一体誰が?
私は違うし、お母様だってそんなことを誰かに命じるはずがない。
中の君が邪魔だとしても使用人達まで巻き込もうとは考えないはずだ。ましてや娘達を。
物語の中でも〝女〟や〝北の方〟がやったとは書いてなかった。
まだ登場していない誰かなのだろうか?
でも……継子いじめ譚で毒殺?
私(左大臣の大君の方)が一人で
橘の香りがするから頼浮だろう。
「ありがとう、また助けられたわ」
私が箏を弾きながら言った。
箏の音で側に控えているトメ以外には聞こえないだろう。
頼浮は箏を聴くために立ち止まっているように見えるはずだ。
「先のことがお分かりになるとは存じませんでした」
「誰かが中の君に蛇を送ってきたのよ。だからもしかしてと思って」
「…………」
頼浮は黙っている。
香の匂いがしているし足音もしていないからここにいるはずだ。
「どうかした?」
私は頼浮に訊ねた。
「あれは間違えたそうです。
「え……?
雑人というのは使用人だが、その中でも庶民のことである(上級貴族に仕えている者の中には貴族もいるんですのよ)。
この国に死罪はない――貴族(と皇族)には。
実は貴族の特権の一つが
だから貴族なら死罪にはならない(もちろん皇族もですわよ)。
最悪、流罪ですむから恩赦があれば都に帰ってくることも出来る(こともある)。
けれど庶民は違う。
料理を作っている使用人は庶民(貴族だったとしても蔭贖が受けられないほど官位が低いはず)だから誰かを毒殺しようとしたとなれば死罪になり得る。
毒を入れるように命じた貴族は流罪ですんでも、雇われて毒を入れた使用人は流罪ではすまされないのだ(そもそも流罪にしても自分や親戚などに助けてもらえて生活に困らない貴族と、経済的な助けが期待できない庶民では大変さも全く違う)。
当然、罪を
「
頼浮の話によると毒のある草とない草が混ざって生えていたらしい。
見た目がそっくりで区別が付きにくいのだと頼浮が説明してくれた。
しかも今回はそれが同じ
「摘んでいるところを他の者達も見ていました。誰も毒草だとは気付かなかったので他の使用人達も食べるところだったんです。あれは間違いやすい毒草なので時々うっかり食べてしまって儚くなる者も……」
頼浮の言葉にぞっとした。
実際に検分した頼浮が言うのならその通りなのだろう。
ただ、そうなると――。
どういうことなの?
入れるように命じたのが誰かは書いてなかったし勘違いで毒草はわざと入れたわけではないという事?
それも悩ましいですけれど――。
中の君の箏の腕も悩ましいですわ!
少しずつ上手くなって言っているもののとても宴までには上達しそうにない。
朝――
「
(話がありますの)
私は頼浮らしい足音が近付いてくるのを待って歌を詠んだ。
足音が止まる。
「何か」
頼浮が私にだけ聞こえる声で言った。
「頼みがあるの」
「なんでしょうか」
「お父様が
随身はお父様の外出に同行するから分かるはずだ。
「わざと置いておくのではなく?」
「あなたがやったことを知られたら困るでしょ」
他人に嫌がらせをするならともかく、お父様にやったことが後で明るみに出たりしたら頼浮が
だから、それは最後の手段にしておきたい。
「分かりました」
「ただ、宴の日が近付いても触れないようならお願いするかもしれないけど」
「はい」
頼浮はそう言うと立ち去った。
午後――
私は中の君と箏のお稽古をしていた。
「あの……お姉様はよく歌を詠まれていますね。今朝も」
一休みしていると中の君が言った(お稽古中は必死で話どころではありませんのよ)。
「え、ええ……」
今朝の歌というと頼浮を呼び止めた時ですわね。
「歌のお稽古ですか? それとも……」
「あ、別に……なんとなくよ」
私は笑って
貴族の姫が男を呼び止めて話をしたなんて知られるわけにはいきませんわ。
「なんとなくで歌を詠まれるなんてさすがですね」
中の君に本気で感心したように言われると困ってしまう。
でも考えてみたら狐の鳴き真似で合図するより歌で呼び出す方がいいのではないかしら。
そう思ったものの歌で殿方に合図をするというのも、はしたないですわよね。
「そんなことは……」
「私も
貴族の姫の教養は歌と楽器の演奏と手習い(要は字がきれいということ。楽器の練習も手習いと言いますけど)。
この歌というのは自分で作るのもそうだが勅撰和歌集の暗記も含まれるのだ。
その昔、ある帝の妃は勅撰和歌集を全て覚えているという触れ込みで入内した。
そこで帝は勅撰和歌集の歌を詠んで妃に作者をあてられるかという勝負を持ち掛けた。
帝は一晩中勅撰和歌集の歌を詠じ、妃は次々と作者を答え、最初の晩は決着が付かないまま
そこで次の晩も帝はひたすら歌を詠み、妃は作者を答えた。
男と女が寝所で夜通しするのが歌の作者の当てっこ?
二晩続けて?
いやいやいや……。
さすがにそれは何か間違ってるでしょう。
だが、とにかく千百十一首の歌を覚えていて帝と夜通し作者の当てっこをした(それも二日続けて!)という先人がいたため、勅撰和歌集は暗記していて当たり前、というイヤな前例が出来てしまったのだ(それも歌だけではなく
入内をするならほぼ必須なんて……。
優秀すぎる先人がいると