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第15話 『衝動と決断』

「パンデクテス……」


 どうする。得も言われぬ焦燥が舌を乾かす。

 パンデクテスはきっと逃げようとするに違いない。このまま商会の元へと連れていかれ、商品モノとして売られる末路を避けるためにはそれしかない。

 ……俺の足なら追いつける。

 パンデクテスがこの瞬間、踵を返して走り出そうとも、俺なら一足に距離を詰めてその背を組み伏せ、無理やりにでも連れていくことができる。

 だがもしも万が一、初手をしくじるとマズいことになる。この複雑な裏路地を駆け回られてはパンデクテスが相手でも見失ってしまうかもしれない。そうなれば終わりだ、二度とパンデクテスは俺の前に姿を現しはしないだろう。

 ゆえに、一歩。パンデクテスが動き出した瞬間、その機先を制し、距離を埋める一歩で瞬時に詰めなくてはならない。

 機を逃さぬよう神経を尖らせる。ひどい吐き気がする。緊張か、それともついに直接的な暴行を働こうとしていることに対する忌避か。

 どちらであっても同じことだ。俺はやるしかない。この関係は、初めからこうなることが決まっていた。


「いいですよ。ワタシを金銭に換えるのがイデアの願いなら、ワタシは従います」

「…………な、に?」


 なのに。パンデクテスは笑って、信じられない言葉を口にした。

 これまでたびたび垣間見たそれとは異なる、今にも消えてしまいそうに儚げな笑顔。


「ワタシは遺物ギフト。望むままに使われることこそが、道具であるということ。であればワタシは、イデアの望みに応えます」

「望みに応える——自分から売られてくれるっていうのか?」

「はい。イデアはワタシのマスターですから。……おっと、暫定、でしたね?」


 冗談めかして微笑む。俺の方は足の先まで硬直して、バカみたいに棒立ちになっていた。この隙にパンデクテスが逃げ出そうものなら、まるで反応できないだろう。

 だが、こいつは逃げなかった。それどころか俺に歩み寄った。


「最後にイデアのことが知れてよかったです。短い間でしたが、イデアがマスターでいてくれたことは忘れません」

「パンデクテス、お前」

「ですから、行きましょう。イデアの望みを叶える場所へ」


 頭を殴られたような気分だった。パンデクテスは従容しょうようと、自分が物のように売られることを受け入れている。

 それが嫌だと、勝手にも思った。今までずっと自分がやろうとしてきたことを棚に上げて、俺は、その態度を否定する衝動に駆られたのだ。


「売らない……俺はお前を売らない!」


 そうして気付けば感情のままを口走っていた。

 驚いた反応をするのは今度はパンデクテスの方だった。黄金きんの目を見開き、かすかな動揺を視線に漏らす。


「な、なにを言うのデスか? イデアはワタシを売るつもりだったはず……もし嘘をついて場をしのごうとしているのなら、その必要はもうありません。ワタシは抵抗も、逃げることもしませんので——」

「違う! そんなんじゃない。俺は確かに、ずっとお前のことを商会に引き渡そうとしていた。けど……」


 今の今までそうするつもりだった。そうしなければならないと、今でも思っている。

 俺には金が要る。妹を守るのが兄貴の役割であり、そこに疑問の差し込む余地はない。

 だけど、それでも。


「……お前のことを物同然に扱うのは、やっぱり無理だ。人の姿をしたお前を、ただの遺物ギフトと同じように売るなんてできるはずがない」


 胸の底に沈めていた本音を、喉の奥から絞り出す。

 寂しげに笑うこいつのことを売り飛ばして、それで終わりにしていいはずがない。こいつと別れる時は、出会った時に見せたような、安らかな笑顔でなくては駄目だ。

 だって、こいつはいいことがあれば当たり前に喜んで、気になることがあれば当たり前に興味を示して、痛みを感じれば当たり前に痛がる、ひとりの少女なのだから。

 たとえ、生体遺物ギフトなのだとしても。


「でもそれでは、イデアが困るのでは……」

「今までだってなんとかやってきたんだ、大丈夫に決まってる! そりゃあリディアにはいい生活をさせてやりたいけど、お前が俺の遺物ギフト捜索を手伝ってくれるなら実入りはよくなるはずだ!」

「ですが。今日も正直、息巻いていた割にワタシが役に立ったのは最後に少しくらいのもの。迷宮を潜るイデアの隣にワタシがいたとして、あまり意味はないのではないでしょうか?」

「…………そんなことはない!」

「せめて間を置かずに否定してほしかったデスが……」


 しまった。普通に正論だったので即答できなかった。


「とにかく、さっき手に入れた遺物ギフトは売るが、パンデクテスのことは売らない。もうそう決めたんだ」

「……でも」

「でもじゃない。ほら、行くぞ」

「あっ」


 俺はパンデクテスの手を引き、止まっていた足を動かす。

 向かう先は商会の営業所。だが、パンデクテスを引き渡すつもりはもうない。

 この判断は本当に正しかったのか? 死と隣り合わせの迷宮で培った冷静さの仮面は、この小さな少女の前に脆くも崩れ去り、俺は一時の感情に任せて決断を下してしまった。


「——」


 ちらと窺うと、引かれるままに付いてきているパンデクテスは困ったような表情を浮かべていた。しかしその小さな手はぎゅっと、俺の手をにぎり返している。

 感情に身を委ねた、衝動的な決断なのだとしても。伝わる体温の熱が、間違いではないのだと思わせてくれた。


 *


 しばし歩くと営業所の前に着き、俺はパンデクテスの手を離した。

 営業所と言っても、こぢんまりとした木製の小屋だ。造り自体はちゃんとしているが、外から見て取れる狭さだし、中に詰めているのもセレイナさんひとりだけ。

 ……そういえば以前、デーグラムほどのコロニーならば遺物ギフトハンターも多いのだから、商会には自分以外にもう少し人員を割いてほしい、みたいな愚痴を珍しくこぼしていたっけ。


「この遺物ギフト……アイシクル・サンクタムだったか。これを引き取ってもらったらすぐに戻るから、ここでちょっと待ってろ」

「は、はい……ですが、本当によかったのですか?」

「いいって言ってるだろ。お前の方こそ、ないとは思うがもし俺が戻るまでにほかの奴がこっちへ向かってくるようなら、その時は中に入ってくれ」


 パンデクテスは控えめながらもこくんとうなずいた。それを確認し、俺は扉を開けて中へと入る。

 しばらくぶりの営業所は相変わらずだった。板張りの床、部屋を二分するカウンターの向こう側には木箱が雑多に積み上げられ、その隣には金髪の女性が椅子に座りながらなんらかの書類にペンを走らせている。

 商会のエージェントを示す黒スーツ。長い髪を耳にかけ、鼻筋の通った顔立ちはスーツも相まって理知的な感じと、それに加えて若干の冷たさを印象させる。

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