その夜。
湯浴みを終え、もう寝ようかという頃。ミューズの部屋のドアがコンコン、と二度鳴った。訪問者は母キャロンだった。ゆったりとした部屋着であるところを見るに、彼女ももう寝る直前のようだった。
「どうかしましたか?」
ミューズはルイボスティーを夜勤のメイドに淹れさせ、椅子に腰掛ける。キャロンはそれを一口飲むと口を開いた。
「……本当に大丈夫なの?一人でも大変なのに、いきなり10人の子の母になるなんて絶対苦労するわ。明日の昼にはあなたたちの婚約が新聞に載ってしまうと思うけど……」
ノアが帰る時、伯爵邸の門前に記者が数人集まっていたのを全員が見ていた。貴族のゴシップはこの国の娯楽の一つであり、何かしらの記事になることは避けられない。
「大丈夫ですよ。割と良い条件を頂いていますから」
「条件?」
キャロンの鋭い視線が突き刺さり、ミューズは思わずティーカップに視線を落とした。
「い、いや……その、私に負担がかからないようにすると言って貰っていますから」
「それは愛する人なのだから当然でしょう?そうしていても苦労する、ということです。子どもを育てるという責任は、生半可な覚悟で負えるものではないのですよ」
マーティンが中等学園の頃は大変で……、あなたは寝つきが悪くて……、と何度となく聞かされた話を受け流す。
「本当に大丈夫です。ちゃんとノアに頼って、無理はしませんから」
ミューズは当然、生半可な覚悟で結婚するつもりなどない。かといって立派な継母として子の手本となれるかという確固たる自信がある訳でもない。けれど、それ以上に結婚問題でこれ以上立ち止まりたくなかった。そんなミューズの言葉に、キャロンの顔に影が落ちる。持っていたティーカップをソーサーに置き、両手を握った。
「あの時はごめんなさいね。でも、あなたに愛する人ができて良かったわ」
「……家の、名誉のためにですか?きっと、私がきちんと結婚して子どもができれば、全てが無かったことのようになるでしょうね」
ミューズは思いの外冷たい声を出してしまったな、と思った。実際心は冷え切っているのだから仕方がないのかもしれない。『あの時』のことはもう、何の感情も湧いてこないのだから。私が「穢れたビスクドール」と呼ばれることになった、「思い出したくもないこと」は。
「違う!そうではなくって……」
キャロンは苦い顔をして暫く逡巡した後、再び口を開いた。
「あなたがそういった類のことを忌避しているのは分かっているわ。でもね、このまま逃げ続けて、嫌々好きでもない人と結婚する方があなたにとっても私達家族にとっても地獄でしょう?」
(地獄……)
「そうかもしれませんね」
キャロンが部屋を出た後。ミューズは電話機の受話器を取り、暫くして戻した。ノアに頼るべきなのか、そもそも頼っても良いのか、分からなかった。
翌朝。ニューヤド伯爵家はいつもより騒がしい朝となった。
『セントルの独り身公爵と直情径行な令嬢が滑り込み婚約か』
新聞の一面に大々的に報じられていた文言にミューズは溜息を吐いた。
「言い方ってものがあるじゃないの……」
「本当ですよ!『貴族初のシングルファーザー公爵と気ままな行き遅れ伯爵令嬢。身の固まる宛がないと思われた難ありな二人がここに来て婚約。妥協か、間に合わせか。なんと奇々怪々な婚約であろうか』ですって!何なのよ、こんな記事を書いた社会部のオスカーって人は!」
(読み上げなくてもいいじゃない……)
ミューズはセシルの手から新聞紙を取り上げ、折りたたんでゴミ箱に投げ入れた。
貴族といえども新聞などの出版物や演説の内容を把握し規制することはできない。出版された後に内容について意見を述べることはできるが、あまりにも多く、一つ一つに対応することはできない。
「さ!今日はリリアナ様主催のお茶会ですよ。そろそろ準備なさいませんと」
リリアナ・ラ・シブリヤ。財務を取り仕切るシブリヤ侯爵家の令嬢で、ミューズの学園時代からの友人だ。二週間後には医師を志す労働者階級の男性との結婚式を控えている。今日のお茶会は彼女の結婚祝いに貴族令嬢たちが集まる予定だ。
「行きたくないわぁ」
(リリアナだけなら良いんだけど……)
同世代の貴族令嬢の間でもミューズは浮いた存在である。そんなミューズの唯一の友人がリリアナだ。
「もう、お嬢様ったら。お茶会の前日に婚約の挨拶としたのはお嬢様でしょう?」
「すっかり忘れていたのよ。記事はもう皆さん読んでいるわよね……」
国民共通の情報媒体である新聞で報道されてしまったから、皇帝誕生日のパーティー以上に針の筵状態だろう。主役のリリアナより注目されてしまうことも本意ではない。
「みなさん良い方ですし、今から欠席するわけにもいかないでしょう?ほら、起き上がってください!」
セシルは勢いよくミューズの背中を叩いた。ミューズは重い身体を起こし、支度を始めた。
シブリヤ侯爵家はニューヤド伯爵家より馬車で30分の距離にある。この国の財務を取り仕切る家ということもあり、ニューヤド領よりも警備が厳重になされ、街の至る所で騎士が巡回していた。
馬車を降りて、セシルと共に侯爵家の門をくぐり招待状の確認と手荷物検査を終えると、2人は大広間へ通された。セシルは今日、ミューズのメイドとしてではなく「ダイデン子爵夫人」としてこのお茶会に参加する。
すっかり晴れ渡った空と、色とりどりの花が植えられた庭園が良く見える一面のガラス窓を有する広間には、すでに沢山の女性が集まっていた。
「ミューズ……!ダイデン子爵夫人も!」
好奇心をまとった視線が集まる中、リリアナがミューズとセシルの元へ一目散にやってきた。
「シブリヤ侯爵令嬢、改めてご婚約おめでとうございます」
「そんな堅苦しい挨拶は良いのよ。それより大丈夫なの?色々書かれていたようだけど……」
「そうですよ、ニューヤド伯爵令嬢!私もう心配で……」
「私もですわ」
リリアナの言葉を皮切りに、続々と3人の周りに令嬢たちが集まりミューズを慮る言葉をかける。この状況に、ミューズは拍子抜けした。
(もっと嫌な言葉をかけられるものだと思っていたわ……)
新聞に書かれていたような嫌味を囁かれるものだと思っていたミューズにとって、予想外の事態であった。
「ごきげんよう、皆様方」
一際よく通る声に、ミューズだけでなくそこに集まっていた全員が声の方を向いた。そこに立っていたのは煌びやかなドレスを纏い、長い赤髪をウェーブ巻きにした女性だった。彼女はミューズたちの一塊をぐるりと見渡す。
「ごきげんようハーバー公爵令嬢」
アメリア・デュ・ハーバー公爵令嬢。サンパング国の経済と外交を取り仕切るハーバー公爵家の長女で、皇太子の弟であるリアム皇子の婚約者である。そして、ノアの元婚約者だ。
「ミューズ様」
矢のように真っ直ぐな声に名前を呼ばれミューズが顔を上げると、アメリアはミューズの頬に手を添え、真っ直ぐにミューズの目を見据える。
(声が、出ない……!)
セシルがアメリアを制止しようとするが、すぐに払い除けられてしまう。アメリアはミューズの耳元に口を近づけた。
「あまり舐めないことね。貴女、すぐに投げ出すんじゃなくって?公爵家の夫人がどういうものか、とても分かっているようには見えなくてよ」
「……善処、いたしますわ」
どうにか声を絞り出しそう答えると、アメリアは手を放し他の令嬢と共に広間の奥へと進んで行った。その圧倒的なオーラに、ミューズも周りの令嬢たちもしばらく動けないでいた。
「ミューズ、あまり気にしないで」
リリアナがポン、と背中を叩き励ました。セシルもそれに続き、ミューズの手を握った。
「そうですよ。アメリア様も皇子様と長らく会えておらず気が立っておられるのでしょう」
アメリアの婚約者、リアム皇子は、今年の始めから外国留学をしている。2人の結婚式は2カ月後に控えているが、その直前まで2人は会えないそうだ。
(これは、恋愛のいざこざというもの……かしら?)
ミューズは学園時代にリリアナに勧められて読んだ恋愛小説を思い出した。
「ははは、そんなことが」
お茶会から数日後。
セシルはとうに帰宅した深夜。今日、ノアが旧隣国に出張していることを思い出すと、ミューズは教えられていた出張先に電話を掛けた。
お茶会でのアメリアとの一件を手短に話すと、着替えやら就寝の準備をしながら聞いていたノアは声をあげて笑った。
「そんなに面白いことを言ったかしら」
「いいや。アメリアも随分と元気になったな、と思っただけだ」
受話器越しに聞こえるノアの声は、どこか含みがあった。笑っているようで、どこか安堵しているように聞こえる。
「学園にいた頃もあのような感じではなかった?といっても、あまり話したことはないのだけど」
アメリア・デュ・ハーバー公爵令嬢は、公爵家の第一子であり跡継ぎという肩書きに相応しい人物だった。成績は常に上位、学園では生徒会長を務め上げ、生徒同士の喧嘩の仲裁をするなどし、人望を集めていた。外交を取り仕切るハーバー公爵家の令嬢として、常に他国の情勢を読み、先の戦争中には高等学生ながら御前会議に参加し、終戦に導いた立役者でもある。
「……アメリアは俺と婚約して、共に生活をするようになってから心の病に侵されてしまったんだ」
(あの、アメリア様が……!?)
国の英雄とも評され、ノアとの婚約発表時にはセントル公爵家への嫁入りが惜しまれたほどの彼女が心の病を患う出来事とは何なのだろうか。
あまりの衝撃にミューズが黙っていると、ノアはアメリアとの過去について話し始めた。