目の前に現れたのは――間違いなく、“天使”。
以前のレミエルと同等……いや、それ以上の力を持っていると直感した。
だが今回は、条件が違う。
「お前、私の能力はわかってるのか?」
アルテミスは冷ややかに言い放つ。
ここは森。
かつて戦った崩れた廃墟とは違い、無数の影が辺りに満ちていた。
彼女は即座に木々の影へと身を滑らせる。
(死角に回りこみ、一瞬で終わらせる……!)
アルテミスはミカエルの背後の影へと移動し、右手の爪を鋭く尖らせる。
狙いは急所。ただ一撃で仕留めるのみ。
その瞬間――
ミカエルが右手を掲げた。
「能力発動【火焔操縦】」
掌に宿った炎が、音もなく爆ぜた。
まばゆい炎が周囲を照らし、木々の影を次々に焼き払っていく。
「炎……!?!」
木の影がかき消され、同時にアルテミスの体も強制的に影から弾き出される。
「しまった!」
「そこか!」
ミカエルは、炎を纏った右拳を振り抜く。
「がっ――!!」
重い一撃がアルテミスの腹を打ち、彼女の身体が吹き飛ばされる。地面を転がるアルテミスに、ミカエルは冷然と告げる。
「お前の能力は【影間移動】――影に入り込み、影から影へと移動する。だが、光に晒されれば、影が消え、能力は無効化される」
ミカエルの掌に再び炎が灯る。
「そして俺の能力は【火焔操縦】。炎は光を生み出す……つまり、俺の能力はお前の天敵ってわけだ」
火が爆ぜる音が響く。
「だからこの森で待ち伏せた。燃やせるものが多い環境ほど、俺の優位は揺るがない」
彼の言う通りだった。
この相性の悪さでは、まともに戦えば勝ち目は薄い。
「……だったら、戦わなければいいだけのこと」
アルテミスは冷静に距離を取り、炎の届かない木陰へと潜る。
「逃すものか!! お前はここで……終わる!」
ミカエルは指を弾くようにして、無数の火の玉を生み出すと、それらを周囲へばら撒いた。
次の瞬間――
「……くっ!」
一つの火球が、アルテミスの隠れていた影を通過し、光が差す。
彼女の体が再び影から押し出された。
「そこだぁッ!!」
火の玉がアルテミスの腹部に直撃する。
「かはっ……!」
彼女は膝をつき、咳き込みながらも歯を食いしばる。
ミカエルは勝ち誇ったように笑う。
「見ただろ? 影なんて通用しねぇ。俺の前じゃお前は無力なんだよ!」
右手に宿る炎が、轟音と共に唸りを上げる。
手から放たれた炎の奔流は、まるで咆哮する竜のように一直線にアルテミスへと襲いかかる。
「焼き尽くしてやる……!」
「くっ……!」
アルテミスは右手を盾のように掲げ、炎に耐える。
しかし火勢は凄まじく、吹き飛ばされそうなほどの熱風が彼女の全身を焼いた。
「ははは! やっぱり大したことねえな、アルテミス! 攻撃を続ければ、あっけなく終わる!」
――だが、次の瞬間。
「……なっ!?」
炎の奔流を裂くように、鋭い爪が閃いた。
アルテミスの右手が火を切り裂き、猛スピードでミカエルの喉元を狙って飛び込む。
「チィイイイッ!!」
ミカエルはとっさに炎の放出を止め、身を回転させて間一髪かわす。
だがその目には、焦りの色が滲んでいた。
「……アルテミス。
お前の素性も能力も知っているつもりだったが……その右手だけが不可解だ」
憎々しげに彼は吐き捨てる。
「……星野め、余計なことをしやがって」
アルテミスは再び右手を構え直す。
「……はあ、はあ……っ」
アルテミスは呼吸を整えながら、再び立ち上がる。
「……舐めてると痛い目に遭いそうだ……!」
ミカエルの口元が歪む。
その体が、まばゆい光を放ち始めた。
「だったら――出し惜しみはしねえ!能力の解放!!
すぐに決着をつけてやる!!」
彼の炎が再び噴き出す。まるで業火の竜が咆哮するように。
アルテミスは咄嗟に右手を前に出し、その爪で炎を裂く。
「また、同じ攻撃……?」
火炎が止んだその瞬間、違和感に気づく。
彼女の右手には、赤黒い炎がまとわりついていた。
「こ……これは……!? 熱い……っ!」
いくら右手が特殊とはいえ、炎のまとわりつく状態が続けば消耗は避けられない。
まるで燃え続ける呪いのように、じわじわと体力を奪っていく。
「オラオラァ!!」
ミカエルはさらに追撃を加える。火の玉を連続で放ち、アルテミスを包囲する。
アルテミスは岩陰へ飛び込んで炎を防ぐが――
「なっ……!?」
その岩が、赤く染まり、音を立てて燃え始めた。
「岩が……燃える!? どういう……!」
ミカエルは勝ち誇ったように笑い、叫ぶ。
「この炎はな、“なんでも燃やす”!! 岩でも金属でも、対象が燃え尽きるまで終わらねえ!!」
(なんでも……?)
アルテミスの瞳が鋭く細められる。
「……性質解析中……」
小さく呟いた彼女は、すぐに顔を上げた。
「……一つだけ、燃やせないものがある」
次の瞬間、彼女は全速力で走り出し、真っ直ぐに川へ飛び込んだ。
ミカエルが舌打ちする。
「ちっ、川に逃げたか……」
だが、水面を割って姿を現したアルテミスの右手から、纏っていた炎が消えていた。
「だったら今度は川にすら逃さねえ!!」
ミカエルの身体に、今までとは桁違いの魔力が収束する。
大気が震え、地面が焼け焦げ始める。
(今のうちに反撃を……いや、違う!
回避に徹する……!)
「奥義――【獄炎衝波】!!!」
轟音が森を引き裂いた。
ミカエルの掌から放たれたのは、炎というには余りにも巨大で、余りにも凶暴な“嵐”だった。
火の奔流は地面をえぐり、木々を吹き飛ばし、瞬く間に一帯を灰に変える。
アルテミスは川から飛び出し、辛くも横へ跳ぶ。
振り返ると、そこには――
「……川が……ない!?」
さっきまで穏やかに流れていた川が、蒸気と共に、まるで存在ごと消されていた。
その場に残っているのは、黒く焦げた焦土のみ。
ミカエルを中心に、放射状に焼け野原が広がっていく。
森だったはずの一帯が、今や火の海。
炎と熱風が視界を覆い尽くし、立っているだけでも意識が揺らぐ。
長引けば、勝ち目は消える。
このままでは――終わる。
(……覚悟を、決めるしかない)
(最善の一手は……!)
アルテミスは、右手に残る微かな熱を見つめ、静かに息を吐いた。
ミカエルは狂ったように炎を撒き散らし、森を焼き尽くしていく。
逃げ道を――すべて断つために。
「ククク……見えてきたぞ、勝ち筋が。
逃げ場を消したその時こそ、貴様の終わりだ、アルテミス。
最後は大技で――跡形もなく吹き飛ばしてやる!」
嬉々とした声を上げるミカエル。
だが、次の瞬間。
アルテミスの目が鋭く光り、真正面からミカエルに向かって走り出す。
「……なっ!? こっちに突っ込んできやがった!?」
焦るミカエルは即座に構えを崩し、右手から火炎を放つ。
「そうはさせねえ!消えない炎をくらえッ!!」
轟音とともに炎の奔流が放たれる。
「……くっ!」
アルテミスの身体が炎に包まれる。
しかし、その勢いは止まらなかった。
「舐めるなあああああああああ!!!」
全身を業火に焼かれながらも、アルテミスは駆け抜ける。
その姿は、まるで命そのものを燃やすかのようだった。
右手の爪を伸ばし、そして斬撃を与える。
「があっ……!」
ミカエルの肩から脇腹へ、深く裂かれる。
「チィ……このっ……!」
ミカエルが体勢を立て直す暇も与えず、アルテミスは次の一撃を叩き込む。
「私が……やられる前に……
お前を倒せば……この炎も、全部……止まるはずだああああああ!!!」
「しまった……!この短期間で俺の行動をここまで学習しやがったのか!?」
刹那の連撃。
爪が、肉を裂き、血が、炎に弾ける。
まるで、自分自身の命を削っているような攻撃。
アルテミスの呼吸は荒れ、肌は焼け爛れ、それでも――動きは止まらない。
このままなら……倒せる。
しかし――
「あれは……!?」
アルテミスの視線が、炎の向こうに何かを捉えた。
――道ですれ違った、二人の少女。
彼女たちは、火の海に囲まれ、身動きが取れずに立ちすくんでいた。
「ひ、ひいぃぃぃっ!!」
「だ、誰かっ、助けてぇ!!」
アルテミスの表情が一瞬だけ揺れる。だが――
「……関係ない。
私は、生きるって決めたんだ……
何があっても、生きて、教会へ行く!」
心を押し殺し、ミカエルへ視線を戻そうとした、その瞬間――
炎に焼かれた巨大な大木が、軋みながら倒れ始めた。
その下敷きになろうとしているのは――あの少女たち。
(……っ!)
アルテミスの脳裏に、誰かの声がよみがえる。
⸻
『自分の命を狙う相手に優しくしろとは言わない……
でも、もし優しくしてくれる人が現れたら――』
『その人たちを……助けてあげて』
⸻
『これあげる!チョコレートだよ!
……確か、好きだったよね?』
⸻
「――あああああああああああ!!」
気がつけば、身体が走り出していた。
思考よりも先に動いたその手で、少女たちを突き飛ばす。
そして――自分は、倒れた大木の下敷きに。
「う、あああああああ!!」
地響きと共に崩れ落ちる大木。
少女たちはしばらく、何が起きたのかわからなかった。
だがすぐに――理解する。
「ア、アルテミス……!?
ありがとう……!今、助けるからね!!」
必死に、彼女たちは大木を押し上げようとする。
だが、その重さにびくともしない。
その時だった。
炎の向こうから、ミカエルの姿が浮かび上がる。
「ひっ……ひぃ!!」
その異様な姿に、少女たちは言葉を失う。
あまりにも異質な気配を放つミカエルに、
少女たちは足をすくませ、声も出せなくなる。
「に……逃げろ……!」
アルテミスは、喉を振り絞るように叫んだ。
「で、でも……!」
それでもその場を離れようとしない二人に、アルテミスは必死に言葉を繋げる。
「私は……大丈夫だ!
あの大木が倒れたおかげで、道が開いた……!
お前たちは、今のうちに逃げるんだ!!」
少女たちは、短く息を呑む。
そして――
「……待ってて! 必ず助けを呼んでくるから!!」
決意を込めた言葉を残し、二人はついに走り出した。
火の中を、迷いなく。
アルテミスの視界が揺れる。
焼けつくような熱と重圧が、身体を押し潰していた。
そして、そこへ――ミカエルが歩み寄る。
「ははっ、泣かせるねぇ……」
炎に揺られながら、愉快そうに笑う。
「“悪魔”が人を助けるなんてよ……
もしあの人間を見捨ててたら、お前……俺に勝ててたかもしれないのになあ?」
アルテミスは、苦痛に顔を歪めながらも、叫ぶ。
「……お前こそ、本当に……天使なのか……!?
関係のない人たちまで、巻き込んで……!」
ミカエルは顔を歪めて笑い、叫ぶ。
「この世界と、“俺たちの世界”――両方の最善を図ってるんだよ!!
それは……!お前の死をもって成立する!!」
ミカエルは右手をゆっくりと前に突き出す。
掌に、灼熱の魔力が渦を巻き始める。
「放っときゃ死ぬかもしれねえけどな……
確実にトドメを刺してやる。――【獄炎衝波】で、消し飛べッ!!」
ミカエルの右手に、焼き尽くす炎が集まっていく。
アルテミスは、動けない。
全身を焼く“消えない炎”、
押し潰すようにのしかかる“大木”、
迫る“死”。
逃げ場も、盾も、もうない。
(……私は……何をやっているんだ……)
(こんな、非合理的なことをして……
あの二人を助けなければ、私は――生き残れた。勝てたかもしれなかったのに……)
……………
『また明日、会おうね……ヤクソクだよ』
『いい? 約束は――絶対に、守らなくちゃダメなの』
……………
(……まだだ)
(まだ……私は、戦える!!)
その瞬間、アルテミスの目に、闘志が宿る。
押し潰された身体――それでも、右手だけは動いた。
奇跡的に、燃えてもいなければ、力も残っている。
(私の右手は、自分の意思で――ある程度、変形させることができる)
倒れた大木の下、わずかな隙間に“影”があった。
辺り一面、火の海。
無数の炎が光を放つということは――同時に、無数の小さな“影”もまた生まれている。
(私の能力――【影間移動】
それは、“影”から“影”へと身を移す力)
(私は……守るんだ……)
(私の大切なものも。私自身の命も。
そして――ヤクソクも!!!)
次の瞬間。
アルテミスの身体が、光に包まれるように揺らめいた。
ミカエルの咆哮が、火の中を突き破る。
「終わりだ、悪魔!!――【獄炎衝波】!!!」
空が裂けるような轟音とともに、巨大な炎の衝撃波が放たれる。
灼熱の奔流が、アルテミスへと迫る――!
「【影間移動】……能力の解放!!」
アルテミスは、最後の力を振り絞る。
右手を、大木の下の“影”へと突き立て……
「右手の……指だけ……移動させる!!」
その声と同時に――
地面に広がる無数の影から、黒い爪が一斉に飛び出した。
「な!?」
鋭く、長く、刃のような影が四方八方からミカエルを貫く。
「がっ……はあっ!? な……バ、バカな……ッ!!」
全方位からの“影の刃”による奇襲。
起死回生の一撃は、ミカエルの身体を一瞬で限界まで切り刻んだ。
その放たれていた炎も、火の海すらも――一瞬で霧散する。
「こ……この俺までも……こんな……ところで……ッ!」
ミカエルの身体がやがて淡い光の粒子となって消えていく。
……勝った。
しかし――
「……はぁ……っ、はぁ……っ……」
炎は消えた。だが、アルテミスの体は大木の下敷きのまま。
右手の力も、魔力も、限界を超えていた。
「ここまで……か……」
限界を迎えた身体は、ついにその意識を手放した――
⸻
— とある場所 —
「バカな! ミカエルまでやられるなんて……!!」
「それに……能力の“解放”まで……!?」
「……まあ、ルールには則ってますね」
「それどころじゃないだろ!
今あいつは瀕死なんだ!!
早く3体目を投入して、とどめを刺させろ!!」
「……3体目は、まだ調整中です」
「悠長なこと言ってる暇あるか!? また“成長”されたら手遅れになる!!」
「――落ち着いてください。
3体目は“特別”です。あれは、世界のルールすらも通用しない存在なのですから……」