「──ただいま」
すっかり辺りは暗くなり、虫たちによる無償の合唱が賑やかな夜の7時。
俺が家の玄関から挨拶をしても、中からは誰の応答もなかった。
いや、玄関にはきちんと、俺以外の履き物はある。
正確にはいないのではなく、この家にはいるのだ。
数年前から母さんと別居し、四六時中飲んだくれな駄目な親父、
「ただいまって、言ってるだろ。無視かよ?」
部屋を真っ暗にし、TVの光を映した親父の分厚い老眼鏡からは、何の反応も示さない。
無言で並々、氷の入ったグラスに酒を入れ、スポーツ番組を観ながら、ひたすら酒をあおるだけだ。
親父は数年前は選りすぐられたエリートたちによる、敏腕なサラリーマンとして勤務していた。
しかし、度重なる不景気により。会社をリストラされ、仕事だけが生きがいだった親父を無気力にさせた。
さらに仕事以外、打ち込める趣味も持っていないことも影響したのか、毎日、朝起きてから夜中になるまで、ダラダラと酒を飲む生活へとなり、その姿を見た母さん、
そして、母さんは俺と二人っきりの時、別居したマンションに引っ越した当初に、静かに口を開いた。
『──あなたの父さんは、あんな感じだと死んだと一緒。だから周りからは、父さんは蒸発したと言うことにして』と……。
──こうして、母さんと親父は離れて暮らすようになり、同じ性別が災いしたのか、俺は親父が引き取るような形になったのだ。
いや、正しくは、俺が親父を引き取ったことに過ぎない。
同じ男として面倒を見ようとする感覚が、胸の奥から沸き起こったからだ……。
「親父、今日、
俺は電気をつけ、白髪頭でボサボサな髪で青白い
「──向こうも俺に気があるみたいでさ、何とかアタックしてみようと思うんだ」
冷蔵庫から卵を取り、油のひいたフライパンを熱して、ボウルに割り入れた玉子を菜箸でかき混ぜながら、親父と会話を続ける。
「……
「えっ、何か言ったか?」
「……学校は、楽しいか」
「ああ、さっき言っただろ、好きな人ができたって」
「……そうか」
親父は黙りこみ、また酒のグラスを無心に口へと傾ける。
……もともと、口数の少ない親父だ。
こんな会話は日常茶飯事だ。
****
「──さあ、親父。腹へっただろ。飯にしようぜ」
俺はオムレツの載った皿と味噌汁の器を、ちゃぶ台に並べる。
「もう、飯の時くらい、酒なんか飲むなよ。今は晩ご飯の時間だろ」
親父から酒を奪い、目の前にお膳を置く。
その食欲にそそられたのか、親父は一心不乱に食べ始める。
テーブルの下に片付けたスルメやサキイカからして、昼はろくな食事をしていないのは明らかだった。
「親父。俺、学校に行って忙しい身なんだからさ、料理くらい覚えて、たまには俺に
俺の話など聞くの聞かぬふりなのか、黙ったままで、眼前の出来立てな料理に、箸をのばしている親父。
「……あと、母さんのことなんだけどさ、来月の学校の体育祭に顔を出すってさ」
──そう、ついさっき帰り道で、母さんからLINAがあり、来月の体育祭にファッションデザイナー会社勤務の有給休暇をとり、自分から
周りのみんなには、母さんと俺は一緒に生活をしていることになっている。
だからたまには、こんな風に大がかりなイベントに定期的に顔を出さないと、周りから
そうなると、この親父のことも知られ、俺たちは半永久的に、駄目な親子たちと噂が広まっていくだろう。
「……そうか、頑張れよ」
そんなことも気にも止めず、ボソボソと言葉を発しながら、オムレツを口に運ぶ親父。
「親父、髭くらい剃れよ。あと風呂にも入れよ。今から風呂沸かすからさ」
俺はそんな
「……ああ」
そう言ったまま、食事を終えて、横に寝転がる親父。
どうやら、今日は入浴の気分じゃないらしい。
「まったく、しょうがないな……」
俺は食べ終わった食器を片付けながら、頭では別のことを考えていた……。
****
「──はあ……このまま行くと、下手すると離婚だな……」
近所では、おしどり夫婦と噂されていた俺の家族。
そこにいよいよ、家庭崩壊の危機が迫ろうとしている。
このままでは、親父と二人の生活とはいえ、高校を卒業したら、就職をしないと家庭を支えていけないだろう。
今は親父の退職金で、何とか食いつないでいるものの、親父が飲む酒代やつまみ代も、毎日を積み重ねたら、洒落にならない金額になるからだ。
それに俺の学費を払ってくれている別居中の母さんも、
俺には大学へ進み、やりたいことがあったのに、この有り様だ……。
……だが、どう
どんな親であっても、黙って、親に従うしかないのだ……。
──ふと、そこへ
この、今置かれている状況にデジャヴュを感じたからだ。
『──可憐の両親が離婚して、可憐のお祖母ちゃんに引き取られる時に、引っ越しは嫌だと大泣きをしまして──その時、近所で知り合った、洋一君から
……そう思い出した。
確か、俺が前世で可憐に告白した時、彼女の口から聞いた言葉だった。
俺と可憐は、昔ここで出会っていたらしく、俺に再開するために、可憐はここへ帰ってきたと言っていた。
あんな俺とは
俺は一体、昔、何を
何度考え込んでも、彼女と過去に出会った
──まあ。いい。
思い出せないと言うことは、大した内容じゃないということだ。
彼女は覚えていて、俺には抜け落ちてしまった記憶があるのは何とも言えないが、過去はどうあれ、これから生きる未来を作っていけば良いのだから。
俺は頭の中で、可憐とのこれからのプランをシミュレーションして、思わずにやけながら、自室のある二階へと、階段を