「……パンデクテス。妹にあれこれ説明するのも面倒だし、家の中でも本のままでいてくれ。あと名前長いから縮めてデクって呼んでいい?」
『だめデス』
「どっちが?」
『両方デス』
なんと強情なやつだろうか。考えてもみれば、こちとら居候を迎えてやろうとしているようなものなのに。
「なんでだよ。しょうがないだろ、急にお前みたいにヘンなのが来たらリディアが腰を抜かす。そんで名前だって呼ぶたびに言いづらくて噛みそうになるんだよ。いいだろデク。なんか、がんばれって感じの響きで」
『どういう感じデスか。その呼び方だけは却下します、それだけは絶対にだめデス』
「やけに嫌がるじゃないか。そんなに気に食わないのか? なんでだ?」
『こう……なんらかのコンプライアンスに触れている気がします。うまくは言えまセンが』
こいつはなにを言っているのだろう。コミュニケーション面についてはやはりズレがある。
しかしこいつのことだ、断ってくるのは計算の内。
「なら名前については諦める。でも姿だけは本のままでいてくれ。リディアは……妹は体が弱いんだ。あまり驚かせたくない」
『……ふぅ、仕方がありませんね。イデアがひとつ譲歩したのなら、ワタシもひとつ譲りましょう。わかりました、ヒトの姿にはなりまセン』
「そっか、ありがとう。あ、今みたいに喋るのも妹の前ではやめろよ。本がくっちゃべってたらリディアがビックリして顎を外しかねん」
『話だけ聞いてると、体が弱いというより関節が弱いばかりの印象デスが……』
よし成功。家では本の姿でいるという要望を承諾させるため、名前の方はあえて断らせることを前提として言ったのだ。
譲歩したフリをして本命の要求を通す、これぞ頼れる者のいない孤独な
俺は将来この画期的な手法について本を出版し、一山当てるつもりなのだった。
『おおー、活気がありマス。これがコロニーというものなのですね』
「どうでもいいけどお前、本の状態でも視覚あるんだな……」
そうこうしていると前方には、地底の薄闇に淡く輝く我らがコロニー、デーグラムの姿が間近に見えてきた。
あの光は街のいたるところに立てられた松明の火だ。それが遠くから見ると、ぼうと町全体をぼんやりと輝かせているように見える。
あえかな光が闇に浮かばせる街の輪郭。風に乗って届く人々の声。
それらを感じ、パンデクテスは活気があると言ったのだろう。ヒトの生活に興味でもあるのか、声色にも関心が表れていたように思う。
「……行くぞ。街の中では、あまり話しかけるなよ」
あいにく、俺はパンデクテスと同じようには感じられなかった。
天蓋の下でぼんやりと光る街は、まるで亡者がひしめく墳墓だ。ならば、地の底に吹く生ぬるい風は彼らの呼び声。
街に戻ってくるときはいつも、自身も亡者どもの仲間入りをするかのような、嫌な感覚があった。
デーグラムの街はごみごみとしていて、活気があると言えば聞こえはいいが、それはタチの悪い喧騒の類だ。治安は悪く、喧嘩が絶えず、盗みも多い。
閉じられたところなど見たことのない錆びた門を抜け、街へ入る。
『イデアっ、あれはなんデスか? 壁に向かって怒鳴り散らしているヒトがいます。あの行為には一体どのような意味が?』
「話しかけるなって言っただろ……ありゃただの酔っ払いだ。珍しくもない」
パンデクテスはやはり街へ好奇心を向けているようだ。家路をまっすぐ歩いているだけなのに、周囲のすべてに対しパンデクテスは問うてきた。
『この一帯は特に騒がしいです! イデア、なんなのですかこれは? なんらかの祭儀デスか?』
「ただの市場だ。ここを突っ切るのが家まで一番早いんだよ」
パンデクテスを抱え、
荒れ放題の街路の左右には、酒場だの肉の串焼きを売る屋台だの、野菜のぐずぐずになった得体の知れないスープを売る出店だのが無秩序に乱立する。パンデクテスはそれらすべてに反応を示していたが、俺は色んな料理の香りや人いきれの臭気が混じり合うこの騒然とした場をとっとと過ぎてしまいたかった。
『イデア——』
「今度はなんだっ。飯屋か? 鍛冶屋か? それとも行き倒れでも見つけたか?」
『——いえ、あそこの、奇妙な衣服に身を包んだ方はなにを呼びかけているのデス?』
「あ?」
あそこ、と言われても。本のままではどこを指しているのかわからない。
そう思ったのだが、前方に目を向けてみてすぐパンデクテスの含意を理解した。十メートルほど先の店先で、暑苦しい紫のローブを着込んだ何者かが、市を行き交う者らに熱心に語りかけている。
「——ですから、地底の滅びは間近に迫っています! 滅びを回避する
説明不明の怪しさだ。おまけに道のド真ん中でやっているものだから往来の邪魔になっており、すれ違いざまに肩をぶつけられ、ひどい時には拳でどつかれもしている。
だがそれでも、彼——ローブのせいで体格が隠れているが、声からして男性であると判った——は自分の言葉に自分で感激しているらしく、うっとりとした表情をフードから覗かせていた。
「……ありゃ、
『ジュタイキョー? なんデスか?』
「宗教だよ。昔はもうちょいマトモだったらしいが、今は立派なカルトだ」
デーグラムの街には彼らの総本山、聖堂という建物がある。デカい木が生えてる御大層な教会堂だ。
この辺りまで勧誘に来たのだろう。熱心なことだ。
なおその熱心な信徒の彼は、飲み屋の前で一席ぶったせいで、営業妨害にお怒りと見られる強面の店主に襟首をつかまれ、店の裏へと連行されていた。
骨の一本くらいはへし折られるかもしれない。だが俺に助ける手立てはない。
いや、正直に言えば、助けることはできるだろう。その手段はある。
だが助ける義理がない。彼ら樹胎教の信徒は、こうなることも承知でやっているのだ。
『ふむ。信仰というやつデスか、ヒト独自の文化ですね。興味はありマス』
「やめとけ。関わるだけ損だ、あんな連中」
信仰を持つのが悪いとは言わない。しかし、彼らの『聖女さま』への崇拝はどう見たって度を越えている。
こんな世の中だ。なにかに縋りたいって気持ちはわかる。でも——
酒に酔うのも、信仰に縋るのも、俺は御免だ。
「……俺は、なににも頼らない。依存もしない」
そして他人のことも信用しない。
五年前からずっとそうやって生きてきた。その孤独こそが、俺の誇りでもあったはず。
なのになぜか、ずきりと頭が痛んだ。
『イデア? どうしたのデスか、立ち止まって』
「ああ、なんでもない。行こう……ん、待て。遅くなったし、リディアに土産のひとつでも買ってくか」
我ながらいい思いつきだ。昼に比べれば夜市の果物屋は少ないが、ないでもない。
俺は店を探すと、店頭のカゴから比較的うまそうなリンゴを見繕い、不愛想な店主の男に紙幣を渡す。
『真っ赤な色、球体に近いフォルムに、ほのかな甘い香り……林檎というバラ科の果実デスね。
「
『む。わずかに機嫌がよくなったように見えマス。なるほど、ヒトは林檎を買うと気分が良くなる生き物なのデスね』
アホな生体
その頃には頭痛のことなど忘れていた。