目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第8話 —— 5分だけよ

早乙女織奈は唇を噛みしめて言った。「もちろんよ!DNA鑑定だって受けるわ!」


「いいよ。」黒川綾斗はうなずいた。「本当に俺の子どもなら、責任は取る。でも今は、とりあえず離婚の手続きを終わらせよう。」


黒川綾斗の背中が遠ざかるのを見つめながら、早乙女織奈は突然、崩れるように泣き出した。「綾斗、お願い、そんなことしないで!私が悪かったの、心からあなたを愛してるのよ!」


黒川綾斗は一度も振り返らなかった。もうあの嘘くさい言葉も、わざとらしい涙も聞きたくない。七年の想いは裏切りの前に、とうに粉々になっていた。


区役所の中で、黒川綾斗と早乙女織奈は向かい合って座っていた。山本維は黒川綾斗の隣に座り、小声で必要な手続きについて時折アドバイスを送る。早乙女織奈は目を赤くし、ちらちらと黒川綾斗を伺うが、彼からは一切反応が返ってこない。


「綾斗。」ついに耐えきれず、早乙女織奈が口を開いた。「今は怒ってるのはわかるけど、子どものためにも、もう一度考え直せないかな?」


「子ども」という言葉を聞いて、黒川綾斗はようやく彼女を一瞥した。「ここでその話をするつもりか?」


早乙女織奈はその一言に押し黙ってうつむいた。


職員が二人の書類を確認し始め、約30分後、黒川綾斗の手には離婚証明書が握られていた。複雑な思いが胸に渦巻く。


「綾斗さん、ホテルまで送ろうか?」と山本維が尋ねる。


黒川綾斗は首を振った。「大丈夫、一人で歩きたい。」


山本維は納得してうなずく。「じゃあ、また。何かあったらいつでも連絡して。」


山本維が去った後、早乙女織奈が突然駆け寄り、黒川綾斗の手を掴んだ。「綾斗、少しだけ話せない?最後でいいから。」


黒川綾斗は断ろうとしたが、彼女の涙を見て、結局うなずいた。「5分だけだ。」


二人は区役所の隣の小さな公園のベンチに腰掛ける。


「綾斗……」早乙女織奈は大きく息を吸い込んだ。「私が悪かった。本当に後悔してる。」


黒川綾斗は無言のままだ。


「でも、私は本当にあなたを愛してる。時雨とはただの出来心で、離婚なんて考えたこともなかった。私が全部悪い、本当に一時的な過ちだったの。」


黒川綾斗は冷たく笑った。「一時的な過ち?君たちは少なくとも半年は続いてたよな。」


早乙女織奈は驚き、思わず口走った。「どうして知ってるの?」


「探偵に依頼した。君たちが会った時間も場所も、全部わかってる。」


早乙女織奈の顔は真っ青になった。「じゃあ、どうして今まで黙ってたの?」


「君に説明の機会を与えたかったし、いつか自分で悔い改めるかもしれないと思ってた。でも君は毎回、嘘を選んだ。」


早乙女織奈はすすり泣きながら訴える。「綾斗、本当に反省してるの。もう一度だけチャンスをくれない?お腹の子のためにも……」


黒川綾斗は彼女の腹部を見やりながら、「本当に俺の子どもなら責任は取る。でもその時は子どもは俺が育てる。君とやり直すことは絶対にない。」


「なんで?」早乙女織奈は半ば錯乱したように叫ぶ。「あの女のせい?あの修理工場の女!」


黒川綾斗は眉をひそめた。「自分の問題を他人のせいにするな。俺と上杉樱はただの知り合いで、友達ですらない。」


「綾斗……?」早乙女織奈は信じられないという表情で、「清源テクノロジーの上杉樱?」


黒川綾斗はうなずいた。「そうだ。」


早乙女織奈の顔色はさらに悪くなった。「綾斗、彼女に騙されてる!」


黒川綾斗は眉をひそめる。「どういう意味だ?」


「上杉樱は先月、古川グループと縁を切ったばかりでしょ?古川グループは早乙女財閥の最大のライバルよ。彼女が綾斗に近づくのは絶対何か企んでる!」


黒川綾斗はもう相手をする気もなく、「織奈、もう5分経った。」と立ち上がる。


早乙女織奈は彼の袖を掴んだ。「綾斗、本当に私を捨てるつもり?私のためじゃなくても、子どものためにも戻ってきてくれないの?」


黒川綾斗は彼女の手を振り払った。「織奈、もう俺たちは離婚した。子どものことはDNA鑑定の結果が出てからだ。」


「綾斗!」早乙女織奈は突然、怒りの声を上げた。「お金だけもらって私と縁を切れると思ってるの?私の両親が黙っていると思う?」


黒川綾斗は足を止め、振り返る。「脅してるのか?」


早乙女織奈は鋭い目つきで睨み返した。「脅しじゃない、警告よ。横浜は狭いんだから。両親が許さなければ、誰も綾斗を雇ったりしない!」


黒川綾斗は呆れたように笑った。「そうか。だったら見ものだな。」


そう言い残し、黒川綾斗は公園を後にした。


早乙女織奈はその背中を見送りながら、さっきまでの哀れな表情を消し、スマホを取り出して番号を押す。「お母さん、お願いがあるの……」


黒川綾斗がホテル暁光に戻り、部屋に入った瞬間、電話が鳴った。表示された名前は上杉樱。


「綾斗、離婚の手続きが終わったって聞いたわ。」上杉樱の声はいつも通り柔らかい。


黒川綾斗はとぼけて返す。「山本さんから聞いたのか?」


「ええ、そうよ。」上杉樱は認めた。「あなたの様子を確認したかったの。」


黒川綾斗は少し間をおき、「上杉社長、ひとつ気になってるんだ。なぜ俺のことをそんなに気にかけてくれるんですか?」


電話の向こうで上杉樱が笑う。「綾斗は用心深いのね。」


「用心深さは生き残るために必要なものです。でなければ……」黒川綾斗は言葉を濁したが、二人とも早乙女織奈の件だとわかっていた。


「そのとおり。」上杉樱は満足そうに答えた。「じゃあはっきり言うわ。清源テクノロジーに来てほしいの。」


黒川綾斗は驚きを隠せなかった。「清源テクノロジーに?俺はAI技術なんてわからない。」


「でも、あなたは経営と戦略に長けているでしょう。早乙女財閥はあなたの手腕で時価総額が3倍になった。今、私たちに必要なのはまさにその力よ。」


黒川綾斗は少し考え、「上杉社長、検討する前にひとつだけ聞きたい。」


「どうぞ。」


「織奈が言ってた。あなたは先月、古川グループとの提携を解消したそうだが、古川は早乙女財閥の最大のライバルだ。俺に近づくのは何か他の目的があるんじゃないか?」


電話口で数秒の沈黙。「やっぱり綾斗は鋭いわ。」


「確かに古川グループとは提携をやめたけど、理由はあなたの想像とは違う。」


「じゃあ、どういう理由?」


「古川社長の息子・古川浩介がしつこく私に言い寄ってきて、挙げ句には出資を引き上げると脅してきたの。私はそういうのが嫌いだから、自分から手を切っただけ。」


黒川綾斗はためらいながら聞く。「じゃあ、俺を誘う理由は?」


「単純にあなたの能力が欲しいからよ。」上杉樱は即答した。「もちろん、もし早乙女財閥との提携を取ってくれたら嬉しいけど、今となってはそれはもう期待してないわ。」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?