夜の最後の青が溶け残る薄明の中、アレスタリア王都は、巨大な生き物のように静かな脈動を始めていた。荘厳な王城の白亜の壁は、昇り始めた太陽の最初の光を浴びて、蜂蜜のような淡い金色に染まっている。その麓に広がる王宮前の大理石の広場は、もはや石畳の色も見えぬほど、世界中から集まった人々の熱気で埋め尽くされていた。
魔法によって宙に浮かぶ色とりどりのバナーが、風のない空を静かに横切り、銀の甲冑を纏った衛兵たちが、まるで彫像のように微動だにせず隊列を組んでいる。その間を縫うようにして、異世界特有の、水晶を動力源とする浮遊石カメラが静かに滑り、翻訳魔石を耳にあてた記者たちの多言語のざわめきが、ひとつの巨大な渦となって空へと昇っていく。
ディメンジョン・ゲートが開通して、数ヶ月。世界はまだ、熱に浮かされたような興奮と、底知れぬ不安との間で揺れていた。クロスワールド・チャンネル(CWC)は今日、この異世界における最大の「象徴」——魔王を討伐した伝説の勇者、セイル・ランバルドの凱旋を生中継するために、この極限まで高まった緊張の中心にいた。
天城創は、カメラのファインダーを覗き込み、現実から一枚隔てられたガラス越しに、この歴史的な狂騒を見つめていた。群衆の熱波、城門の壮麗さ、その全てが完璧な構図の中に収まっている。だが、彼の胸の奥では、リポーターとしての冷静さとは裏腹に、不吉な予感が波のように寄せては返していた。まるで、世界が過去の栄光と、これから訪れる未知の未来との、危うい境界線の上で綱渡りをしているかのように思えた。
『CWC、中継開始!』
インカムから響くディレクター・白崎凛の号令。いつもは鋼のように無機質なその声が、今日はほんのわずかに、しかし確かに震えているのを、創は聞き逃さなかった。この放送に賭ける彼女の、そしてCWC全体の重圧が、その震えに凝縮されていた。
隣でマイクを握るルナ・エルフェリアもまた、その華奢な肩で、目に見えない重圧を受け止めているようだった。普段は迷いのないその指先が、マイクの柄の上で微かに震え、胸元で静かな光を放つ魔石のアクセサリーが、彼女の心臓の鼓動と呼応するように、かそけき音を立てている。だが、彼女は深く、澄んだ息を一つ吸い込むと、その震えを意志の力でねじ伏せた。
「こちらCWC現地特派員、ルナ・エルフェリアです。私たちは今、アレスタリア王国の心臓部、王都中央広場に来ています。本日は、この国の英雄、セイル・ランバルド氏が五年もの長きにわたる戦いを終え、凱旋される歴史的な瞬間をお伝えします!」
その声が張りのある宣言となって広場に響き渡ると同時に、天を衝くような魔法の祝砲が青空を引き裂き、金色の鱗を持つ壮麗な飛竜たちが、祝福の弧を描いて舞い上がった。堰を切ったように、幾万もの歓声が押し寄せる巨大な波となって広場を揺らし、国民の熱狂そのものが、足元の石畳をビリビリと震わせた。
その時だった。全ての喧騒を支配するような、重々しい足音が響き渡り、人々の視線が磁石のように一点へと吸い寄せられる。
城門の奥から現れた、一人の男。陽光を反射して眩いばかりに輝く白銀の鎧。風を孕んで黄金色にたなびくマント。
セイル・ランバルド。
その名を、この国で知らぬ者はいない。かつて世界を闇に沈めんとした魔王を討ち、平和という名の光を取り戻したと讃えられる、生ける伝説。
だが、ファインダー越しにその姿を捉える創の目は、英雄の纏う圧倒的な光輝の「裏」に、染みのようにこびりついた、ごく僅かな異質さを見逃さなかった。
英雄の瞳は、あまりにも遠くを見ていた。目の前の熱狂的な歓声も、降り注ぐ祝福の花びらも、まるで分厚いガラスの向こうにあるかのように、何も映してはいない。その顔には完璧な微笑みが浮かべられている。しかし、それはまるで精巧に作られた仮面のようだった。唇の端は、常人には気づかぬほど微かに痙攣し、両の手は、まるで目に見えない鎖にでも縛られているかのように、不自然なほど固く、拳を握りしめている。
「……何か、おかしい」
隣で、ルナが息を殺して囁いた。その声は、創自身の胸の内で形になりかけていた疑念を、はっきりとした言葉にした。創はファインダーから一瞬だけ目を離し、彼女に視線を送って、小さく、そして重く頷いた。
——英雄は、光の中に立っているはずなのに、その内側から滲み出す影の方が、あまりにも濃すぎた。
王族による形式的な歓迎の演説が終わり、やがて王女が、白金に輝く音声増幅機能付きのマイクを、恭しくセイルに手渡した。あれほど広場を支配していた喧騒が、潮が引くように静けさへと変わっていく。数万人の視線と、純粋な期待の重みが、たった一人の人間の肩に、物理的な質量となって圧し掛かる。空気が鉛のように重くなり、石畳の上に立つセイルの足元が、わずかに沈み込んだかのような錯覚さえ覚えた。
やがて、勇者が口を開いた。その声は、王都の至る所に設置された音声魔石を通じて、全土へと響き渡る。
「……ありがとう。私を、こうして迎えてくれて。本当に……ありがとう」
その声には、深い感謝と共に、隠しきれない微かな揺らぎが混じっていた。一瞬、喉の奥で言葉が詰まる。その人間らしい様に、人々は「英雄の感涙だ」と息を呑み、英雄譚の最も美しい一ページを目撃しているのだと、その場の誰もが信じようとした。
しかし、セイルが絞り出した次の言葉が、その祝祭の空気を、一瞬にして凍てつかせた。
「五年前……私は、“世界を救った”と讃えられました。ですが、今日、私はその“世界”に、一つの問いを返さなければならない」
群衆の間に、不穏なざわめきがさざ波のように広がった。それは王族や記者たちの間にも伝播し、祝祭のために用意された笑顔が、困惑へと変わっていく。
「私たちが戦った魔王たちは、本当に、問答無用の“絶対悪”だったのでしょうか。私は、ただ与えられた命令に従い、そこに疑問を抱くことさえ許されず、彼らの命を刈り取ってきました。多くの……あまりにも多くの命を」
その言葉の重みが、広場全体の空気を圧し潰していく。誰もが、セイル・ランバルドの光り輝く「英雄」としての顔しか知らなかった。だが今、彼の口から紡がれているのは、血と泥に塗れた、誰も語ろうとしなかった現実。その自責と後悔の、底なしの影だった。
「民の歓声に背を押され、私は英雄という名の偶像になりました。ですが……英雄とは、一体なんでしょうか。血に染まった勝利の上にその名を刻んだ者が、果たして誇りを持って名乗るべき称号なのでしょうか」
群衆の顔から表情が消えていく。戸惑いは動揺に、動揺は茫然自失に変わり、広場は異様な静寂に包まれた。どこかで誰かが小さくすすり泣く声、別のどこかで誰かが怒りに拳を握りしめる音が、やけに鮮明に聞こえた。
創は、即座にスタッフに目配せをした。カメラのフォーカスを、彼の苦悩を映し出す瞳の奥へ、震える指先へ、汗の滲む首筋へと、執拗に切り替えさせる。これはもはや、凱旋式典の中継ではない。一個人の魂の告白であり、一つの時代の終わりの記録だった。
「もし、それでも私が“英雄”と呼ばれなければならないのなら——それは、この世界の誰よりも多くの命を奪った者として、その名を受け入れましょう」
最後の言葉が、まるで石畳に落ちる血の雫のように、重く、そして静かに響いた。
群衆は完全に息を呑み、王族たちは蒼白な顔で立ち尽くした。セイルはそれ以上、何も語らなかった。ただ静かにマントを翻し、背を向けると、喝采も非難も届かぬ場所へと向かうように、一人、階段を降りていく。その孤独な背中を、武装した衛兵さえもが、ただ見送ることしかできなかった。
祝祭の空気は完全に崩壊し、後に残されたのは、凍り付いた王宮の重臣たちと、英雄伝説が目の前で砕け散る瞬間を目撃してしまった、数万の呆然とした人々だった。
静まり返ったCWCの控室で、最初に沈黙を破ったのは、天城創だった。
「報道するってのは……時として、誰もが信じていた心地良い“物語”を、完膚なきまでに壊すことなのかもしれないな」
その声は掠れていたが、そこには真実を報じる者だけが持つ、静かで、しかし揺るぎない覚悟が宿っていた。
ルナは、セイルが去っていった扉のあった方向をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。
「けれど、壊れた瓦礫の中からでしか、見つけられない真実も、きっとあります……。彼の言葉は、祝祭を終わらせましたが、同時に、眠っていた誰かを、目覚めさせるはずです」
カメラには映らなかったが、創は彼女の静かな横顔を見つめ、自分の拳を強く、強く握りしめた。その手は、興奮か、あるいは畏怖からか、微かに震えていた。
——そうだ。今、この世界に必要なのは、耳障りの良い「祝祭」ではない。痛みを伴うとしても、目を逸らしてはならない「真実」なのだ。
王都の空に、英雄の悲痛な告白の余韻が、静かに溶けて消えていく。CWCは、もはや単なる祝福を伝えるだけの放送局ではありえない。真実の物語は、ここから始まる。彼らは確かに、一つの“歴史”が終わり、新たな“歴史”が始まる、その決定的な瞬間を記録したのだった。