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第五話

 ノアとアメリアは幼い頃から同じ公爵家として交流があったが、正式に交際を始めたのは高等学園に進学してからのことだった。在学中に婚約し、卒業後から同居を始めた。

 アメリアはハーバー公爵家の第一子で、ノアはセントル公爵家の第二子。国の法に則ればノアがハーバー公爵家に婿入りする筈だ。しかし二人は例外だった。ノアの姉ミュリエルが皇太子オリバーと結婚していたためだ。

第一子であっても、自身の家より上位貴族の相手であれば婿入り・嫁入りすることが出来る。そして、セントル公爵家の子どもはノア以降いない。そのため弟がいるアメリアが嫁入りする形となった。

 アメリアは完璧主義だった。公爵家の第一子として生まれ、物心ついた頃から国を背負って立つ人間として完璧であろうとした。学園の生徒たちとそうしていたように、セントル公爵家の養子たちと上手く関わろうと頑張りすぎてしまった。様々な事情で孤児となり深い傷を抱えている子どもたちと、生まれてから衣食住に困ることのなかったアメリアとでは、どうしても溝がある。今までとは違う環境と上手くいかない現状に、彼女はひとりで抱え込みすぎてしまった。

 眠れなくなるところから始まり、段々と集中力が落ちていき、部屋に閉じこもりパーティーも欠席するようになっていた。

 その頃、ノアは父に付いて公爵としての仕事を日々学んでいた。併合した旧隣国を含む外地への視察など出張が重なり、気づいた時にはアメリアはげっそりと痩せノアにさえ笑いかけなくなってしまった。アメリアは心の病という診断が下り、両家での話し合いの末に婚約は破談となった。

 ノアはすぐに新しい女性と付き合うことはしなかった。時間を見つけてはアメリアの元へ顔を出していた。

「……きっと復縁できると思っていたんだ。あの時は」

 しかし、アメリアはノアが来ても困ったように笑うだけで、空いた心の距離が再び縮まることはなかった。

 それでも、アメリアの顔色は日に日に良くなっていった。彼女の心を取り戻している“何か”が確実にあった。

「俺は見ないふりを続けていたんだ」

 アメリアが元気になっているのは、日ごとに増えていく絵とそれを持ってくる人物のおかげであること。それが高等学園時代に同じ生徒会だったアメリアの後輩、皇子リアムであることを。

 ノアはもはや義務的にアメリアの元に通うようになっていった。それは、婚約者の苦しみに気付けなかった罪滅ぼしのようなものだった。

 婚約破棄から一年が経った頃。ノアがいつものようにハーバー公爵家を訪れると、外の門からアメリアの私室が見えた。

「皇子様とアメリアが抱き合っていたんだ」

 ノアは小さく溜息をつき、咳払いをする。そうすると、憑き物が落ちたかのように晴れやかな声色に変わった。

「それから、アメリアの元に行かなくなった」

 皇子とアメリアの婚約が報じられたのは、その一週間後のことだった。


「アメリアはきっと、ミューズが自分のようにならないか心配なのだろう」

 ノアはすっきりとした声でそう言う。彼はアメリアのことはよく分かっているようだった。

(何年も一緒にいたものね)

「……ノアは未だアメリア様のことが好きなの?」

「好き……なあ。もう随分と前のことだから」

 淡々とした言葉の割には、否定も肯定もしない曖昧さからは複雑そうな印象を受けた。そのことが、ミューズのどこかに妙に引っ掛かった。

「……割り切れないものもあるわよね」

「ミューズは恋愛の類は分からないんじゃなかったか」

「それでも、人の心の機微は感じられるわ。あの時こうしていれば、と思うことくらい誰にでもあることよ」

 ノアがアメリアに未練があるのか、それとも恋愛感情以外のところで心残りがあるのか。ミューズはきっと後者だろうな、と思った。ノアの話からは、恋愛の空気というよりも苦くて重い感情が見え隠れしていた。

(そもそも、今は恋だとか言っている場合じゃないわね)


 一か月後。

 よく晴れた昼下がり。セントル公爵家では、ミューズの引っ越し作業が終わったところであった。ミューズは公爵家に用意された部屋で、セシルと共に荷解きをしていた。その部屋は伯爵邸の私室よりも広くできており、ベッドに使用されるリネンや家具一式に至るまで上質なものだ。

「思ったより荷物が少ないんだな」

 様子を見に来ていたノアが、部屋を見回した。用意されていたクローゼットも本棚も半分ほどしか埋まっていない。

「ドレスは元々少ないし、本も厳選したわ。一応結婚前だもの」

 とはいえ、ここまで大きなものを用意されていたのなら、もう少し持ってきても良かったかもしれない。ミューズはそう思った。

「ティータイムにうちの子たちを紹介するから、食堂に来てくれ」

(子どもたち……!)

 ミューズが公爵邸に到着した時、子どもたちはまだ学園に行っており未だ顔すらも知らない。生い立ちがまるで違う子どもに会うのは初めての経験だ。

(まずは仲良くならないとね)


 午後3時。

 セントル公爵家付きのメイドに案内されて食堂に入ると、すでにノアと子どもたちが集まっていた。まだ幼い子から、高等学生まで男女の偏りなく一つのテーブルの席についている。背丈から見るに、年齢順に座っているようだった。

「皆様初めまして。ノアの婚約者、ミューズ・ラ・ニューヤドです」

「茶を飲みながら話そう」

 複数の目が追う中、ノアの目の前に空いた席に座ると、数人のメイドたちによって紅茶と茶菓子が運ばれてきた。

「上からアリーナ、テオ、エリオット、ローズ、グレン、アンジュ、セレーネ、イアン、ジャスミン、ロイだ。みんな、この女性はこれからみんなの母親代わりになる人だ」

 大きなテーブルに並んで座った子どもたちは訝しげにミューズを見ていた。幼い子たちは何ごとかよく分かっていないように目を丸くしているが、物心ついた年上の子たちは各々、多様な感情を含んだ視線を送っている。

「俺は認めないからな。」

 ふいに1人の少年が立ち上がりそう言った。座っている場所からして年齢は上から2番目の子だ。

「テオ!」

 ノアが少年を諫めたが、その少年は止まらずに居間から出て行った。それを皮切りに他の子どもたちも続々と外に出ていく。残ったのはミューズとノアの他に、一番上の少女と1人の少年だけだった。

 少女は俯いており表情はよく見えず、少年は怯えたようにミューズを見ていたが、意を決したように立ち上がった。

「あ、あの……ご、ごめんなさい!」

 その少年は思い切りミューズに頭を下げて走り去っていった。食堂はシンと静まり、メイドたちが粛々と子どもたちの食器を片付けていく。

(やっぱりそう簡単には受け入れられないわよね……)

「あの……」

 俯いていた少女がおもむろに口を開いた。少女……と言っても、その容貌は大人に近い。小さな宝石があしらわれたバレッタで、肩まで伸びた艶のある黒髪をハーフアップに纏めていた。

「この子が、以前言っていた婚約を予定している長子、アリーナだ」

 ノアは静かに紅茶に口をつけた。

(この状況は予想通りなのね)

「私の婚約のためでしょ?ミューズ様との結婚を急いでいるのは」

 アリーナはそうノアに問うた。それまで涼しい顔をしていたノアは顔を歪めた。

「相手が労働者階級の人ならまだ良かったんだが……」

「相手?」

(そんなに格式張る必要があるの……?)

 公爵邸で引き取っているとはいえ、アリーナはセントル公爵家の正式な養子ではない。いち労働者階級の少女の結婚相手が、形式や体裁を気にするものだろうか。

「……ハーバー公爵令息です」

「ハーバーって……!」

「ああ。アメリアの弟で、次期公爵だ」

(公爵家、そう。公爵家ね。それはちゃんとしないといけないわね……)

 ミューズは納得せざるを得なかった。

「顔合わせはもう済んでいるんだ。婚約式までにアリーナは正式な養子にすることも決まった。いざ婚約式の詳細を決めようという時に両親が……」

 そこで言葉は途切れ、二杯目の紅茶が注がれる音だけが響いた。つまり、ノアが結婚するまでアリーナの婚約式はお預けになったのだ。

「それにしても、よくハーバー公爵家がアリーナと令息の婚約を承諾したわね。アメリア様とのことがあったというのに」

 ミューズは紅茶に口をつけた。暖かな葉の香りが、心を温めてゆく。

「皇子様との婚約が成立していたからな。これでアメリアが未だ病の渦中にいたらこうはならなかった。その意味でも皇子様には頭が上がらん。それに……ヴィンセント様が『アリーナ以外考えられない』と宣言したものだからな」

 ヴィンセントはハーバー公爵家の第二子である。第一子のアメリアが皇家に嫁ぐため、ハーバー公爵家の次期当主となる。

「ちょっとノア……!」

 アリーナは一瞬で顔を真っ赤に染めた。まさに“恋する乙女”だ。

「そうなの?」

「は、はい……。ヴィンセントは捨て子だった私のことを他の生徒たちと変わらず接してくれたんです」

 アリーナは赤ん坊の時に公爵邸の外に捨てられていた所を前公爵夫妻が引き取ったそうだ。当時ノアは7歳で、2人は兄妹のように育った。

 前公爵夫妻は、アリーナのような子どもを助けたいと強く思い、子どもを育てることが困難な親から、匿名で赤子を公設の乳児院で受け入れる制度を新しく始めた

 親のいない子や親と離れて暮らさざるを得ない子どもは年々増え続ける一方で、その子どもを養子や里子として引き受ける家は少ない。そんな状況を見た夫妻は、制度の周知を兼ねて積極的に公爵家で孤児を里子として受け入れるようになった。そのおかげか里親・養親となる人は増加傾向にあるそうだ。

「……ヴィンセント様は『急がなくていい』と言ってくれているの。だからノアが無理をすることなんて」

「いや、それは違う」

 ノアはきっぱりと言い切った。その様子にアリーナは戸惑いの表情を見せる。

「無理なんかしていないよ。これは2人で納得した上での結婚だ」

「ミューズ様も?」

「ええ、もちろん」

 ミューズは笑顔でそう言ったが、アリーナは納得したような、していないような込み入った顔をして食堂を出て行った。


 夕食時も、ぎこちない空気はそのままだった。ノアが学園での出来事を子どもたちに尋ねると、みな楽しそうに今日あったことを話す。子ども同士は仲が良いようで、和気あいあいとした空気が流れる。ミューズはそれを笑って見ていることしか出来なかった。

 やるべきことを全て終え、受話器を耳に当てながらベッドに寝ころぶ。ノアはいつでもやりとりが出来るようにミューズの部屋に電話機を置いた。彼の部屋にある電話機とは内線で繋がれている。婚約中であっても、結婚前に私室を訪ねることはタブーだからだ。

「明日から一週間出張に出る。大体のことは使用人たちに任せてくれ。ミューズは……」

「『朝晩の食事と相談に乗るだけでいい』でしょ。分かっているわ」

 最初に言われていたことだが、もはや母親としての業務はそれだけでは済まない、とミューズは察していた。

「できるだけ早く戻れるようにする」

 ノアの公爵としての業務は、今は外地となった旧隣国で行われることが多い。

ミューズが学園の高等部二年生だった四年前、サンパング国と旧隣国の大戦がサンパング国の勝利に終わった。旧隣国はサンパング国の統治下におかれ、外地となった。

 旧隣国は主な戦地となった上、今も各地では紛争が起こっている。そのため親を亡くした子どもや、極貧生活を送る者が絶えない。そんな人々のため、外地に福祉施設を置き、教育を取り仕切るフミルケイ伯爵や労働者をまとめるヨーダヤ男爵などと連携し学校の設置やサンパング国への出稼ぎ斡旋など外地の再起動を図っている。

 外地で紛争やトラブルが新たに起きれば、一週間以上家を空けるかもしれない。

(ノアのいないこの家で、できることをしないと……)

「ええ。お気をつけて」

 ミューズはそっと受話器を下ろした。


「ミューズ様、おはようございます」

「……おはよう」

 伯爵邸の私室より幾分か広いベッドの上で目が覚める。ぼやけた視界の中、公爵家付きのメイドが朝の支度をする姿を捉えた。

 半分眠ったまま起き上がり私室に備え付けられた洗面台で顔を洗う。メイドの渡すタオルで顔を拭い鏡台の前に座ると、メイドは慣れた手つきで髪を梳いていく。

「軽く編むだけでいいわ」

「はい」

 朝早くと夜遅くの主人の支度は、住み込みで働いているメイドがする。彼女らは労働者階級の者で、口数が少ない。元来、貴族家に仕える使用人は必要以上の言葉を発しないように教育されている。セシルのように幼少期からの仲にある者や、下級貴族の子女が高位貴族の家に勤める場合は例外だ。

 軽い化粧をして部屋を出ると、廊下の壁にもたれかかったノアがいた。

「おはよう」

「……待っていたの?」

「ああ。行こう」

 ノアは朝に弱いのか、その声は少し掠れている。そしていつも真っ直ぐに整えられた髪は所々寝ぐせがついていた。ミューズがそれを見て少し笑うと、ノアは壁に取り付けられた鏡で自身の姿を確認する。

「ご婦人は朝から大変だな」

 手で軽く寝ぐせを直しながらノアはそう言った。男性は女性よりも見た目に無頓着である場合が多い。特に、家の中では最低限の恰好で、出かける前に身なりを整えるという人は多い。反対に、女性、特に貴族の女性は幼い頃から家の中であってもきちんとした恰好をするよう教育されるものだ。

「もう慣れたわ」

 窓の外を見ると、子供たちが住む別邸からアリーナが本邸までやって来る姿が見えた。

「早く行きましょう」


 朝7時。

 ミューズとノアが食堂に入ると、数名の子どもたちが席についていた。殆どの子は室内着だが、アリーナや他数人は既に学園の制服に着替えていた。家を出る時間まで余裕はあるが、個人の性格の違いだろうか。

 まだ起きていないのか空席が三つほどある中、メイドたちが朝食を運んできた。

エッグベネディクトにトースト、色とりどりのフルーツが盛られたデザート、色の良い野菜ばかりのサラダなど、伯爵家よりも豪華なものだった。伯爵家は貧乏ではないが、余裕があるという訳でもない。

「ミューズ様、紅茶は何になさいますか?」

「ダージリンをお願い」

 今日の予定を確認する以外に会話はない。カトラリーの音だけが聞こえる中、ミューズは口を開いた。

「皆さん、昨夜はよくお眠りになられましたか?」

 トーストにバターを塗りながら子供たちに尋ねると、カチャーン!と耳を破るような、大きな音がした。音のした方を見ると、10歳のグレンが食器ごとエッグベネディクトを床に投げ落とした。

「コレ嫌い!」

(なに……!?)

「私も嫌!」

 状況を飲み込む前に、同じく10歳のセレーネもそれに続き、カトラリーを床に落とした。卵にかけられたオランデーズソースがこぼれ、カーペットにシミをつくっていく。


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