大輔とファナは宿舎の外に出た。
早朝の空気がひやりと肌を撫でる。
馬車に乗り込むと、すぐに車輪が土を踏み、湿った音を響かせながら進み出す。
御者が言っていた、「真っ暗な中を走るのは危ない」の意味が、すぐに分かった。
道は一応舗装されてはいるものの、少し外れれば黒く沈む湿地帯──一度落ちれば、足場も視界も奪われ、どうにもならなくなるだろう。
道の途中には、所々にすれ違うためのスペースがあり、度々セオカトからの行商人が大きな荷物を背負って待っていたり、台車を引いた者もいたりと、輸送はひっきりなしに続いていた。
それでも、彼らは馬車を見ると、にこやかにこちらに手を振る。
大輔とファナはそれに応え、手を振っていた。
「南の国の人たち、みんないい人そうだな」「はい、楽しみですね」
その声を最後に、大輔の瞼はじわじわと重くなる。
馬車の揺れが子守唄のように体を包み、意識がゆっくりと沈んでいく。
「大輔、寝てても大丈夫ですよ?」
「⋯⋯うん、でも⋯⋯」
言いかけた言葉を、柔らかな両手がそっと遮った。
「⋯⋯じゃあ、ちょっとだけ、こっちに」
囁きはあくまで自然を装っているが、その声色はどこか甘い。
頭をやさしく抱き寄せられ、視界はゆっくりと左へ傾く。
頬に触れたのは、手の温もりよりさらにやわらかな感触。
(あ⋯⋯これは⋯⋯)
昨夜、大輔が眠れなかったことを気にしているのだろうか。
指先が大輔の頭を撫でるたびに、疲れと緊張が溶けていく。
その心地よさに抗えず、大輔は深く息を吐き──静かに眠りに落ちた。
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「⋯⋯にいちゃん!デスピサロが強すぎて倒せないんだよ」
「大輔、とっておきの裏技があるんだぞ?」
「え?何で逃げてるの?逃げられないのに」「まぁ見てろって」
「にいちゃん、やられちゃうよ?まだ逃げるの?」
「“にげる”を8回やったあとに攻撃するとな⋯⋯」
「えっ!こうげきが全部“かいしんのいちげき”になってる!」
「そうだ、これで楽に倒せるんだ」
「にいちゃん、すごい!」
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「⋯⋯すけ⋯⋯大輔?着きましたよ?」
「ん⋯⋯うん?」
大輔が目覚めると、窓の外には賑やかな街中の風景があった。
(何だ今の夢⋯⋯俺に兄貴なんて⋯⋯)
木枠と布で作られた露店が道の両脇にぎっしりと並び、干した魚の匂い、焼き立てのパンの香り、香草の爽やかな香りが入り混じって鼻をくすぐった。
人々は軽やかな足取りで店と店の間を行き来し、商人は声を張り上げ、客は笑いながら品を手に取る。
メガロフォスで見た商店や子供市場とは違い、簡素な作りではあるものの、活気づいている。
「兄ちゃん!セオカトに着いたで!もう少ししたら使者が迎えにくるから、ついてってな?」
「はい、分かりました。長時間お疲れ様でした。ありがとうございました」
大輔とファナは馬車を降り、御者と別れた。
「いっぱいお店がありますね!ちょっとだけ見てみませんか?」
「下手に動くと迎えに来てくれる使者に迷惑かかるぞ?」
「あっ⋯⋯そうですよね⋯⋯」
少しだけシュンとしたファナが、おもむろにローブのポケットに手を入れると、ムームーが吐き出した緑色の石が入っていた。
(あ、これ⋯⋯ペンダントにできないかな?)
ファナが周囲を見回すと、通りの端にこじんまりとした雑貨屋が見えた。
軒先にはガラス細工や革紐のアクセサリーが吊るされ、きらきらと輝いている。
「大輔、すぐ戻るので⋯⋯あのお店に行ってみてもいいですか?」
「あぁ、そこならいいよ」
ファナは小走りで雑貨屋へ向かい、木製の扉を押して中へ入った。
軋む音とともに、木の匂いとほんのり甘いオイルの香りが鼻をかすめる。
「あのー、すみません」
ファナが声をかけると、カウンターの奥から白髪まじりの髭を生やした店主がにこやかに現れた。
「お嬢ちゃんいらっしゃい、何か欲しいものがあるのかい?」
「この石をペンダントにしてほしいんですが⋯⋯」
ファナが店主にムームー石を見せると、
「は?えっ⋯⋯ええええええええええええええええええええ!!」
その叫び声は店の外まで聞こえたらしく、道行く人たちが窓から店内を覗いていた。
「あれ、まだムームーのよだれついてましたか?」
ファナはムームー石をひっくり返したりしながらまじまじと見つめていると、店主の顔から血の気が引いていた。
指先を小刻みに震わせながら、ファナに手招きして近くに寄せ、小声で、
「お、お嬢ちゃん⋯⋯これ、どこで⋯⋯?」
声はかすれて、今にも裏返りそうだ。
「西の国の、かんてい?っていうところにいたムームーがくれました」
店主は息を詰めたまま数秒固まり、ようやく大きく吐息を漏らした。
「⋯⋯その石は“ムームー石”って言ってな、世界的にも超がつくほど貴重な宝石だ。今じゃ博物館でしか見られない。その価値は⋯⋯そうだな、町をいくつもまるごと買えるくらいだ」
「へぇ~、そうなんですね」
ファナには全く見当がつかず、そもそも興味がなかった。
店主は呆然としたまま数秒、それから自分の声の大きさを思い出したのか、
「いやぁ⋯⋯まさか本物をこんな間近で見れるとは思わなくて叫んじまった⋯⋯ハハハ⋯⋯」
と年甲斐もない照れ笑いを浮かべた。
そしてふっと目の奥を輝かせる。
「お嬢ちゃん、俺で良ければ、その石でペンダントを作らせてくれないか?」
「本当ですか?でも⋯⋯」
「いやいや、盗んだりしないさ」
「いえ⋯⋯今、お金を持っていないので、また出直して来ます」
「なーに、お代は気にしなくていい。こんな仕事、何回生まれ変わったって出来やしないからな」
店主は震えていた指をようやく落ち着け、今度は職人としての誇らしげな笑みを見せた。
ファナは申し訳なさそうに唇を噛みながら、握りしめていたムームー石を差し出した。
石は光を受けて淡く輝き、店主の手に移るとき、ほんの一瞬だけ温度を持ったように見えた。
「じゃあ⋯⋯よろしくお願いします」
「あぁ、確かに預かった。そうだな⋯⋯明日の夕方には渡せるように、俺の職人人生を懸けて作らせてもらうよ」
言葉と同時に、店主の眼差しが鋭く、そして優しく光った。
「それと、一応名乗っておこうか。俺はヴァーゴっていうんだ。よろしくな」
「私はファナって言います」
「ファナちゃん、ね。いい名前だ。じゃ、明日の夕方、またおいで」
「はい!ありがとうございます!」
ファナは石を預けた手の感触を胸に残したまま、ぱっと花が咲いたように笑顔を見せた。
ヴァーゴもまた、年甲斐もなく頬を緩めた。