黒川綾斗は微笑んだ。「上杉社長は率直ですね。」
「ビジネスの世界では正直が一番です。隠すことなんてありません。ゆっくり考えてください。急ぎませんよ。午後は会社にいますので、もし興味があれば見学にいらしてください。」
電話を切ると、黒川綾斗はしばらく黙考した。
上杉桜の提案は確かに魅力的だが、彼は離婚を経験したばかりで、すぐに新しい環境に飛び込みたい気持ちはなかった。しかし、相手に大きな助けをもらったばかりだし、招待された以上断る理由もない。
そう思い、渡辺健太に電話をかけた。
「渡辺さん、上杉社長に清源テクノロジーを見学に誘われたのですが、送ってもらえますか?」
「もちろん大丈夫ですよ、綾斗さん。」渡辺健太は快く応じた。「20分後にホテルの入口でお待ちしてもいいですか?」
「はい、お願いします。」
電話を切った綾斗は、バスルームに向かい、シャワーを浴びて着替えることにした。
その時、また着信があった。見知らぬ番号だった。
少しためらいながらも電話に出る。「はい?」
「綾斗さん、こんにちは。横浜市商報の記者です。」相手は焦った様子で話し始めた。「あなたと早乙女家のお嬢さんの離婚について、取材させていただきたいのですが。」
綾斗は眉をひそめた。「取材はお断りします。」
「綾斗さん、早乙女家から7,000万円の慰謝料を受け取ったとの話がありますが、それに加えて海外にも隠された結婚歴があると聞きました。本当ですか?」記者はしつこく食い下がる。
綾斗は怒りを抑えきれなかった。「何を言っているんですか?」
「これは私たちが受け取った情報です。」記者の声には脅しの色が混じっていた。「もし説明していただけないなら、そのまま記事にさせていただきます。」
綾斗は冷ややかに笑った。「どう書こうが構いません。名誉毀損で訴えますよ。」
「綾斗さん、私たちには内部告発者がいて、“証拠”も——」
綾斗は無言で電話を切った。
考えるまでもなく、これは早乙女家の仕業に違いない。
すぐにまたスマートフォンが震えた。さっきの記者からのメッセージだった。内容は目を覆いたくなるような悪意に満ちた憶測ばかりだった。
もともとゴシップ誌の記者には嫌悪感があったが、今回の件でその卑劣さにますますうんざりした。綾斗はすぐに山本維に電話をかけた。
「山本さん、こんにちは。黒川綾斗です。上杉桜さんからご紹介いただきました。」
「綾斗さん、上杉社長からご連絡いただいています。」山本維の声は落ち着いていた。「明日の朝8時半、ホテル暁光のロビーでお待ちしています。その後、一緒に早乙女さんに会いに行きましょう。」
綾斗は驚きを隠せなかった。「もうご存じなんですね?」
「上杉社長から簡単に話は聞いています。」山本維は少し間を置いて続けた。「必要な書類はすべて準備します。」
綾斗はさらに疑問が深まった。「山本さんと上杉社長はどういうご関係ですか?」
「大学時代の同級生で、今は大事なクライアントの一人です。」山本維は笑みを浮かべて言った。「綾斗さん、なぜ彼女があなたを助けるのか不思議でしょうが、上杉社長はとても特別な方です。付き合っていけば分かると思いますよ。」
電話を切った後も、綾斗の頭の中は疑問だらけだった。
上杉桜とは一体どんな人物なのか——
……
渡辺健太の車が清源テクノロジー本社ビルの前に停まった。黒川綾斗が見上げると、ガラス張りの立派なオフィスビルがそびえていた。
「綾斗さん、着きましたよ。」渡辺健太がドアを開けてくれた。
綾斗は礼を言って車を降り、ビルに入ろうとしたその時、山本維が中から出てきた。
「山本さん?どうしてここに?」
山本維は穏やかに笑った。「渡辺さんがもうすぐ到着されると聞いたので、お迎えにあがりました。記者の件ももう解決していますので、ご心配なく。」
綾斗は軽く頭を下げ、山本維とともにビルの中へ入った。
エレベーターで最上階まで上がり、山本維に案内されて広く明るいオフィスに着いた。
上杉桜は大きな窓の前で背を向けて座っていた。
「上杉社長、綾斗さんがいらっしゃいました。」
上杉桜はゆっくりと振り返り、口元に微笑みを浮かべた。「綾斗さん、ようこそ。」
今日の彼女は白いワンピースをまとい、そのスタイルを際立たせていた。
「山本さん、お仕事に戻ってください。」上杉桜が声をかける。
山本維はうなずいて退室し、オフィスには綾斗と上杉桜だけが残った。
「どうぞおかけください。」上杉桜は向かいの椅子を勧めた。「コーヒーとお茶、どちらがよろしいですか?」
「コーヒーをお願いします。」
上杉桜は自らコーヒーを入れて手渡してくれた。
「例の報道のことは、心配しなくて大丈夫です。」彼女はすぐに本題に入った。「山本さんがすでに弁護士通知を送りましたし、私も何件か連絡を入れておきました。」
綾斗は清源テクノロジーについてあまり詳しくなかったため、尋ねてみた。「上杉社長は横浜市内で大きな影響力をお持ちなんですね?」
上杉桜は軽く微笑んだ。「それほどでもありません。でも、商報の編集長は友人のご主人なんです。」
綾斗はうなずきながら、率直に聞いてみた。「上杉社長、失礼ですが、私たちはまだ二度しか会っていません。それなのに、なぜそこまでして私を助けてくださるのですか?」
上杉桜はお茶を一口飲み、「綾斗さん、運命って信じますか?」
綾斗は少し戸惑った。「あまり信じません。」
「私もです。」上杉桜はカップを置き、「私が信じるのは人の価値と能力です。あなたが早乙女財閥で挙げた実績は誰もが認めるものです。今の清源にこそ、あなたが必要なんです。」
彼女は立ち上がると、電子パネルの前に歩み寄り、数回タッチした。画面には様々なデータやグラフが映し出された。
「清源テクノロジーは創業からまだ3年ですが、すでに時価総額は50億円に到達しました。」上杉桜はグラフを指し示しながら言った。「ただ、市場開拓と経営の面ではまだ課題が残っています。」
綾斗はデータを見て驚嘆した。「3年で50億円とは……上杉社長のご実績は本当に素晴らしいですね。」
上杉桜は首を振った。「チーム皆の努力のおかげです。今、あなたにCOOとして加わってほしいと思っています。」
「COOですか?」綾斗は驚きを隠せなかった。「そんな大役を、出会ったばかりの私に任せていいんですか?」
上杉桜は微笑んだ。「私は人を見る目には自信があります。」
彼女は引き出しから契約書を取り出し、綾斗の前に差し出した。「年俸2,000万円、ストックオプションは会社全体の3%です。いかがでしょう?」
綾斗は思わず息を呑んだ。早乙女財閥時代よりはるかに好待遇だった。
「上杉社長、ご提案はありがたいですが、少し時間をいただけますか。」
上杉桜も無理には勧めない。「もちろんです。でも、まずは会社をじっくり見学してから判断してください。」
その時、上杉桜の秘書がドアをノックして入ってきた。
「上杉社長、古川グループの古川様がお見えになりました。」