ディルハイドは右手を翳し、低く呪文を吐き捨てた。
「⋯⋯フリュスタ」
瞬間、彼の足元から霜が音もなく広がり、大地を這うように凍結の波が奔る。
氷は地面を突き破る牙のように、次々とシリスたちに襲いかかる。
瞬く間に辺りの温度を奪っていった。
息を吸うだけで、肺が切り裂かれるような冷気──。
凍てついた空気の中、シリスは走り出す。
「⋯⋯遅い!!」
シリスはその牙を八艘飛びのようにかわしながら、軽く宙に跳ねた。
風を蹴って、逆手に構える。
「スルムスピョート!!」
その手から放たれたのは、雷の槍。
光速をも凌駕する一閃が、氷の牙を蹴散らし、地面を抉りながら真っ直ぐ貫き──
「──ッ!?」
ディルハイドが咄嗟に腕を交差させた瞬間、目の前に分厚い氷壁が現れ、雷槍が突き刺さる。
轟音と閃光。
氷壁は粉砕し、粉雪のように宙を舞った。
「さすが“雷帝”。一撃の速さが尋常ではないですね」
ディルハイドの口元に怯えはなかった。
むしろ、その目に宿ったのは──歓喜。
「⋯⋯面白い。やはり、貴様を越えねば、“あの日”は終われぬ!」
ふたりを尻目に、リーシュは目を見開き、身体が震え、動けなくなっていた。
「何だ、この高等魔法の応酬は⋯⋯私には何も⋯⋯」
そのとき、シリスの怒声が飛ぶ。
「リーシュ!!狼狽えるな!!貴様もエルフの端くれなら、戦って死ね!!あの“聖戦”から帰った意味が、今なら分かるはずじゃ!!」
(聖戦⋯⋯)
──リーシュの脳裏に、かつての光景が奔った。
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王都・シルトファード。
ストラガン王国に栄光の凱旋旗が翻った。
空は晴れ渡り、祝福の鐘がいくつも重なり合って鳴っていた。
石畳の道には、溢れんばかりの民衆の歓声。子どもたちは小さな旗を振り、大人たちは涙を浮かべ、皆が同じ言葉を叫んでいた。
「勇者様、万歳!!」
「魔王を倒してくれてありがとう!」
「私たちの誇りだ!」
拍手と歓喜、称賛と名誉──すべてが、まるで絵本の中のような光景だった。
私たちは、たしかに魔王を討った。
命を削り、すべてを懸けて、あの絶望を乗り越えたのだ。
仲間たちと並んで立った王都の広場──その誇らしげな顔が、今も瞼の裏に残っている。
式典のあと、私たち四人は一度解散し、それぞれの時間を過ごしていた。
もう剣を抜かなくてもいい。
そう信じていた。
──だが、訪れたはずの平和は、一瞬の幻にすぎなかった。
空が割れた。
夕暮れよりも深く、紅蓮よりも毒々しい紫炎が突然、王城の尖塔を貫いたのだ。
まるで、天から地獄が流れ落ちてくるような──あの色。
轟音。
煙と爆風と、炎の咆哮。
「なっ⋯⋯なんだ、これは⋯⋯」
私は無意識に一歩、後ずさっていた。
視界がぐにゃりと歪み、次に目を開けたときには、王都のあちこちから炎柱が上がっていた。
紫の炎が街を囲んでいる。
逃げ場は、もう無い。
私はすぐさま城下町から城内を目指し、駆け出した。
「みんな⋯⋯!」
胸が苦しい。
全力で走っても、間に合わない気がした。
石畳が熱を帯びている。
焼けた木々の香りが鼻を刺す。
赤子の泣き声。
悲鳴。
誰かが潰されたような音。
そんな地獄を裂くように、突如、前方の瓦礫から泥の塊がうごめいた。
「⋯⋯っ、なんだあれは⋯⋯!?」
それは、泥人形。
人の形をしているようだが、ただ、四肢をぶらつかせて、私に向かってきた。
「邪魔をするな!⋯⋯スターキヴィン!!」
風が咆哮のように巻き起こり、地を這って泥人形を吹き飛ばす。
腕がもげ、頭部が砕け、泥に還っていく。
だが、それで終わりではなかった。
「まだ来るか⋯⋯!」
瓦礫の影から、さらに数体が姿を現した。
まるで、獲物を見つけたかのように、私の行く手を塞ぐ。
「スターキヴィン!スターキヴィン!!」
連続詠唱。
喉が焼けるように痛い。
それでも、止めなかった。
進まなければ──早く、仲間たちのもとへ行かなければ。
泥の敵を振り払いながら、私は必死で走り続けた。
すると、
「⋯⋯っ、そこの者!止まれ!」
鋼の叫びが響いた。
前方に、騎士団の一団がいた。
蒼銀の鎧をまとい、剣を構える姿に、私は一瞬、安堵しそうになった。
「リーシュ様!?無事でよかった!しかし⋯⋯王城は、もう⋯⋯!」
騎士の声は、涙で濡れていた。
「状況はどうなっている!」
「状況は⋯⋯最悪です。我々は“聖戦”だと告げられ、直ちに召集されました。ですがこれは⋯⋯“聖戦”なんかじゃない⋯⋯!ただの、虐殺です⋯⋯!!」
声を振り絞るその姿に、私は言葉を失った。
「敵は、“異世界”から来た黒いエルフふたりだと⋯⋯。そして、恐らく『シュルツピア』からの襲来だと言われています」
(異世界⋯⋯以前長老が話していたことと似ているな⋯⋯)
その瞬間だった。
空が悲鳴を上げたかと思うと、頭上から紫炎の火球が降ってきた。
「危ない、逃げろ!!」
私の声が届く前に、着弾した。
轟音と衝撃。
熱風が肌を削ぐ。
私は辛うじて吹き飛ばされるだけで済んだが、騎士たちは避ける暇もなく、一瞬で焼け焦げた。
叫ぶ間もなく、声すらも奪われて──灰となって崩れた鎧の残骸が、カラン⋯⋯と音を立てて転がった。
「⋯⋯ッ、クソっ⋯⋯!」
私はまた走り出した。
「みんな⋯⋯無事でいてくれ⋯⋯!」
焼け落ちていく街並み。
悲鳴を上げて走る人々。
折り重なる死体の山。
それを焼き尽くす、重く、淀んだ炎──
私はその地獄の中を、歯を食いしばって走り続けた。
足元の熱が、靴底を溶かしそうだった。
呼吸のたび、血の匂いと灰が肺に入ってくる。
それでも、止まれなかった。
そして──
城門の前で、私は見てしまった。
いや、“見てしまった”というより、目が逸らせなかった。
どれほど願っても、視界に焼きついたそれは、消えなかった。
──血を流して倒れ伏す、仲間たち。
「リ、リーシュ⋯⋯」
「助けて⋯⋯くれ⋯⋯」
「私⋯⋯たち⋯⋯パーティー、だよね⋯⋯?」
声が震えていた。
目の光は、もう残っていなかった。
それでも、私に手を伸ばしていた。
私は⋯⋯動けなかった。
なぜか、身体が鉛のように重く、脚がすくんだ。
(嘘だろ⋯⋯どうして⋯⋯どうして、こんな──)
そして、地を這う紫紺の瘴気の霧。
それをかき分けるように、ふたりの影が歩いてくる。
ひとりは、信じがたいほどの体躯。
地を踏みしめるたびに、瓦礫が砕ける音が響く。
もうひとり──
(⋯⋯なぜ、私と、顔が⋯⋯)
自分の分身のような男がいた。
頬の削げ方も、瞳の陰も、まるで鏡写しだった。
いや、それ以上に⋯⋯“自分よりも完成された何か”を、直感した。
その男が言った。
「この霧は蘇生魔法を無効化するので──彼らはもう死ぬだけですよ」
巨躯が目を丸くする。
「おォ?弟にそっくりだなァ?お前」
「貴様が“あのお方”が言う、“いいモデル”という奴か?そして“エルフ”か⋯⋯。その貧弱さ、私こそが“本物”というところか」
声は冷たく、嘲るように。
体の奥を、爪で引き裂かれるような感覚が走った。
(もう駄目だ⋯⋯何をしても⋯⋯)
死ぬ、と思った。
心の折れた音が、耳を貫いた。
誰一人、救えなかった。
仲間の叫びにも、震える声にも、私は応えられなかった。
その場から⋯⋯敵に背を向けて走った。
「ブフッ!!アイツ逃げたぞォ?追いかけて潰すかァ?」
「兄上、奴を今殺したとて、何も面白いことはありませんよ。いずれ、私が全てのエルフを消滅させます」
あざける声が背中から追いかけてくる。
そのあと、男女の悲鳴が響いた。
それでも私は、振り返らなかった。
脚が勝手に動いた。
嗚咽を押し殺し、血と焦げた臭いの中を、ただ走った。
手を伸ばしてきた仲間の思いを、踏みにじって。
(私は⋯⋯逃げたんだ)
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今でも、あの紫炎の色が、目蓋の裏に焼きついて離れない。
あのときの声、臭い、焼けた肌の感触。
震える脚は、今も、止まっていない気がする。
だが──
私は、“生きて”ここにいる。
恐怖と、後悔と、罪の重さに押し潰されそうになりながらも、それでも、こうして息をしている。心臓が打っている。
(だったら──)
リーシュは震える拳を握りしめたあと、その手を前に翳した。
「ジャン、クート、フェリス⋯⋯許してくれとは言わないが⋯⋯烏滸がましいと思われてもいい!私をまた、パーティーの一員として受け入れてくれ!⋯⋯“アイルヴェイン・クレスト”!!」
生まれた風刃は、轟音と共に空気を裂き、ディルハイドの真正面から迫る。
冷気の盾が展開されるも──
「突き破れッ!!」
鋭い風が盾を裂き、彼の肩をかすめた。
血が滲むローブに目をやりながら、
「ほう、やっとやる気になりましたか、“偽物”よ。あのときのように逃げればいいものを」
ディルハイドの口元が、僅かに釣り上がる。
「黙れ。私はもう逃げない──この手で⋯⋯贖って前に進む!」
雷と風をまとったふたりが、ディルハイドを正面から睨みつけた。