それから私は、塞ぎ込むようにして時を過ごした。
何十年、あるいは──何百年と。
時間の感覚など、とっくに失っていた。
私に力があれば、違う未来があっただろうか。そして、この命に──何の意味があるのか。
そう問いながら、ただ息をしていた。
蹂躙された記憶は、時を経てもなお、鮮明だった。
あの首が飛んだ瞬間。
あの斧が振りかぶられた角度。
あの血の匂い、足音、声──。
何ひとつ、薄れることはなかった。
明くる日も、明くる日も、私は森の中の切り株に腰を下ろし、ぼんやりと過ごしていた。
そんなあるときだった。
「⋯⋯ディルハイド?おーい、ディルハイドー!」
どこからか、声が聞こえてきた。
それはあまりに唐突で、間の抜けた響きだった。
私は周囲を見回す。誰も、いない。
「誰だ⋯⋯!私を呼ぶのは誰だ!」
声は木々のざわめきに呑まれ、返事もない。ただ、風が吹き抜ける。
──だが次の瞬間、耳ではなく、“内側”に声が響いた。
「君の心に話しかけてるから、実体は無いよ?」
楽しげな声音に、思わず苛立ちが走る。
私は低く唸るように問い返した。
「誰だ⋯⋯!私に、何の用だ⋯⋯!」
すると、風のように、ふっと問いが返ってきた。
「君はさぁ──強くなりたいかい?」
「⋯⋯何を言っている?」
「え?そのままの意味だよ。強くなりたいかい?」
思考が揺らいだ。
まるで、水面に石を投げ入れたように──内心が波紋を広げて、ざわめいていく。
私は、目を閉じて深く息を吸う。
──おかしい。
ついに、精神が壊れたか。
長すぎる沈黙が、私の理性を腐らせたのか。
あるいは、あの“罅”で魂の何かが壊れていたのか。
「あれ、強くなりたくないの?ダークエルフなのに、もったいないなぁ」
口調が軽くなる。
だが、その裏にある“知性”と“確信”が──本能的に、私の警戒心を強く刺激した。
「⋯⋯名を名乗れ!貴様は、何者だ⋯⋯!」
風は笑う。
心の奥底に、薄ら笑いを落としていった。
「名前なんて、いる?んー、まぁ⋯⋯RPGでは最初に名前を決めるしね。じゃあ、そうだな──『ヘッレ』にしようかな?」
「“ヘッレ”か⋯⋯強くなる、というのは⋯⋯具体的に、どういうことだ?」
「も〜う、細かいなぁ!そういうの、今どき流行らないよ?“強くなりたかったら、強くしてあげる”って言ってるのに──それ以上、何を求めるの?」
──私は、ずっと願っていた。
兄上のようにとは言わない。
それでもせめて、肩を並べられるくらいには。
いや、でも、いつか──それ以上に。
ダークエルフとして生まれたことは、誇りだった。
だがその稀少性は、次第に“足枷”へと変わっていった。
強くあることを求められ、期待され、それでも届かない現実に、ただ、ただ、押し潰されていった。
もし──もっと平凡な種族に生まれていたら。
何気ない成果で称えられ、小さな幸せに満たされていたのだろうか。
満ち足りた心で、兄と笑い合えていたのだろうか──。
「⋯⋯で、どうするの?強くなりたいの?」
私の一言で何が変わるのだろうか。
しかし、これがその機会であるのならと思ったとき、ふと言葉が溢れた。
「私を⋯⋯強くしてほしい。後世に語り継がれる程の力が欲しい」
「そうこなくっちゃ!あ、そうそう、君はダークエルフなのにちょっとビジュアルが良くないよね〜。別の世界にいいモデルがいたから、うり二つにしとくね〜」
ヘッレがそう言うと、私の身体にねじ曲がるような激痛が走った。
「ぎゃああああああああああ!!」
のたうち回り、もがき、苦しみ、意識は途切れ途切れに飛び、永遠に感じるほどの時間だった。
「⋯⋯ハイド?ディルハイド?起きてー?終わったよー?」
私は目を覚ました。
もう何年も眠っていたような感覚だった。
起こした身体に違和感を感じながらも、近くの池で顔を洗おうと、水面を覗き込んだとき──
「うわぁぁぁっ!これが⋯⋯私?」
「そうだよ!どう?カッコいいでしょ?気に入った?」
ヘッレの声は、底抜けに明るい。
まるで誰かに贈り物を渡したような──そんな口調で。
私は、ゆっくりと自分の顔に触れた。
切れ長の目。
スッと通った鼻筋。
少し薄い唇。
シャープな輪郭。
すべてが、かつての“私”と違っていた。
触れるたび、知らない誰かをなぞっているようだった。
──そして、それは顔だけではなかった。
内側から、滾るような魔力が沸き上がってくる。
まるで──体の奥に、溶岩が流れているような。
脈動し、暴れ、押し広げようとする、剥き出しの“力”。
こんなにも、抑えられない魔力を感じたことはなかった。
私は震えながら、拳を握った。
「これが⋯⋯力か⋯⋯」
だが、それは歓喜ではなかった。震えていたのは、興奮ではなく、恐怖だった。
“自分じゃない何か”が、内側から目を覚ましていく──そんな感覚に、私は怯えていた。
しかし、ヘッレはそれをあっさりと見破った。
「え?ビビってるの?あー、そっか。この前はケチョンケチョンだったもんねー」
「⋯⋯何を言っている」
「じゃあさ、ちょっと実戦といこうか?」
「⋯⋯実戦、だと?」
「うん。僕が相手用意してあげるから。さ、行ってきなよ?」
すると、目の前に──
「⋯⋯“界紋の罅”!?あれは全部⋯⋯貴様が⋯⋯!」
「え?何のことかなぁ?さぁ、行くの?行かないの?」
「くっ⋯⋯!」
私は、躊躇した。
この裂け目の先に、何がある? 罠かもしれない。
また、自分が壊れてしまうのではないか。
あのとき──私の仲間は、無残に土へと還った。
私自身も、誇りも、誓いも、すべて踏み砕かれた。
「こんなもの⋯⋯もう、二度と開いてほしくなかった⋯⋯」
けれど。
胸の奥で何かが、じくじくと疼いていた。
それは恐怖ではない。
諦めでもない。
──悔しさ。
「もし⋯⋯私が、この先で何かを変えられるのなら」
「お?行く気になった?」
「その先に“救い”があるかどうかは知らん。けれど、行かねばならぬ理由なら──山ほどある!!」
私は吠えるように叫び、界紋の罅へと足を踏み出した。
「おぉ〜〜カッコいいね〜〜〜〜!!でもねぇ、どうなるかは“シナリオ次第”だからね?」
ヘッレの楽しげな声が追いかけてきた。
だがもう、振り返らなかった。
そのとき──
「おゥ!俺も混ぜろよォ!“いせかい”に行けるんだろォ?」
聞き覚えのある、陽気で無鉄砲な声。
私は振り返らず、罅の向こうへ入った。
だが、後ろから響くあの足音は──間違いなく、あの男のものだった。
あの日、断ち切られた絆。
それが今、再び隣にある。
裂け目の向こうに待つのが地獄でも──。
ふたりなら、笑って壊せる気がした。
──界紋の罅を抜けた瞬間。
どんよりとした鉛色の空の下、地鳴りのような軍靴の音と、重苦しい殺気が空気を震わせた。
広大な原野の左右には、それぞれ数万の兵。揃いの甲冑、突き立てられた軍旗、びっしりと並ぶ戦列。
剣も槍も、今にも交錯しようとしている──その最前線の、ど真ん中に。
私たちは、いた。
「⋯⋯えっ?」
「⋯⋯おォ?」
兄上と目を合わせる。
すると、不思議そうな顔で、
「弟ォ⋯⋯だよなァ?顔は違うけど⋯⋯弟だなァ」
「その件は後程」
ヘッレは“実戦”だと言っていたが、まさかこれほど大規模な一触即発の状況だとは──
予想すら、及ばなかった。
空気に、私たちの“存在”だけが裂け目のように浮いていた。
どこにも属さず、どこにも理解されず、ただそこに“ある”だけの異物。
しかし──
兄上は、子供のように目を輝かせ、辺りを見回す。
「⋯⋯弟ォ!すげぇなァ!これが“いせかい”かァ?」
「⋯⋯恐らく。無限にある世界のひとつなのでしょう──そして間もなく、戦が⋯⋯始まります」
両軍の前列がざわめき始めた。
私たちを指差す者、身構える者、魔法陣を展開する者── だがそのとき、地を震わす怒号が戦場を割った。
「うぉぉぉォ!!来るぞ、来るぞォ!!皆殺しだァァァ!!!」
──兄上だった。
満面の笑みで、大斧を肩に担ぎ、ただひとり、土煙を巻き上げ、兵の群れへ突っ込んでいく。
その咆哮に呼応するように、両軍から一斉に鬨の声が上がる。
剣が、槍が、叫びが、命を奪い合う音を鳴らし──“戦争”が始まった。
「兄上!!⋯⋯くっ⋯⋯やはり、相変わらず好戦的な人だ⋯⋯」
すると──兄上の姿が、音もなく視界から掻き消えた。
次の瞬間。
戦列の奥で、爆風のような衝撃と共に、数百人の兵と騎馬が── まるで紙人形のように宙を舞い、肉と鉄と血煙となって飛び散った。
空が、赤く染まる。
──まさに、ただの“一撃”だった。
「ダーッハッハッハッハァ!!最高だぜェ!! おい弟ォ!どっちがたくさん殺せるか勝負だァ!!」
私は呆然としながら、両軍の群勢にもみくちゃにされ、人々の亡骸を見つめて、思い出していた。
──かつて、この光景の“逆側”に立っていた仲間たちを。
勇者たちに、無慈悲に、不条理に、命を消されたあの日を。
そして今── 兄上は、まさに同じことを繰り返している。
「私は、どうしたらいい?」
無意識に漏れた言葉だった。
変わりたいと願って、ここへ来た。
だが、“変わりたい”とは──何なのだ?
このままやり過ごせば、何か変わるのか?
そんな問いが脳裏で渦巻く中──
「うおああぁぁぁ!」
私が背後の奇声に振り向いた瞬間──
ひとりの兵の刃が、すぐそこまで迫っていた。
(勇者め⋯⋯勇者めッ!!)
──そうだ。
あのときと、まったく同じだった。
声を飲まれ、剣を向けられ、殺されかけた、あの瞬間と。
「⋯⋯フラメディオルッ!!」
火球の連弾が、咄嗟に、無意識に、翳した十指から放たれた。
兵たちを薙ぎ払い、大地を燃やし、記憶の亡霊ごと、焼き焦がした。
私の周りを、悲鳴や絶叫が包み、兵たちは距離を取った。
「おォ!!弟ォ!!いつの間にそんな強ェ魔法使えるようになったんだァ?」
遠くから──
兄上が、戦場に似つかわしくないほど、屈託のない笑顔で叫んでいた。
そして、その顔のまますぐ殺戮を楽しんでいた。
私は自分の両手を見ながら、可能性を確信した。
「これは⋯⋯この力があれば⋯⋯ハハッ⋯⋯ハハハハハハッ!」
─それは、勝利の笑みではなかった。
吐き出したのは、 怒りか、憎しみか、あるいは⋯⋯哀しみだったのかもしれない。
正義とは、何か。
理不尽か。
不条理か。
正しさか。
──いや、違う。
正義とは、“力”以外の、何物でもない。
力が全てだ。
私は──力を手に入れた。
勇者も。
シリスも。
いずれ、正義の名のもとに、殺す。