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第7話 『最後の朝』

 *


 俺の家はデーグラムの端の、高台の上にあった。半年前に住み始めた借家だ。街の外れにあり、迷宮からも遠いためちと不便ではあったが、喧騒から離れた落ち着いた雰囲気は悪くない。

 なにより、体の弱いリディアのためだ。


「リディア、体はどうだ? 飯はちゃんと食べたか?」


 家に帰るなり、パンデクテス(本形態)と買ったリンゴを抱えたままリディアの部屋に入る。ノックをしてほしいと先日怒られたばかりなので、そこはきちんと欠かさない。


「——あっ、お兄ちゃん。お帰りなさい。作ってくれたお夕飯、ちゃんと食べたよ。一昨日も昨日も迷宮に入って疲れてるのに、いつもありがとうね」


 窓際のベッドで、リディアはいつもと同じように微笑む。その姿を天使と形容するのはさすがに兄馬鹿が過ぎるだろうか。だが俺にとっては安らぎの天使そのものであり、どれだけ迷宮で酷い目に遭おうとも、こうして妹の笑顔を見れば疲労も吹き飛ぶというもの。

 帰る家があり、守るべき家族がいる。それのなんと幸せなことか。

 俺がその幸福を実感していると、リディアはふと八の字に眉を寄せた。


「でも、今日は遅かったねイデアお兄ちゃん。もしかしてなにかあった?」


 俺の持つリンゴよりもなお赤い、宝石のような瞳が憂慮を帯びて俺を見る。やはり心配させてしまったらしい。


「ああ、ちょっとな。でもうまく切り抜けられた。土産も買ってきたぞ」

「もしかしてそのリンゴ? わーい、やった!」


 リディアは両手を挙げて無邪気にはしゃぐ。まったく子どもっぽい妹だ。

 だけどそういうところも微笑ましい。……なんて思ってしまう辺りやっぱり兄馬鹿なのだろう、俺は。


「今から切ってきてやるから、大人しくしてろよ。リディアは体が弱いんだから」

「もうっ、また虚弱扱いするー」

「悪かったよ」


 茶色の髪を梳かすように軽く頭をなでてやる。朝には梳いた髪も、さすがに今は多少もつれてしまっている。

 ならば明日また梳かせばいいことだ。猫のように目を細める妹を眺めながら、今日と同じような毎日が続いてほしいと心から願う。

 名残惜しそうに見つめてくるリディアから離れ、俺は部屋を出てキッチンへ向かう。


『ふむん、中々に興味深いやり取りでシタ』

「うわっ……!?」


 すると、リンゴといっしょに抱えていた本が喋り出した。

 ……そうだった。今日と同じ明日が来てもらっては困る。生体遺物ギフトと鉢合わせるなんてハプニング、人生に一度で充分だ。


『兄と妹、とは不思議な関係のようデス。考察の余地が深まりマスね』

「不思議ね。別に、なんてことない兄妹だと思うけどな」


 生体遺物ギフトのパンデクテスから見ればそれも新鮮なのだろう。なにせ、こいつには兄妹はおろか、親さえもいない。

 まあ、親がいないのは俺も同じだが。とはいえ故郷がなくなるその日まではいたワケで、遺物ギフトであるこいつとはやはり出生の由来がまるで違うはずだ。


『ですが、イデアとリディアはあまり似ていないようデスね?』

「リディアは昔っから虚弱体質だからな。そりゃあ俺とは似ないだろうよ」


 俺はといえば、自慢じゃないが元気っ子。運動も得意だ。そうでなければ迷宮に挑むハンターは務まらない。


「そういやリディアの前では喋らないって約束、ちゃんと守ってくれてたな。ありがとう」


 ナイフの扱いには迷宮で慣れているので、リンゴの皮剥き程度は造作もない。リディアのために皮を剥いて食べやすいように切り分けながら、何気なく思い出したので礼を言った。


『当然デス。ワタシはすべての遺物ギフトの記録者、誇り高き遺物大全パンデクテスなのですから。ですが……その』

「ん?」


 珍しく歯切れが悪い。手頃なサイズにカットした果実を器に盛り付ける手を止め、俺はパンデクテス(本形態)の方を振り向く。


『もしイデアさえよければ、先ほどリディアにやっていた行為を……』

「先ほど?」

『……いえ、やはりなんでもありまセン。自分でもどうしてそんなコトを思ったのか……ううん、どうしてでしょう。不思議デス』

「お前にわからないなら、俺にわかるはずもないな」


 一体なにが言いたかったのだろう?

 疑問はあったが、パンデクテス自身考えが整理できていないのか、うんうんと唸り、ページをぱらりぱらりと独りでにめくりながら考え込み始める。

 めっちゃ不気味。

 よし、放っておこう。俺は怪奇現象ポルターガイストを尻目に、器を持ってリディアの部屋へと向かうのだった。


 *


 その後、食べさせてほしいとねだるリディアの相手をして、一日は何事もなく過ぎていった。

 そして翌朝。迷宮に入る準備を整えたあと、俺は家を出る前にひとつの日課をこなす。


「じゃあ今日もお願いねっ、お兄ちゃん」

「ああ」


 窓際でベッドに腰掛けるリディア。体が冷えてしまわないよう、脚には毛布を被せたまま。

 俺は隣に座って、他愛のない話をしながら、木の櫛でその髪をゆっくりと梳いていく。

 今日は帰ってから夕飯を作るから、食べたいものはないかと訊いたり。あるいは反対にリディアの方から、今日しておく家事はないかと問いかけてきたり。


「家事なんて俺がやるよ、リディアは安静にしてればいい」

「もう、イデアお兄ちゃんってばいつもそればっかり。あたしだって子どもじゃないんだから、手伝いくらいはできるんだよ」

「はいはい。そう言って先週、家を燃やしかけたのは誰だったかな」

「う……あれは事故なの。信じてお兄ちゃん」

「先々週は洗濯を手伝うとか言って、廊下の方まで水浸しにしていたが」

「ううっ……あ、あれも事故なの。信じて……信じてお兄ちゃん……っ」


 返答の代わりにため息をつく。リディアの不器用さは筋金入りで、体の弱さを抜きにしても家事を任せるのは懸念が大きかった。

 でも構わない。リディアにできないことは俺がしてやればいい。それが兄貴の役割だ。

 会話はいつしか途絶え、自然と互いに無言になる。

 気まずさはない。髪を梳くときはいつも、どちらからともなくこうなるのだ。

 櫛が髪に触れるかすかな音だけが部屋に響く。まるで時計の針が止まったかのような、兄妹ふたりだけのひと時。

 それはやはり、俺にとってなにより大切な時間だった。


「……さあ、こんなところだな。なにかあったらセレイナさんのところへ行くんだぞ。こちとら五年もののお得意様だ、多少の融通は利かせてくれるだろ」

「うんっ。お兄ちゃんも気を付けてね。迷宮で怪我しちゃだめだよ」

「心配すんな、ちゃんと帰ってくる。昨日みたいに遅くなったりもしない」


 去り際に頭をなでてから、リディアの部屋をあとにする。


「——いってらっしゃい、お兄ちゃん!」


 図鑑でしか見たことのないひまわりとかいう花のような、明るい笑顔で見送ってくれるリディア。兄としてこれ以上やる気の出る応援があるだろうか。

 この子のために、金が要る。そのためなら俺は……。

 このまま家を出るのがいつものパターンだったが、今日はその前に、自室に置きっぱなしのアレを取りに向かった。


『用事とやらは終わりましたか? 結構デス、では行きましょう。ワタシの有用さを証明してみせマス』

「張り切ってるなあ……」


 本形態のパンデクテス。今日、商会に引き渡す予定の……遺物ギフト

 そう、生体遺物ギフトであろうがこいつは遺物ギフトだ。それもおそらくは伝説級レジェンダリーの。

 売って、金に換える。そうしなくてはならない。

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