それから数ヶ月、いや、数年、ヘッレの声は聞こえなくなった。
私の世界では、もうやることが無かった。
ダークエルフは血の気が多い。
勝手にどこへでも向かい、暴れ回る。
出る幕など無かった。
手持ち無沙汰とは、こういうことらしい。
力を持つと、妙に冷静になれる気がした。
明らかに格下の相手には、この力など贅沢だとすら思えた。
すると、それは突然──そう、彼と初めて会話を交わしたときのように。
「⋯⋯ディルハイド? おーい、ディルハイドー!」
「聞こえている!」
「あれ、怒ってる? 手持ち無沙汰って感じ?」
ヘッレは、いつも私の心を覗いてくる。
いや、覗くというより、当ててくる。
「⋯⋯ああ、その通りだ。この力を、そろそろ存分に振るってみたいものだがな」
「ふふ、やっぱり」
くすくすと笑うその声が、胸の奥をくすぐった。
「そういえばこの前、僕が質問した“勇者以外で殺したい奴”ってさ、『シリス』って名前じゃない?」
その名を耳にした瞬間、意識より先に、身体がぴくりと反応した。
だが、理性は別のところに引っかかっていた。
「ヘッレよ⋯⋯その話をしたのは、もう数年前のことだが?」
「あれ? そうだったっけ? ああ、ごめんごめん。うっかりしてたよ。アハハ⋯⋯」
──いつもの調子だ。
つかみどころのない、得体の知れない存在。
そう分かっているつもりだった。
だが、どうにも引っかかる。
けれど──私には、“力を証明する機会”のほうが、ずっと魅力的だった。
「シリス⋯⋯あの蒼眼だけは、今も忘れられない」
「じゃあさ、またあの世界に行ってみよう? 今回はまず、『ストラガン王国』の王都『シルトファード』を落としてみない? もしかしたら、そこで“彼”が現れるかもよ?」
「⋯⋯ほう。それは面白いな」
「あとさ、シリスは『エルフ』っていう種族なんだ。あの世界には、エルフの住処が点在してる。片っ端から潰していけば、きっと最後に辿り着けるよ。『ノエルナ村』っていう、総本山にね」
「⋯⋯なるほど。悪趣味な発想だ」
そう言いながらも、私の心は静かに疼いていた。
「じゃあ決まり。今回は“シリス探し”がメインだね。あ、あと、相手のステータスが見える力も付与しといたからね。一応脳筋にも」
「そうか。まぁ、私には必要無いがな。ヘッレ、早速行くぞ」
「あれ、脳筋は連れて行かないの?」
「私はどちらでも構わないが⋯⋯兄上が“戦わない”と言うとでも?」
「そうだよね。じゃあ、あっちの世界で合流するようにしとくよ。ちなみに、『シュルツピア』っていう最南端の孤島からのスタートだよ。本当は『シルトファード』のど真ん中に送ってあげたいんだけど、なぜかうまくいかないんだよね〜」
その言葉に続くように、無音の亀裂が空気に現れた。
界紋の罅。
そして、世界そのものが悲鳴を押し殺しているかのように、静かに、深く口を開いた。
だが、私はもう迷わない。
「じゃあ頑張って、ディルハイド!」
ヘッレの明るい声が背中を押した。
私は、ゆっくりと罅の縁に近づき、足をかけた。途端に、重力が消える。
身体がふわりと浮き上がり、視界が反転した。
風が、ない。
音が、ない。
ただ意識だけが引きちぎられるように遠ざかり──
──次に見えたのは、穏やかな海だった。
陽光が水面を照らし、波は緩やかに砂をさらっている。
白く乾いた砂浜の向こうには、鬱蒼とした森と、そそり立つ岩肌が影を落としていた。
「ここは⋯⋯あのときの⋯⋯」
私は砂を踏みしめ、無言で島の奥へと歩き出す。
森の中は静かで、木々のざわめきすらどこか遠く、記憶のなかの風景と寸分違わぬままだった。
やがて木々が開け──
視界の先に、かつて“旅の一団”と遭遇し、蹂躙された草原が広がっていた。
何も無いはずのこの場所に、血生臭い臭いが、風に運ばれてきた気がした。
でも──何も変わっていない。
だが、私が変わった。
ここに来て冷静でいられるのが、自分でも不思議だった。
今度は、“狩る”側として、ここに立っている。
するとそこに、
「おォ?弟ォ?ここも異世界かァ?」
あの陽気で豪放な声が、森の影からぬるりと湧き上がった。
兄上は周囲を見渡しながら、ゆっくりと草原へ歩み出てくる。
「はい。そして⋯⋯ここでヤルドたちが殺されました」
兄上は黙ってしゃがみ込み、無言で草の根元に手を置いた。
その仕草は、意外にも静かで──まるで死者を弔うようだった。
「ここでかァ⋯⋯この世界には“ゆうしゃ”って奴はいるのかァ?」
「どうでしょう⋯⋯遥か昔にはいましたが⋯⋯」
兄上は手をはたきながら、すっくと立ち上がる。背筋が伸び、斧の柄が太陽を反射して光った。
「じゃあ、早速行こうぜェ!」
「向かうのはいいですが、この島は海に囲まれています」
兄上は少し黙り込んだあと、唇を尖らせてこう言った。
「⋯⋯泳ぐしかねぇかァ?」
「兄上、私は泳げないので⋯⋯私の魔法で飛んで行きましょう。そこまで速くはないですが」
「おォ?弟ォ!そんな魔法も出来るのかァ?俺は空飛んでみたかったんだよォ!」
その声には、まるで子供の好奇心のような高揚があった。
私は小さく息を吐き、思う。
──兄上の童心には、別な意味で助けられている。
しかし、彼を地上に放てば⋯⋯そのあとに誰かしらの“掃除”が必要だ。
無論、言わずもがな──私にその役が回ってくるのだが。
「さぁ、兄上。王都へ向かいましょう」
私は手を翳し、魔力の波を広げる。
兄上の身体がふわりと浮上し、やや遅れて、私自身も宙へと舞い上がった。
「うぉぉぉぉォ!全部ちいせぇなァ!」
空を切りながら叫ぶ兄上の声が、上空に反響する。
その姿はまるで、斧を持った巨人の子供だった。
「兄上、身体を動かそうとせず、水に浮くように力を抜いてください。落ちますよ」
「おォ?おォォ!?これ、おもしれぇなァ!!」
私は視線を遠くへ移す。
空から見下ろす景色は、どこまでも穏やかだった。
小さな集落、整然と並ぶ田畑。
羊を追う少年の姿。
野良犬を追いかける子どもの笑い声。
それらすべてが──ただの“風景”に見えた。
山を越え、谷を越え、川を越える。
やがて王都の尖塔が、遠くに小さく見えてきた。
この人々の生活に、何の意味があるのか。
私は、そう思ってしまった。
彼らは知らない。
空の上から、何者かがこの世界を見下ろしていることを。
そのまなざしが、どれほど冷たいものかを。
力でねじ伏せられるなど、微塵も思っていないのだろう。
自らの“日常”が、どれほど脆いものかも。
いずれ、私が蹂躙するかもしれないのに──その未来すら、誰ひとり予感していない。
私は、目を伏せた。
何に対してか、もう分からなかった。
漠然とそんなことを思っていると、王都の上空に着いた。
遠目にも、街はどこか華やいで見えた。
「兄上、申し訳ないですが、ここで少し待ってもらえますか?」
「おォ?今すぐ下に降りて暴れたいところだけどよォ⋯⋯」
斧の柄を指で撫でながら、兄上はふてくされた声を漏らしたが──珍しく、抵抗はしなかった。
もしかすると、何か引っかかっていることがあるのかもしれない。
私はひとり、城下町へ降りた。
王都──シルトファード。
私の世界では見たことがない、豪華絢爛な石造りの街並み。
陽光を反射する半球の建物。
すれ違う市民の、彩り豊かな着衣。
笑い声と馬車の音と、聖堂から流れる鐘の音。
ただそれだけで、この場所が“豊か”であると分かった。
──そして、それを「美しい」と感じてしまった自分に、ほんのわずか、戸惑った。
(私は、確かめたいことがある)
道行く民に、声をかけた。
「そこの婦人、なぜ街にはこんなにも人が溢れているのだ?」
すると、彼女は怪訝そうに眉を上げた後、にこやかに言った。
「あんた、知らないのかい?今日は、勇者様が魔王を倒したお祝いなんだよ」
私は、無意識に眉を細めた。
「⋯⋯勇者?」
「そうさ。だからみんな舞い上がってるのさ」そう言って、婦人は屈託のない笑顔を見せた。
その笑みは、眩しいほどに無垢だった。
──だが、私には、あまりに遠いものに思えた。
(あのとき、私の仲間を“正義”と呼ぶ者たちが殺した。その“正義”を、今、皆が祝っている)
王都の空は青かった。
鐘は、祝福を告げていた。
人々は喜びに満ち、明日を信じていた。
──もし、あれが“正義”ならば。
私は──その正義ごと、この街を焼く。
そう心のどこかで呟いた自分に、気づかないふりをした。
もうひとつ、私は質問をした。
「婦人は──シリスというエルフの男を知っているか?」
「知ってるも何も、“雷帝”シリス様は、この世界の守り神のような人なのよ?ほら、あそこに銅像もあるでしょ?」
婦人が指差した先──神々しい白石の台座の上に、奴の像があった。
大きな噴水の側で、水音を背に、雷を背負うポーズのまま、天を睨む。
その眼には、蒼い石が埋め込まれていた。
あのとき、私が震えた蒼眼。
私の記憶にあるあの眼と──寸分違わなかった。
「“雷帝”か⋯⋯大層な二つ名だ」
私は、奥歯を噛み締める。
拳が震えるのを、袖の中で抑える。
(そうか──貴様は、英雄になったのか)
誰からも讃えられ、“正義”の名を欲しいままにし、私の仲間を、何のためらいもなく殺したその手で──世界の守護者を気取っているのか。
血の味がした。
それが怒りか、悔しさか、あるいは⋯⋯哄笑の前触れだったのかは、分からない。
「婦人よ、感謝する」
私は目を伏せ、その場を立ち去ろうとした──そのとき。
「く、黒いエルフがいるぞぉ!!」
甲高い男の声が、街に響き渡った。
瞬く間に、周囲の空気が変わる。
何気ない視線が、敵意と猜疑に変わる。
「おい、あれは伝説の話じゃないのか?」
「災いの前触れか?」
「くっそぉ、これでもくらえ!」
声と同時に、風を切る音がした。
ゴッ、と鈍い音を立てて、石が私の額に当たった。
流血が頬を伝い、滴となって石畳に落ちた。
その一滴が落ちる音が──私の中で何かを“終わらせた”。
(⋯⋯やはり、こうなるのか)
視線が、急激に冷えていく。
──私は、まだ何もしていないというのに。
(まぁいい、これで私は確信した。心おきなく王都を潰せる)
私は宙に浮き、街一帯を俯瞰できる高さまで上がった。
「おい、あいつ空を飛んでるぞ!」
「何する気だ!」
私は、格下にこの力を使うのは贅沢だと思っていた。
しかし、今回は特別に贅沢をさせてやろう。
もう、止められないぞ。
貴様らが悪いのだ。
私は、手を掲げた。
「──ゼノ・フラメディオル」