上杉桜は少し眉をひそめた。「少し待ってもらって。まずは綾斗に会社を案内するわ。」
しかし、秘書は困った顔で言う。「ですが、古川さんが“今すぐ会えないなら、取締役会のほかのメンバーに直接会いに行く”と…」
黒川綾斗は、上杉桜がその名前を聞いた瞬間、明らかに表情を変えたのに気づいた。
「上杉社長、もしご用事があるなら、お待ちしますよ。」
上杉桜が何か言いかけたとき、オフィスのドアが突然勢いよく開いた。
若い男が堂々と入ってきて、傲慢な笑みを浮かべる。「桜さん、久しぶりだね。」
上杉桜の表情は一瞬で冷たくなった。「古川さん、礼儀ぐらいわきまえて。ノックもできないの?」
古川浩介は肩をすくめ、黒川綾斗に視線を向けた。「この人は?」
黒川綾斗は答えず、上杉桜にどう対応するかを任せた。
上杉桜が紹介する。「こちらは綾斗。清源テクノロジーの新しいCOOよ。」
黒川綾斗は少し驚いた。まだ正式に承諾していないからだ。
古川浩介は眉をひそめた。「新しいCOO?先週の取締役会ではまだそのポストが空席って話だったけど?」
上杉桜は当然のように答える。「だからこそ、今ちょうど適任者を見つけたの。」
古川浩介は冷たく笑った。「奇遇だな。今日来たのは、うちの父が推薦するCOO候補を伝えるためだったんだ。」
「古川社長のお気遣いには感謝するけど、その件はもう決めたわ。」
古川浩介は黒川綾斗をじっと見た。「黒川綾斗?ちょっと待て、お前って早乙女財閥の黒川綾斗か?」
黒川綾斗は軽くうなずいた。「その通りです。」
古川浩介は突然大声で笑い出した。「桜、お前どういうつもりだ?早乙女家から追い出されたばかりの人間をCOOに据えるなんて。」
上杉桜は表情を崩さず言う。「古川さん、あなたの綾斗に対する認識は、噂話の域を出ていないようですね。」
古川浩介は鼻で笑う。「横浜中、誰でも知ってるさ。こいつは早乙女家のお嬢さんに取り入ってのし上がっただけだろ?それを捨てられたから、今度は拾ったってわけか。」
その言葉に黒川綾斗は苛立ち、席を立って古川浩介を正面から見据えた。「古川さん、あなたの情報はどうやら古いようですね。早乙女家との関係は、私自身の判断で終わらせたものです。理由についてはお答えしかねますが。」
古川浩介は目を細める。「そうか?早乙女財閥であんな大きな騒ぎがあったら、マスコミが黙ってるわけない。お前の評判も…」
上杉桜は立ち上がり、黒川綾斗の隣へ歩み寄った。「古川さん、もしそのためだけに来たのなら、お引き取りください。清源テクノロジーにあなたは必要ありません。」
古川浩介の顔色が変わる。「桜、忘れるなよ。古川グループはもう提携解消したかもしれないが、うちの父は取締役会でまだ発言力がある!」
上杉桜は静かに微笑む。「そうかしら?その情報、更新した方がいいわ。先週、あなたのお父様が持っていた株は、すべて私が買い戻したの。」
古川浩介は雷に打たれたような顔をした。「そんなはずは…!」
「調べてみれば分かるわ。さあ、もう帰って。」
古川浩介は顔を真っ赤にして、上杉桜を指さした。「必ず後悔させてやる!古川グループと早乙女財閥が組んだら、お前も黒川もただじゃ済まないからな!」
そう吐き捨てて、ドアを乱暴に閉めて出ていった。
黒川綾斗は上杉桜に視線を向けた。「これで俺がCOOをやるのは既定路線ってことかな?」
上杉桜は微笑む。「さっきはとっさの対応よ。決断はあなた自身に任せるわ。」
彼女はデスクに戻り、内線電話のボタンを押す。「李さん、警備に伝えて。今後、古川浩介を社内に入れないで。」
電話を切り、黒川綾斗に振り返った。「お騒がせしてごめんなさい。」
黒川綾斗は首を振る。「いや、むしろ驚いたのは古川グループの株を本当に買い戻したって話だよ。」
上杉桜はうなずく。「彼らは株を使って清源テクノロジーを支配しようとした。私がそれを許すわけないでしょう。」
黒川綾斗は考え込む。「古川グループと早乙女財閥、組んでるのか?」
「最近になって接触し始めたみたい。」上杉桜は答えた。「大規模な共同プロジェクトを計画してる。あなたが早乙女財閥を離れた後の話よ。」
黒川綾斗はすぐに察した。「じゃあ、俺を清源テクノロジーに誘ったのも、その同盟を崩すためか?」
上杉桜は少し笑って見せる。「それも理由の一つ。でも一番大きいのは、あなたの実力を評価しているから。」
「これは単なる転職じゃない。戦いみたいなものよ。」彼女は続ける。「古川グループと早乙女財閥が手を組めば、狙うのは清源テクノロジーだけじゃなく、横浜のテクノロジー市場全体になる。だから、あなたのような戦略家が必要なの。」
黒川綾斗は沈黙した。早乙女財閥を去れば争いから解放されると思っていたが、また新たな戦いに巻き込まれようとしている。
それでも上杉桜の誘いに、なぜか心がざわついた。自分自身が築いた帝国を壊したいという欲望なのか、それともただ何かに夢中になりたいだけなのか。
「もし俺が入ったら、具体的にどうするつもりなんだ?」
上杉桜は毅然とした態度で答えた。「まずは足元を固めてから、順番に反撃していく。」
……
夜、上杉桜は黒川綾斗を会社の最上階にあるプライベートレストランに案内した。
ガラス越しに眺める横浜の夜景が美しく輝いている。
「今夜はここで食事にしましょう。」上杉桜は席を勧める。「静かで、ゆっくり話せるわ。」
ウェイターが美しい前菜と赤ワインを運んできた。
「綾斗、清源テクノロジーの印象は?」上杉桜はワインを注ぎながら聞く。
黒川綾斗は今日の会社見学を思い返す。「技術力は高いし、チームも若くてエネルギーがある。ただ、組織や市場戦略はまだ洗練されていない。」
上杉桜は口元を緩めた。「まさにそこが、あなたに来てほしい理由よ。」
黒川綾斗はグラスを傾ける。「上杉社長、率直に聞くけど、なぜ俺なんだ?横浜には優秀な経営者がたくさんいるはずだ。」
上杉桜はワインを静かに口に含んだ。「あなたは他の人とは違う。大半の経営者はマニュアル通りのことしかできない。でも、あなたは違う。」
彼女はグラスを置いて語る。「早乙女財閥であなたが手がけたプロジェクトは、どれも常識を覆すような革新があった。たとえば銀河プロジェクト。従来の不動産運営の枠を超え、早乙女財閥に三割もの追加利益をもたらした。」
黒川綾斗はその詳しい分析に驚いた。「ずいぶん調べてるんだな。」
上杉桜は微笑む。「パートナーを知るのは常識よ。でも、あなたの決断を聞かせてほしい。」
黒川綾斗はグラスを持ち上げ、軽く上杉桜と乾杯した。「正直、まだ迷ってる。清源テクノロジーの将来や待遇の問題じゃない。俺はつい最近、一つの“戦争”を終えたばかりで、すぐに次に飛び込める自信がないんだ。」
上杉桜は静かにうなずいた。「分かるわ。でも、綾斗、本当にこのまま早乙女家の思い通りにさせていいの?」
黒川綾斗は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「聞いた話だけど、早乙女家はすでに大手企業に圧力をかけて、あなたの採用を妨害してるらしい。それに、明日にはあなたを貶める記事が出るって。」