そして。その言葉は俺の予感通り、俺とリディアの関係を崩壊させる、決定的な危険さに満ちていた。
だが、突然なにを言い出すのかと思えば。パンデクテスはリディアが俺の妹ではないと疑っているのか?
「なにを言ってるんだ。そんなの、妹じゃないわけないだろ。俺はお前と出会う前からずっとリディアといるんだぞ?」
「よく思い出してください。故郷を出た時、あるいは故郷で両親と過ごしていた時、リディアはいっしょにいましたか?」
「いた……いたに決まってる。だって」
だって——リディアは今ここにいる。この家で、俺の妹としていっしょに暮らしている!
「それは言ってみれば状況証拠、今現在の事実から推定される予測でしかありません。いいですか、イデア。思い出してくだサイ。深く集中して、当時のことを」
パンデクテスはあくまで冷静に、俺の反論を棄却する。
当時のこと。デーグラムに来て
ずきずきと頭痛がする。思い出すな、考えるなと、脳を戒める異能の掟が痛みを発する。
「……っ、この頭痛……そういえば昨日、市場でも……」
頭蓋が割れるようだ。疑念を抱くことさえ許さないと、なにかが俺の頭を締め付けている。
——リディアは妹だ。
——妹を守るのは兄の責務だ。
——それはなによりも優先されるべき事柄だ。
脳の奥から湧いて出る思考。それは今日まで俺の根幹だった。
しかし、これは本当に俺自身のものなのか? 疑問が痛みを加速させる。それ以上考えるなと頭の中をかき乱す。
けれど裏を返せば、この痛みこそが思考になんらかの影響を受けている証左だ。
脳を焼く警鐘を踏み越え、俺は記憶の奥へ手を伸ばす——
『いい? イデア……今よりずぅっと昔はね、あの空を塞ぐ天蓋なんてなかったのよ。そして昼には抜けるような青空が広がって、夜にはきらきらと光る星の明かりが地上を照らすの』
自分だって見たことなどないはずなのに、高祖母から聞いた話を語る母さんが、まるでその風景を思い出すかのように目を細めていたこと。
陽の差さぬ地底にしては自然に恵まれた故郷の風景。友だちと遊んだ森や湖のこと。
商会はおろかあらゆる物流とは無縁の僻地において、それでも貧しさを笑い飛ばし、互いを助け合って生活する住民たちの姿のこと。
そうした景色のすべてが、ある日現れた赤い眼の魔物によって奪われた時のこと。
「そうだ、あの時……リディアはいなかった。母さんがあの話をしてくれた時も、子ども同士みんなで遊んでた時も、大人の人たちと挨拶をする時も……」
……あの魔物から、母さんや父さん、大人のみんなが命を賭して俺を逃がしてくれた時も。
そうだ、あれから俺はずっと独りだった。デーグラムに流れ着くまでの放浪の旅は、とても妹を庇いながらできるようなものではなかった。
俺は自分のことで精一杯だったはずだ。家もなく頼る者もおらず、商会の発行する紙幣などあるはずもなく、俺は常に飢えと戦いながら迷宮に潜っては決死の覚悟で
そうして五年、孤独に生き抜いてきたことこそが、俺にあるただひとつの誇りだったはず。
「リディア、お前は……誰だ!?」
俺に妹などいない。ならば、この存在しないはずの妹——リディア・ウラシマは一体誰だというのか?
俺の
「あーあ。せっかくうまくいってたのになぁ……やっぱり第三者がいるとボロが出ちゃうよね。だからそこのガキんちょには出ていってほしかったのに」
「妹じゃないんだな、お前は。今日までずっと俺を騙してきた!」
「そーだよ。あは、ビックリした? バレちゃったのは残念だけど、その驚いた顔を見るのは楽しいなぁ」
声色はまるでいたずらがバレた子どものように明るく、しかしその口元は滑稽な演劇でも見たかのように歪んでいる。
滑稽な演劇。まさしくその通りだっただろう。家族でもなんでもない赤の他人を、妹だと勘違いして甲斐甲斐しく世話を焼く俺の姿は。
しかし、一体いつから?
「自身を妹であると他者に誤認させる……そんなことができるのは、
リディアから俺を庇うように一歩前に出て、パンデクテスはそう問うた。
その指摘は正鵠を得ている。もっとも魔法であれば同様のことができるのかもしれないが、翼や尻尾といった魔法器官がない以上、リディアは俺と同じ人間のはず。
リディアは不敵な笑みを絶やさぬまま、ベッドの毛布へおもむろに手を突っ込み、中からなにかを取り出した。
「ご
「な……っ、ずっとそこに隠し持ってたのか?」
「大事なものは肌身離さず持つ。当然の危機管理でしょ、特にこんな治安の街じゃね」
どことなく玩具じみた、ピンクの色をしたステッキ。やけに余裕なのは切り札がずっと手元にあったからか。
その能力によほど自信があるらしく、既に勝ち誇ったかのような表情でリディアはその
「この子が手に入ったのは半年とちょっと前。街でアホ面提げて歩いてた
「当たり前だ。売り物を盗まれるようなヘマ、俺がするかよ」
大事なものは肌身離さず。先ほどの言葉については同意できる。ここじゃ誰もがその日を生きるのに必死で、盗みなんてのは日常茶飯事だった。
「だよねー、お兄ちゃんは実際すごいよ。その歳で迷宮から何度も生きて帰ってくるなんてふつうじゃない。だからこそその優秀さに目をつけた……優れたハンターを、あたしの『お兄ちゃん』に仕立て上げようって」
「……別に、言いふらすような知り合いなんていないはずなんだけどな。どこかで俺の噂でも聞いたのか。セレイナさんは客の情報を漏らしたりはしないはずだ」
「人の口に戸は立てられないよ、おにーぃちゃん? お兄ちゃんほどの年齢の人が、何年も営業所に通い続けてたらほかのハンターの目につくのは必然。自分じゃ気付かなかったかな?」
くそ。セレイナさんから漏れたわけではないが、やっぱりどこかで噂になっていたのか。俺もまだ警戒心が足りていない。
「だったら、お前が俺を
「大事な妹に向かって『お前』だなんてひどいなぁ。でもその通り~、洗脳に気付くまでまったく疑問にも感じなかったでしょ? 成り上がりの商会に売るなんてもったいないサイコーの
盗んだ
だが、あとひとつ。もっとも肝心な部分が謎のまま。
「もうひとつだけ答えろ。俺を兄に仕立て上げたって……なんのためだ? わざわざ他人の妹になる目的はなんだ?」