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俺の家はデーグラムの端の、高台の上にあった。半年前に住み始めた借家だ。街の外れにあり、迷宮からも遠いためちと不便ではあったが、喧騒から離れた落ち着いた雰囲気は悪くない。
なにより、体の弱いリディアのためだ。
「リディア、体はどうだ? 飯はちゃんと食べたか?」
家に帰るなり、パンデクテス(本形態)と買ったリンゴを抱えたままリディアの部屋に入る。ノックをしてほしいと先日怒られたばかりなので、そこはきちんと欠かさない。
「——あっ、お兄ちゃん。お帰りなさい。作ってくれたお夕飯、ちゃんと食べたよ。一昨日も昨日も迷宮に入って疲れてるのに、いつもありがとうね」
窓際のベッドで、リディアはいつもと同じように微笑む。その姿を天使と形容するのはさすがに兄馬鹿が過ぎるだろうか。だが俺にとっては安らぎの天使そのものであり、どれだけ迷宮で酷い目に遭おうとも、こうして妹の笑顔を見れば疲労も吹き飛ぶというもの。
帰る家があり、守るべき家族がいる。それのなんと幸せなことか。
俺がその幸福を実感していると、リディアはふと八の字に眉を寄せた。
「でも、今日は遅かったねイデアお兄ちゃん。もしかしてなにかあった?」
俺の持つリンゴよりもなお赤い、宝石のような瞳が憂慮を帯びて俺を見る。やはり心配させてしまったらしい。
「ああ、ちょっとな。でもうまく切り抜けられた。土産も買ってきたぞ」
「もしかしてそのリンゴ? わーい、やった!」
リディアは両手を挙げて無邪気にはしゃぐ。まったく子どもっぽい妹だ。
だけどそういうところも微笑ましい。……なんて思ってしまう辺りやっぱり兄馬鹿なのだろう、俺は。
「今から切ってきてやるから、大人しくしてろよ。リディアは体が弱いんだから」
「もうっ、また虚弱扱いするー」
「悪かったよ」
茶色の髪を梳かすように軽く頭をなでてやる。朝には梳いた髪も、さすがに今は多少もつれてしまっている。
ならば明日また梳かせばいいことだ。猫のように目を細める妹を眺めながら、今日と同じような毎日が続いてほしいと心から願う。
名残惜しそうに見つめてくるリディアから離れ、俺は部屋を出てキッチンへ向かう。
『ふむん、中々に興味深いやり取りでシタ』
「うわっ……!?」
すると、リンゴといっしょに抱えていた本が喋り出した。
……そうだった。今日と同じ明日が来てもらっては困る。生体
『兄と妹、とは不思議な関係のようデス。考察の余地が深まりマスね』
「不思議ね。別に、なんてことない兄妹だと思うけどな」
生体
まあ、親がいないのは俺も同じだが。とはいえ故郷がなくなるその日まではいたワケで、
『ですが、イデアとリディアはあまり似ていないようデスね?』
「リディアは昔っから虚弱体質だからな。そりゃあ俺とは似ないだろうよ」
俺はといえば、自慢じゃないが元気っ子。運動も得意だ。そうでなければ迷宮に挑むハンターは務まらない。
「そういやリディアの前では喋らないって約束、ちゃんと守ってくれてたな。ありがとう」
ナイフの扱いには迷宮で慣れているので、リンゴの皮剥き程度は造作もない。リディアのために皮を剥いて食べやすいように切り分けながら、何気なく思い出したので礼を言った。
『当然デス。ワタシはすべての
「ん?」
珍しく歯切れが悪い。手頃なサイズにカットした果実を器に盛り付ける手を止め、俺はパンデクテス(本形態)の方を振り向く。
『もしイデアさえよければ、先ほどリディアにやっていた行為を……』
「先ほど?」
『……いえ、やはりなんでもありまセン。自分でもどうしてそんなコトを思ったのか……ううん、どうしてでしょう。不思議デス』
「お前にわからないなら、俺にわかるはずもないな」
一体なにが言いたかったのだろう?
疑問はあったが、パンデクテス自身考えが整理できていないのか、うんうんと唸り、ページをぱらりぱらりと独りでにめくりながら考え込み始める。
めっちゃ不気味。
よし、放っておこう。俺は
*
その後、食べさせてほしいとねだるリディアの相手をして、一日は何事もなく過ぎていった。
そして翌朝。迷宮に入る準備を整えたあと、俺は家を出る前にひとつの日課をこなす。
「じゃあ今日もお願いねっ、お兄ちゃん」
「ああ」
窓際でベッドに腰掛けるリディア。体が冷えてしまわないよう、脚には毛布を被せたまま。
俺は隣に座って、他愛のない話をしながら、木の櫛でその髪をゆっくりと梳いていく。
今日は帰ってから夕飯を作るから、食べたいものはないかと訊いたり。あるいは反対にリディアの方から、今日しておく家事はないかと問いかけてきたり。
「家事なんて俺がやるよ、リディアは安静にしてればいい」
「もう、イデアお兄ちゃんってばいつもそればっかり。あたしだって子どもじゃないんだから、手伝いくらいはできるんだよ」
「はいはい。そう言って先週、家を燃やしかけたのは誰だったかな」
「う……あれは事故なの。信じてお兄ちゃん」
「先々週は洗濯を手伝うとか言って、廊下の方まで水浸しにしていたが」
「ううっ……あ、あれも事故なの。信じて……信じてお兄ちゃん……っ」
返答の代わりにため息をつく。リディアの不器用さは筋金入りで、体の弱さを抜きにしても家事を任せるのは懸念が大きかった。
でも構わない。リディアにできないことは俺がしてやればいい。それが兄貴の役割だ。
会話はいつしか途絶え、自然と互いに無言になる。
気まずさはない。髪を梳くときはいつも、どちらからともなくこうなるのだ。
櫛が髪に触れるかすかな音だけが部屋に響く。まるで時計の針が止まったかのような、兄妹ふたりだけのひと時。
それはやはり、俺にとってなにより大切な時間だった。
「……さあ、こんなところだな。なにかあったらセレイナさんのところへ行くんだぞ。こちとら五年もののお得意様だ、多少の融通は利かせてくれるだろ」
「うんっ。お兄ちゃんも気を付けてね。迷宮で怪我しちゃだめだよ」
「心配すんな、ちゃんと帰ってくる。昨日みたいに遅くなったりもしない」
去り際に頭をなでてから、リディアの部屋をあとにする。
「——いってらっしゃい、お兄ちゃん!」
図鑑でしか見たことのないひまわりとかいう花のような、明るい笑顔で見送ってくれるリディア。兄としてこれ以上やる気の出る応援があるだろうか。
この子のために、金が要る。そのためなら俺は……。
このまま家を出るのがいつものパターンだったが、今日はその前に、自室に置きっぱなしのアレを取りに向かった。
『用事とやらは終わりましたか? 結構デス、では行きましょう。ワタシの有用さを証明してみせマス』
「張り切ってるなあ……」
本形態のパンデクテス。今日、商会に引き渡す予定の……
そう、生体
売って、金に換える。そうしなくてはならない。