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第三話

 ミューズは伯爵邸に戻り、「良い人はいたか」という両親の追及を躱し自室のベッドに寝ころぶ。

「どうしたんです?お嬢様」

 ミューズにつけた髪飾りを外しながら、セシルはそう尋ねた。彼女はパーティーの間は夫のダイデン子爵と行動を共にしていて、ミューズの動向を何一つ知らない。

「セントル公爵に……結婚しないかって……」

「ああ、あのセントル公爵……え、プロポーズ!?」

 セシルはお世辞にも目を輝かせているとは言えない怪訝な表情をしている。

(家格に見合わない名声の低さは想像以上に広がっているのね……)

「ま、まあ生活には困りませんものね。それに私の住まいもニューヤド領とセントル領の境界近くですから、お嬢様に付いて行けますし」

 サンパング国の子男爵位の貴族は領地を持てない。ダイデン子爵邸はニューヤド領にある。労働者階級の一般市民だったセシルの母とミューズの母キャロンは学園時代の友人で、セシルはメイドとして幼い頃から伯爵邸に出入りしていた。そして、同じく伯爵邸に出入りしていたダイデン子爵令息といつしか恋仲になっていた。

 そんな生粋の恋愛結婚であるセシルにとってはミューズの結婚観は理解し難いものだろう。

「そうよね……」

 ミューズは半ば呆けた様子でそう答えた。今まで逃げ続けた問題と、その解が迷う面にきて、逃げられない所まで来てしまっている。それゆえの思考の放棄である。

「え?受けないんですか?お嬢様が夢のことを話した上で求婚してくださる方なんて早々いませんよ?」

「え、ええ……」 

 ミューズもそれはよく分かっていた。実際、セントル公爵の提案はかなり好条件だった。元々最低限の社交はしなければならないことで、それ以外の母親としての役目もさほど苦痛ではなさそうだった。それでも、気がかりなことがある。

「もーお!お嬢様ったら、連絡先も貰ったのでしょう?何か気になるなら今!今すぐ聞きましょう!」

 セシルはセントル公爵の連絡先が書かれた紙を持って、部屋に置かれた電話機へと走る。5年前に発明家によって作られた電話機は貴族から労働者階級に瞬く間に広まり、今では労働者階級の家に一台、貴族一人に一台持つようになった。

「ちょ、ちょっと!何勝手に……」

 腕を掴まれて制止させられたセシルは静かに一点を指さす。その先には壁掛け時計がある。21時1分。セシルがメイドの業務を行うのは21時までだ。法律上、業務時間を過ぎれば主従関係はなくなり、命令することはできない。

ミューズが制止した手を放すと、セシルは意気揚々と電話機のダイヤルを回し始める。

「親友として言うけれど、ミューズは自分の興味のないことにはとことん腰が重いの、どうにかしないと」

「だからってこんな急に……。それに連絡先を貰ってすぐになんて」

「急な連絡をできるように発明されたのが電話機じゃない。それに、モタモタしていたら他の女性に取られてしまうわ。例のことがなければ、彼は穏やかで誠実だと評判……あ、かかったわ」

 セシルは受話器を押し付け、帰り支度をして部屋を出て行った。

『……はい。ノアです』

 ベルの音が途切れて聞こえた声にビクリと肩を震わせる。これは恐怖か、驚愕か、それとも。

「あ、ミューズ・ラ・ニューヤドです。ごきげんよう」

『……これはごきげんよう、ミューズ嬢。どうかなさいましたか』

 一瞬、驚いたような声色だったが、すぐにそれは穏やかなものに変わった。

「その、思うことがあれば掛けて良いと仰いましたので……」

『はい。何でもどうぞ』

「その、こ、子どもは急ぎますか?」

(聞いてしまった。こんなことお母さまに知られたら「淑女がはしたない」と言われてしまうわね)

『……はい?』

 セントル公爵は意図を掴みかねているようであった。

「実は今、夢を叶えるために正念場というか、しばらくの間は専念したいのです。もしお急ぎであればご期待には沿えないと思います」

 ミューズにとって一番の懸念事項はこれだった。いくら乳母やメイドがいると言っても自分の子かつ公爵家の跡取りとなれば勝手が変わってくる。そして体調不良になることを含めれば、夢を追う時間が取れなくなってしまう。

(他にも理由はあるけれど)

『……あまり急いではいませんよ。どちらかというと子供たちの母親役を見つけることを優先していますから』

「母親を?」

『実は、近々行われる一番上の子の婚約式の体裁を整える必要が……』

 セントル公爵はそこで言葉を切り、少しの沈黙が流れる。

(喋り過ぎた、とでも思っているのかしら)

「そういうことでしたか。すみません、立ち入ったことを聞きました」

 労働者階級とは違い、離婚に厳しく体裁を気にする社交界では、若くして死別した貴族は大抵すぐに後釜を見つけるものだ。特に、子の結婚や正式な場で家族が欠けている状態は好ましくないとされている。

『いいえ。それに、もしミューズ嬢が子どもを望まないのであれば、姉の第二子以降の子か父方の親戚筋をあたります。案外抜け道はあるものです。貴女に無理を強いることはしません』

 そう言ったセントル公爵の声は、王城のバルコニーで話した時よりも明るいようにミューズは思った。その時、先刻セシルが言っていた「モタモタしていたら他の女性に取られてしまう」という言葉を、なぜだか思い出した。

「……お引き受けします」

『はい?』

「ですから結婚の提案を、お引き受けします」

 柄にもなく、心臓が早鐘を打っていた。

『よろしいのですか?』

「はい。何より、公爵家で引き取られた子どもたちが、まるで厄介者のように社交界で扱われ続けるのは気分の良いものではありませんので」

 ミューズのその気持ちに嘘はないはずなのに、どこか後ろめたさを感じた。


 一か月後。

 ニューヤド伯爵邸の私室で一人、ミューズは受話器を耳に当てながら空に浮かぶ月を眺めていた。皇城のバルコニーで見た時と、形が全く同じ月である。

「いよいよ明日ですね、セントル公爵」

『はい。早いものです』

 皇帝誕生日以来、ミューズと公爵は会えていない。代わりに3日に一度は婚約に向けての調整を兼ねて電話のやり取りをしていた。明日はミューズの両親とセントル公爵の顔合わせがある。

「明日は午後一時にお越しください。何か伝えておくことはありますか?」

『伝えておくことというか、提案があるのですが』

「なんでしょうか」

『ファーストネームで呼び合いませんか。一応夫婦になる関係性ですから』

 ミューズの両親は、「紹介したい人がいる」と話した時、声をあげて喜んだ。しかし相手がセントル公爵だと伝えると心配そうな表情を見せたものの「娘の好きになった人なら」と渋々納得していた。

 これが愛のない結婚だと知ったら大変なことになる。公爵家といえども容赦しないかもしれない。両親はミューズに対して、少々過保護なところがあるのだ。

(ところで、彼のファーストネームなんだったかしら……)

『ノアとお呼びください、ミューズ』

 少し笑いを含ませた彼の声に、考えを読まれたか、とミューズは一瞬狼狽した。

「は、はい、ノア」

「話し方も、わざわざ敬語を使わなくても良いですよ。堅苦しいでしょう」

「……分かったわ。ではノアもそのように」

「ああ。これで俺たちは夫婦だ」

 愛のない、ただ義務を果たすためだけの契約結婚。それでも2人はこれ以上ない良い結婚だと確信していた。


「セントル公爵閣下、ようこそお越しくださいました」

「お久しぶりですニューヤド伯爵閣下」

 いつも母キャロンの尻に敷かれている父ルーカスだが、今日はシャツのボタンが今にも弾け飛びそうなほど胸を張り、たくわえた口髭を触りながらノアを凝視している。一方のノアは笑顔を絶やさず、静かに一礼した。

 応接間にはミューズの両親、兄のマーティンとその夫人クロエの4人に対しミューズとノアは向かい合って座った。

 本来であれば両家が向かい合う形になるのが正式だが、ノアの両親は既に亡くなっていることと、姉ミュリエルは皇太子妃としての公務があるため二人で隣に座った。これは「二人の仲の良さをアピールしましょう」というノアの提案だった。

 一か月の間、ノアと電話で話していてミューズは気づいた。彼は穏やかな物腰だが、案外策士だ。本来の性格は穏やかなのだろうが、公爵家の跡継ぎとしての矜持がそうさせているように見えた。

「本日はお時間をいただきありがとうございます。今日はミューズ嬢との婚約の挨拶に伺いました」

 その言葉に、張り詰めた空気が応接間を包み込む。ミューズは両親が完全に納得していなかったことを思い出して身構える。その空気を破ったのは、父ルーカスだった。

「ノア君、いやセントル公爵。こう言ってはなんだが……本当に娘でよろしいのですか。娘はなんというか、かなり変わっている所があるのです」

(そっち?)

 ミューズは怪訝な表情で父を見つめた。

「ははっ。確かにミューズはかなり変わっている。ノア大丈夫か?」

 兄のマーティンも父の言葉に同調しクロエ夫人は必死に笑いを堪えている。母は父と兄を軽く叩いて窘めているが、反論する様子はない。

「私はミューズのそのような所も愛しております」

 ノアは笑顔で歯の浮くようなことを言った。父の問いは電話でやり取りをする中で想定していた質問の一つだった。その際に二人で決めたのがこのような返答だ。ミューズは照れたような顔して見せるが、実際のところ寒気がしていた。

「それで、結婚はいつになさるの?その前に婚約式かしら?楽しみねぇ」

 母のキャロンが朗らかにそう尋ねた。相手がなんであれ、娘にようやく結婚の兆しが見えたことで、いつもより活力がある。

「三か月後を目安に、婚約式はせずにそのまま籍を入れようと考えています。結婚前に我が邸宅で共に暮らし始めようかと考えております」

 サンパング国では婚約後から結婚までの期間中、一緒に住む場合が多い。労働者階級の場合は二人で家を借りることもあるが、貴族の場合は跡継ぎとなる方の邸宅に住む。ノアとミューズの場合は、ミューズがセントル公爵邸に住むことになる。

「一か月後には公爵邸に行きたいと思っています」

 ミューズは目の前の家族を見据えてそう言った。覚悟を決めたその目に、両親の困惑した表情はなくなっていった。社交界で“行き遅れ”と囁かれた娘がようやく結婚できることへの安堵の方が大きいようだった。

「分かりました。セントル公爵、ミューズのことをよろしくお願いします」

「大変なこともあると思うけれど、二人で幸せになるんですよ」

「ノア、妹に振り回されるんじゃないぞ」

「ミューズちゃん、お幸せにね」

 それぞれ思う所はあれど、ニューヤド家の家族はみな2人の婚約を承認したのである。

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