はじめに──
この物語は、「勇者様、依頼とあらば何処へでも」の本編とは独立した、いわば“裏側”の物語です。読まなくても、本編の流れや結末に影響はありません。
けれど──
もしあなたがこの物語を読み終えたとき、ディルハイドという男の“在り方”が、ほんの少しでも違って見えたのなら、この物語には、きっと意味があったのだと思います。
彼がなぜ力を求めたのか。
彼が誰を見て、何を見て、どこに辿り着こうとしたのか。
その過程には、闇と矛盾と、ほんのわずかな祈りが込められています。
これは、“ただの敵”では済ませられない、ひとりの男の、静かな地獄の記録。
私は、不出来だった。
ダークエルフ──数の少なさゆえに“特別”とされる種族。
だが、私は何ひとつ“特別”ではなかった。
魔法も剣も、中途半端。
兄上は、その正反対にいた。
知恵には乏しく、魔法も不得手だったが、怪物のような筋力を備え、“力こそ正義”というこの世界の価値観の中で、常に頂点に君臨していた。
そんな兄の背を、私は一度たりとも越えられなかった。
それは、ある日突然現れた。
目の前に、“界紋の罅(かいもんのひび)”が。
その場にいた私を含む十数名は、抗う間もなく、それに巻き込まれた。
──これは、ごく稀に現れる天災だ。
どこに、いつ、なぜ現れるのか。
誰にも分からない。
巻き込まれた者は、ある者はすぐ近くに転移し、ある者は⋯⋯二度と、戻らなかった。
私が“あの島”に流れ着いたのは、500年前のこと。
名もなき孤島──後に『シュルツピア』と呼ばれる場所だと知るが、そのときはただ、辺境の地に投げ出されたのだとしか思っていなかった。
何より、異世界へと飛ばされたとも気づいていなかったのだ。
森を抜けた草原で、私たちはある“旅の一団”と遭遇する。
童顔だが、妙に威圧感のある剣士。
口数の少ない魔法使い。
背丈よりも大きな斧を担いだ戦士。
そして──
白銀の髪に蒼眼、長い耳、雷を纏う、無骨な重装の男。
その瞳を見た瞬間、私は悟った。
──コイツは、危険だ。
“雷帝”シリス。
当時はまだ、そう名乗ってはいなかった。
だが、その力と正義に対する狂信ぶりは、まさに後の名にふさわしい“礎”をすでに備えていた。
「⋯⋯なぜ黒いエルフがいる?この世界には存在しないはずだが⋯⋯?」
シリスの睨みつけるような蒼眼が、私に突き刺さる。
「“界紋の罅”の影響だ。意図してここに来た訳では無い」
「あわよくば、この世界を滅ぼそうとやって来たのか?」
「待て、私は本当に⋯⋯」
私の言葉を遮って、ヤルドが一歩前に出て来る。
「ディルハイド、何ビビってんだ?うるせぇからさっさと殺っちまおうぜ?」
ヤルドが私に振り返った瞬間──
「あっ⋯⋯」
一閃。
ヤルドの頭が飛び、首からの鮮血越しに剣士の酷く冷めた目を見た。
「⋯⋯まだ、“意図しない”と言い切れるか?」剣士の吐き捨てるような言葉が、地を這うように耳に残った。
言い返せなかった。
いや──返す時間すら、与えられなかった。
私が言葉を選ぼうとした、その刹那。
背後から、仲間たちが攻撃魔法を放とうと魔力を溜め込んだ。
「っ⋯⋯やめ──ッ」
咄嗟に振り返った。
だが、すでに遅かった。
雷が落ちたのだ。
まず一人が、焼け焦げた音を残して地面に沈んだ。
皮膚が泡立ち、骨が露わになり、眼球が破裂した。叫びも、遺言も──何ひとつ残さずに。
次に、風が切り裂かれる音。
剣士のものではない。
重戦士の振るう大斧が、仲間たちの腹を水平に割いた。
臓腑が撒き散り、白い肋骨がぬらぬらと日光に照らされた。
「に、逃げ──」
最後の一人が走り出した。
けれど、足元に魔法陣が浮かび上がる。
バチバチと火花が弾ける。
──次の瞬間、爆発。
頭蓋が砕け、四肢がちぎれ、肉が霧のように空へと舞った。
そして──私だけが、生き残っていた。
膝が笑う。
全身が、震えていた。
寒くもないのに、指が凍えたように動かない。
⋯⋯なぜ、私だけが。
その問いすら、喉の奥で干からびていた。
私たちの世界では、ダークエルフは──食物連鎖の頂点だった。
襲ってくる者など存在せず、もし現れたとしても、返り討ちにすればよかった。
⋯⋯だが、この世界は何だ。
わずか数刻で、すべてを──蹂躙された。
血と肉の匂いが、陽光の下で生々しく漂う。
破裂した臓腑が、焼け焦げた草の上に散らばっていた。
風が吹き、誰のものとも知れぬ髪の毛が宙に舞う。
その中で、私はただひとり、立ち尽くしていた。
「⋯⋯手加減したつもりだったが、脆いな。──残るはお前だけだが」
シリスの低く、よく通る声が響いた。
「⋯⋯どうする?」
少し間を置き、彼は続けた。
「戦意は⋯⋯無さそうに見受けるが」
シリスがこちらを見下していた。
雷の残滓が肩口にほとばしり、白銀の髪が風に揺れる。
その瞳は、感情というものをどこかに置き忘れたように、静かに、冷たく、ただ──“選別”をしている目だった。
「お前たちは⋯⋯何者だ?」
私の口をついて出たのは、思考ではなく、逃避だった。
目の前の現実を、どうしても“理解”の枠にはめられない。
問いかけたのは、むしろ自分自身だった。
──どうして、こんな化け物が存在するのか。
シリスは、ゆっくりと息を吐いた。
ほんのわずかに、蒼眼が細められる。
「⋯⋯なら、教えてやろう」
その声には、微かに嘲りが混じっていた。
「我々は、“正しさ”を知っている者だ。そして、“正しさ”を知らぬ者に──容赦はせぬ」
雷が空気を裂くように、ビリ、と周囲に走った。
地面が震え、木の葉が舞い上がる。
それでも、彼の表情は一切、変わらなかった。
正しさを、“正しさ”にするために、蹂躙する。それは──正義か?
正義とは、誰のためのものだ?
私たちは、ただ飛ばされてきただけだった。
なのに──私たちは、“悪”だったのか?
「⋯⋯そういう理屈で、命を奪うのか?」
震える声が、かろうじて私の喉から漏れる。
「貴様らが⋯⋯死臭がこびりついた貴様らが命を語るか?」
剣士が口を開いた。
その声音に怒りはない。
ただ、冷たい拒絶だけがあった。
「シリス、時間が惜しい。俺が斬る」
剣に手をかけながら、淡々と告げるその男に、シリスが、
「⋯⋯“勇者”よ、何をそんなに急いでいる?」
私はその言葉に鋭く反応した。
ゆう⋯⋯しゃ?ゆうしゃとは何だ?
私は無意識に言葉を発した。
「ゆうしゃというのは⋯⋯無慈悲に、不条理に、命を奪うのか?同行しているお前たちも⋯⋯それに追随するのか?」
「招かれざる者を目の前にして、討たない理由があるか?攻撃してきたのはお前たちだ。⋯⋯悪いがそろそろ終わらせてもらう」
勇者が剣を抜いた。
その所作には、一片のためらいもない。
「ま、待て──私は──!」
声は空気に呑まれた。
踏み込まれる音。
刃が、すぐそこまで迫っていた。
そのとき──
「離れろ!“界紋の罅”だ!」
シリスの怒声が飛ぶ。
振り返る暇もなかった。
背後の空間に、鋭い音を立てて亀裂が走る。
“旅の一団”は皆、離れた先からこちらを見ていた。
何かが“割れる”音とともに、私の身体はふわりと浮いた。
──吸い込まれる。
重力も、方向もない空間を落ちていく。
声も、意識も、どこか遠くへ引き剝がされていく。
次に感じたのは、背中の地面の冷たさだった。
夜空に無数の星。
泥をすくったような感触。
咳き込み、身を起こす。
目の前が滲んでいた。
生きている。
その一点だけが、現実だった。
心臓が狂ったように打ち、膝が笑い、指先が震える。
喉が乾いて、声が出なかった。
──助かった。
それだけで、全身が震えた。
どこに飛ばされたのか。
なぜ、私だけが生き残ったのか。
その問いすら、今の私には重すぎた。
ただ──生き延びたことだけが、すべてだった。
そのとき──
「おォ?弟ォ?なんだよォ、死んだかと思ったぜェ?」
ボルドゥーン。
兄上の声が、どこか間の抜けた調子で暗闇から響いた。
私の傍に、ずかずかと歩み寄ってくる。
「なんと⋯⋯奇跡が⋯⋯」
信じられなかった。
だが確かに、私は──この世界に帰ってきていた。
「弟ォ?どうしたァ?ずいぶん疲れてるみてぇだなァ?」
そう言いながら、兄上は気楽に隣へ腰を下ろす。
私は、しばらく黙って──それから、口を開いた。
「兄上⋯⋯私は、“界紋の罅”に吸い込まれて⋯⋯異世界へ飛ばされました」
「おォ?いせかい?なんだそりゃァ?」
「⋯⋯この世界とは、まったく異なる場所です。そこには──私たちダークエルフを、容易く蹂躙する存在がいました」
「じゅーりん?よくわかんねぇけどよォ⋯⋯つまり、強ぇ奴がいたってことかァ?」
──ああ、兄上はまだ、知らない。
この世界が、どれほど狭くて──
私たちが、どれほど無力だったのかを。
「俺も行きてぇなァ!その、“いせかい”ってところによォ!」
唐突に笑う兄上の横顔が、やけに眩しかった。
「⋯⋯危険です。やめておきましょう。それに、行きたい場所に行けるわけではありません。“界紋の罅”が、いつ現れるかは誰にも分からない」
「な〜んだよォ、つまんねぇなァ。この世界にも、もう飽きちまったっつーのによォ」
兄上は両脚を前に投げ出し、後ろ手に体を支えて座り直した。
するとふと、兄上が顔だけをこちらに向けて尋ねた。
「そうだ、ヤルドたちはどうしたんだァ?」
私は、ほんのわずかに目を伏せて──答えた。
「だから先程⋯⋯いや、分かりやすく言うと⋯⋯私以外、全員、無惨に殺されました」
「⋯⋯はァ?ヤルドが殺されたァ?それ以外の連中もォ?アイツは俺たちの中でも強い方だぞォ?」
兄上は身を乗り出した。
「⋯⋯しかも、一瞬でした。首を、刎ねられて──抵抗すら、できずに」
「⋯⋯⋯⋯」
沈黙が、数秒だけ空気を凍らせる。
それから、兄上の低いうなり声が漏れた。
「⋯⋯グゥゥゥゥゥ。弟ォ⋯⋯それ、本当なんだよなァ?」
その声は、あの陽気な“兄上”のものではなかった。
──まるで、底のない井戸のような、静かな怒りが潜んでいた。
「グルアァァァァァァ!!」
兄上は、叫びとともに立ち上がり、斧を振るった。
木が裂け、幹が飛び、森が──壊れていく。
「兄上!落ち着いてください!」
「何でヤルドが死ぬんだよォ!おかしいだろォ!!」
「兄上!兄上!」
近寄れば私が斬られかねないので、呼びかけるのが精一杯だった。
それで我に返ったのか、手を止めた兄上は独り言のように、明後日の方向を見ながら呟いた。
「弟ォ。お前じゃ、無理だよなァ」
私の存在意義を、一番近い存在に否定された瞬間だった。
胸の奥に、何かがぽっかりと穴を開けたまま、私は踵を返し、その場を去った。
兄上が、何かを叫んでいた。
私の名を呼んでいたのかもしれない。
だが──私は、振り返らなかった。
振り返れば、何かが崩れてしまう気がした。