目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第16話 どれだけ前を向いても、丸い地球の隅っこで泣く俺ら

 その後、俺は保健室で先生に治療を受けた。


 すでに鼻血は止まり、痛みもほとんどない。万が一、鼻の痛みが続くようであれば、病院で検査を受けるように、と先生に言われた。


 今は陽葵と二人で保健室にいる。先生は職員室に用事があるらしく、しばらく帰ってこないらしい。俺は安静にするついでに留守番を任されたのだった。


「それにしても、驚いたよ。三崎くんが急に大声出して駆け寄ってきたから」


 陽葵は呆れたように肩をすくめる。


「いや普通は止めに入るだろ。陽葵の病気のこともあるし、そうでなくても男女の喧嘩なんて危なっかしい」

「普通は止めに入る、か……本当にそう?」

「なんで疑問系なんだよ」

「だって、少し前の三崎くんだったら、ああいうことしたのかなって思ってさ」


 言われて、ふと考える。


 さすがにあの状況なら止めに入ると思う。男女の対格差を考えれば、喧嘩して怪我をするのは女の子だ。仮に相手が陽葵じゃなくても、ああしたと思う。


 でも、これだけは言える。

 陽葵だから、あんなに必死になったんだ。


 大切な仲間を守りたい……あのときの俺は、無意識にそう思っていた。


「私と大沢くんの喧嘩、止めてくれてありがとね」

「どういたしまして。あんまり無茶するなよ?」

「うん……変わったね、三崎くん」

「変わった? 俺が?」


 聞き返すと、陽葵はこくりと頷いた。


「少し前の三崎くんは自分のやりたいこと、言いたいこと……そういうの我慢して、いつも辛そうな顔してた」

「辛気臭い顔なのは変わってないぞ」

「ふふっ。そういう軽口が多いのもね」


 くすくすと笑いつつ、陽葵は話を続けた。


「今日、三崎くんは危険を顧みず、喧嘩の仲裁に入ってくれた。それはきっと、自分の感情に従って、素直に行動した結果だと思うの。君はもう我慢せず、自分のやりたいことができるようになったんだよ」

「そうかな……そうだといいけど」

「きっとそうだよ、私、今の三崎くんのほうが好きだな」

「えっ?」

「あ、その……変な意味じゃなくてね!? 仲間として頼りがいがあるってこと!」


 何を必死になっているのかわからないが、陽葵は慌てて言い訳した。

 彼女の頬はほんのり赤くなっている。


「……もし俺が変われたとしたら、それは陽葵のおかげだ」

「そんなことないよ。私はただ、ちょんと背中を押しただけだもん。変われたのは三崎くんが頑張ったからじゃん」

「だとしても、変わる勇気をくれたのは陽葵だよ」

「な、なんだよぉ……照れくさいからやめてってば」


 恥ずかしがり、スカートの裾をきゅっと引っ張る陽葵。こういう普段は見せない仕草は可愛らしい。


「……あのね。実を言うと、私も三崎くんに感謝してるんだ」

「感謝……俺がバンドに加入したことか?」

「それもあるけどさ。私が変われたのも、君のおかげだから」

「俺のおかげ……?」


 いまいちピンと来なかった。


 俺が陽葵と最初に出会ったのは、サポートで参加したライブの後だ。


 あのときから、陽葵は自己主張ができて、前向きに生きていたはず。それは今も変わらない。あれから何がどう変化したというのだろう。


 不思議に思っていると、陽葵は微笑んだ。


「……実はね。私、三崎くんに言いたいことがあるの」

「言いたいこと?」


 見つめ合って、そんなあらたまった態度を取られると緊張する。心臓の鼓動が速まり、頬がかあっと熱くなってきた。


「三崎くん」

「な、なんだ?」

「君は知らないと思うけど、私はね――」


 言いかけたとき、保健室の引き戸が勢いよく開く。


 驚いて振り向くと、そこには息を切らした由依が立っていた。


「三崎くん、大丈夫!? 転んで怪我したって聞いたわよ!? それに陽葵も大沢くんと喧嘩したって……あら?」


 俺と陽葵の顔を交互に見ると、由依は急にニヤニヤし始めた。


「もしかして……イチャついていたのかしら?」


 由依がからかうと、陽葵は慌てて立ち上がった。


「ち、違うの、由依! これはそういうんじゃなくて……」

「はいはい、邪魔してごめんね。私は先に音楽室に行くから、二人はどうぞ続きをお楽しみください」

「ちょ、誤解だから! 私はただ、三崎くんとおしゃべりしていただけ!」

「陽葵。ベッドはあっちよ?」

「んなっ……! つ、使うわけないでしょ! ばかぁ!」


 ぎゃあぎゃあと口論しながら、二人は保健室を出ていった。おーい。怪我人を置いていかないでくれー。


 一人残された俺は深いため息をついた。


「はぁ……結局、陽葵が何を言いたかったのか聞けなかったな」


 まあ重大なことなら、そのうち話してくれるだろう。

 陽葵は人に遠慮せず、なんでも話すタイプだし。


 それにしても……デートした日から陽葵の意外な一面を知ることが多い。


 私服は大人びていて、柄にもなく可愛いとか思ってしまった。ゴンドラの中、初めて見る泣き顔はしおらしくて、見ていて辛かった……というか、あいつ恋愛に憧れを抱いていたんだな。全然知らなかったわ。


 今日だってそう。顔を赤くしたり、照れくさそうにしたり、見つめてきたり……普段とは違い、女の子っぽい仕草が多かった。


 そこまで考えて、ふと針で突かれたような痛みを心に感じる。


 君との思い出をなぞると、どうしてこんなに苦しくなるのだろう――。


「陽葵!」


 そのとき、女子の悲鳴が耳をつんざいた。

 今の声は明らかに由依だった……廊下のほうから聞こえたぞ!?


 慌てて廊下に飛び出る。


 視界に飛び込んできた光景を見て血の気が引いた。

 由依の足元に、陽葵が倒れている。


「由依! 何があった!?」

「それがわからないの! 立ち話していたら、急に倒れて……!」

「そんな……まさか幽霊病?」


 近づき、陽葵の手を確認する。

 しかし、透過している様子はない。


 ……幽霊病じゃない?

 じゃあ、陽葵はどうして倒れたんだ?


 疑問に思っていると、


「ねえ、三崎くん……!」


 由依は震えながらある方向を指さした。


 彼女の指先に視線を向ける。


 陽葵の制服のスカートから、健康的な脚がすらっと伸びている――はずだった。


 どういうわけか、彼女の両脚が消えている。


「なん、で……?」


 目を凝らすと、脚の輪郭がぼんやりと見えた。半透明になっているのだろう。紺のソックスと白い上履きは、まるで宙に浮いているみたいだ。


 以前、由依と交わした会話を思い出し、背筋が凍る。



『過去の文献によれば、手だけじゃないの。例えば、足が透けてしまった人もいる。陽葵もそうなってしまう可能性は十分にあるみたい』



 どうしてだよ。今までは、体調が悪くなるにしても演奏後だったじゃないか。さっきまで大沢と元気に喧嘩していたのに……悪化するにしても突然すぎるだろ。


 苦しそうに顔を歪める陽葵と目が合う。

 彼女は涙をこぼした。


「お願い、三崎くん……見ないで……!」


 透過した脚を見ないで、という意味なのは理解できる。


 だが、その言葉の真意と、涙の理由はわからなかった。


「三崎くん! 救急車呼んで! あと先生にも連絡! 早くッ!」


 由依の声で、はっと我に返る。


 俺は走って職員室に向かい、保健の先生に事情を説明した。

 そのまま救急車を呼ぶと、しばらくして陽葵は病院へ連れていかれた。


 その後、どうやって自宅に帰ったのかは覚えていない。


 気づけば俺は、暗い自室で泣いていた。


 あまりにも無力な自分に腹が立つ。


 俺が陽葵にしてやれることは、あいつの夢を叶えてあげること。

 それしかできない。

 彼女の命を救うことなんて、できやしないんだ。


 新曲の歌詞を作れば、前に進めるだろうか。

 弦を爪弾けば、何かが変わるだろうか。


 そう信じるしかないなんて、俺と陽葵は似た者同士なのかもしれない。


 だって、そうじゃないか。

 残酷なこの世界で、『前向きに生きる』と自己暗示をかけながら、ひっそりと隅っこで泣いているのだから。


 どれくらい涙を流したのだろう。

 泣き疲れた俺は泥のように眠った。


 そして翌日。

 由依から陽葵が入院したと聞かされた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?