大輔とファナは、ニシキヨが用意した馬車に乗り込んだ。
宵闇が迫る空には、ひとつ、またひとつと星が瞬き始めている。
街の灯りが遠ざかるにつれ、昼間の喧騒は薄れ、車輪が石畳を踏みしめる音と、御者台の軋む音だけが耳に残った。
「大輔、次はどこに行くんですか?」
「あっ、そういえば聞いてなかったな⋯⋯御者さんに聞いてみよう」
窓を少し開け、前方に声をかける。
「すみません、どこに向かってるんですか?」「南の国に向かっとるで!」
「南の国ってどんな国ですか?」
御者は手綱を操る手を緩めることなく、短く息を吐き、ゆったりとした声で答えた。
「陽射しが一年中やわらかくてな、海からの風が潮の匂いを運んでくるんや。夜は虫の声と波の音が子守唄やで」
ファナは窓から顔を出し、遠くの闇に目を細めた。潮の匂いはまだ届かないが、南の空はどこか温もりを帯びているように見えた。
「あとどれくらいで着くんですか?」
「そうやなぁ⋯⋯このまま走り続けたら朝には着くんやけど、道が真っ暗やから、夜に移動するのは危ないんや。せやから、途中にある簡易宿舎で一泊やな」
「簡易宿舎?」
「せや。主に南の国の行商人用に、ウチの国が作った施設なんや。ウチの国は食料に関しては南におんぶに抱っこやからな」
御者の声が夜気の中でやわらかく溶ける。
「じゃあ、その宿舎で一泊か」
大輔がそう呟くと、ファナは少し笑みを浮かべた。
「部屋は⋯⋯」
小さく間を置き、視線を伏せながら口元を押さえる。
「⋯⋯大輔と一緒ですかね?」
「⋯⋯えっ?そ、それは流石に⋯⋯」
すると、大輔の脳裏にかなたの鋭い声が響く。(お兄!ファナっちに手ぇ出したら⋯⋯わかってるよねぇ?)
背筋に冷たいものが走る。
「はい、すみません⋯⋯」
「大輔?誰に謝ってるんですか?」
周りはすっかり暗くなり、月明かりと星の光だけだった道に、やがて小さな橙色の灯が浮かび上がった。
それは一つの点から、徐々に輪郭を持ち──木の壁と低い屋根を備えた小屋の姿が現れる。
静かな夜に、暖かな色がぽつりと存在しているその様子は、まるで暗闇に咲いた一輪の花のようだった。
「あれが簡易宿舎や。日が昇る頃に出発するから、寝坊せんようにな」
御者の声が、灯の明るさに紛れて少し柔らかく響く。
馬車が小屋の前で速度を落とし、やがて静かに止まる。車輪が土の上でわずかに軋む音と、最後の揺れを伝えた。
大輔とファナが馬車を降りると、夜気と木の香りが一気に肺へ流れ込む。
遠くでは虫の声が続き、近くの灯に集まる虫が、ひらりひらりと影を落としていた。
大輔が宿舎の扉を押し開ける。
金具のギィィィ⋯⋯という音と共に、室内からふわりと温かな空気が流れ出る。
油ランプが数か所に置かれ、黄色い光が木の壁を柔らかく照らしていた。
正面には小さな受付台があり、白髪まじりの女性が編み物をしながら顔を上げる。
「いらっしゃい。二名様やね?」
「えっ?御者さんは?」
大輔は後ろを振り返る。ファナが御者の真似をしながら、
「ワシは馬車で寝るからゆっくりしてき!って言ってました」
(待て待て!本当にファナと同じ部屋で寝るのか?でも、執拗に断るとファナも怒るかもしれないし⋯⋯)
「二階の一番奥、右側の部屋や。風呂は裏の小屋に沸いとるから、使うなら先に行っとき。冷めたらアカンからな」
(もちろん手は出さないけど⋯⋯かなた、ごめん)
大輔は手を合わせ、軽く頭を下げた。
「おや、若いのに行儀ええなぁ、兄ちゃん」
「えっ?いや、ハハハ⋯⋯」
木の床は長年踏みしめられて艶を帯び、靴音をやわらかく吸い込む。
他の宿泊客の姿はなく、ここが街道の途中にぽつんと建つ小屋であることを思い出させる。
二階に上がると、廊下は一本だけ。
並んだ扉の奥からは、かすかに木枠の軋む音や、風が壁をなでるような低い唸りが聞こえた。
指定された部屋の扉を開けると、二つの簡素なベッドと、壁際に小さな机と椅子が一つ。
窓からは月明かりが差し込み、ベッドの上に淡い四角形を描いている。
ファナがベッドに腰を下ろす。
「落ち着きますね⋯⋯街の宿より、こっちの方が好きかもしれません」
大輔は窓際に立ち、外の闇を見やった。
「静かすぎて、逆に眠れないかもな」
そう言いつつも、その声もすぐに木の壁に吸い込まれていった。
薄く開けた窓から入り込む夜風が、ランプの火をわずかに揺らした。
ファナはその灯りをちらりと見て、柔らかい表情を見せる。
その仕草が、やけに生活感を帯びて見え──大輔は何故か胸の奥がむず痒くなる。
「あ、ファナ、先に風呂行っといでよ」
(は?何だその「先にシャワー行って来いよ」みたいな感じは!落ち着け俺、そんなことは一切無い、無いからな!)
するとファナは少し顔を赤くして、俯きながら、
「はい⋯⋯行って来ます」
そう言って、部屋を出て行った。
大輔は、ファナの足音が聞こえなくなったのを確認してから、ベッドに横たわり、頭を抱えてジタバタする。
「あああああ!何でファナも満更でもない顔してんだよ!おかしいだろ!違う違う違う!そんなんじゃないから!」
大輔の脳内にはかなたが睨みをきかせている。
「かなた⋯⋯俺は耐えるぞ⋯⋯」
仰向けになり、天井を見つめていると、あのウィンドウが現れた。
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「ゆうしゃさま しょや ですね (ニチャァ)」
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「ジョルジュ!!茶化すんじゃねぇ!!ってかこのタイミングで見てんじゃねぇよ!!このエロジジイ!!」
大輔がキレると、フッとウィンドウは消えた。
(⋯⋯でも、ジョルジュが見てるかもしれないって思ったら、少し冷静になってきたな⋯⋯いや、それはそれで嫌なんだけどな⋯⋯)
複雑な心境の中、大輔はふと思った。
(そういえば、異世界に来て日を跨ぐのは初めてだな。ノエルナ村は内容は濃かったけど、たぶん数時間だったしな。この世界での依頼達成条件は、モノマヒアでの優勝だけど⋯⋯まだどこの代表になるか決まってないし、出来ればファナは戦いに巻き込みたくないし⋯⋯そもそも、この世界にいつまでいることになるんだろう)
段々と不安なことが増えてきたところに、突然、部屋のドアが開く。
部屋の外の夜気をまとって、ほんのり湯気の残るファナが入ってきた。
髪の先から水滴が落ち、床に小さな点をつくる。
色白の肌は少し赤みを帯びていた。
(かなた、俺を殴れ!もちろん手は出さない!でも、このビジュアルは危険だ!)
動揺する大輔は、棒読みのセリフのように、「あ、あれ、上がるの早くない?」
「そうですか?もうちょっとでのぼせそうなくらい入ってたと思いますけど?」
ファナは髪をタオルで拭きながら、ベッドに腰掛けた。
(時計が無いから時間経過が分からないけど、そんなにぼーっとしてたか)
「そっか。じゃあ俺もひとっ風呂浴びてくるよ」
「はい、行ってらっしゃい」
大輔は宿舎の裏の、風呂小屋に向かった。