黒川綾斗は苦笑いを浮かべて首を振った。「まさか、こんな手まで残していたとはな。」
「早乙女家は簡単には引き下がらないわ。一人で立ち向かおうとしたら、正直言って、横浜では身動きが取れなくなる。最終的には出て行くしかなくなるでしょう。」
黒川綾斗はしばらく考えてから、彼女に視線を向けた。「つまり、清源テクノロジーを後ろ盾にしろってことか?」
「後ろ盾じゃなくて、パートナーよ。」上杉桜が訂正する。「お互いに支え合えばいい。あなたは清源に経営のノウハウやビジネスセンスをもたらして、清源はあなたにリソースと舞台を提供する。」
黒川綾斗は黙り込んだまま、心の中で葛藤していた。
「それにね。」上杉桜が続ける。「自分の価値が早乙女家に依存していないって証明したいなら、これは絶好のチャンスよ。」
その一言が黒川綾斗の心の奥に響いた。
七年間、彼はずっと早乙女家の付属品のように見られてきた。今こそ自分を証明できる機会だ。横浜を離れたくはない。今ここで去れば、本当に早乙女家に追い出された負け犬になってしまう。
「もう一日だけ、考える時間をもらえますか?」黒川綾斗はようやく口を開いた。
上杉桜はうなずいた。「もちろん。でも、一つだけ先に伝えておきたいことがあるの。」
彼女はバッグから一枚の書類を取り出した。「これは明日の横浜市経済新聞が掲載予定の原稿。コネを使って手に入れたの。」
黒川綾斗は書類を受け取り、ページをめくるごとに表情が険しくなっていく。
記事の中では、彼がまるでチャンスを狙うだけの男のように描かれ、早乙女織奈の感情を弄び、結婚を利用して金を巻き上げ、最後には巨額の手切れ金を持ち逃げしたとある。さらに、アメリカでも失敗した結婚歴があるかのように示唆され、「常習犯」扱いまでされていた。
「デタラメばかりだ!」黒川綾斗は怒りに震えてテーブルを叩いた。「アメリカで結婚したことなんて一度もない!」
上杉桜は彼を見つめ、微笑んだ。「それが嘘だってことは私も分かってる。でも、読者は知らない。記事が出たら、たとえ後で訂正されても、噂だけが一人歩きするわ。」
黒川綾斗は深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。「山本さんの弁護士から抗議できないのか?」
「完全には止められないわ。」上杉桜は首を振る。「早乙女家は横浜のメディアに強い影響力を持っている。よほどのことがない限り……」
「よほどのこと?」
「こっちにも反撃の材料が必要なのよ。」上杉桜は指で机を軽く叩く。「たとえば、早乙女家と時雨の真実を暴露するとか。」
黒川綾斗はすぐに意図を察した。「織奈の浮気の証拠で反撃するってことか?」
上杉桜はうなずいた。「主要なメディアに証拠を用意しておく。向こうが記事を出したら、すぐに反撃できるように。」
黒川綾斗はしばらく黙って考えた。事を大きくしたくはなかったが、早乙女家がここまで来てしまった以上、もう遠慮は無用だ。
「分かった。ただし、織奈の妊娠の件には触れないでほしい。」
上杉桜は驚きの表情を浮かべた。「妊娠?」
黒川綾斗は早乙女織奈が妊娠を主張していることについて簡単に説明した。
「それ、本当にあなたの子供だと思う?」上杉桜は率直に尋ねた。
黒川綾斗は苦笑した。「分からない。だからDNA鑑定の結果が出るまでは、無関係な人を巻き込みたくない。」
上杉桜はうなずいた。「あなたの決断を尊重するわ。それで、清源に加わる件は?」
黒川綾斗は窓の外の夜景を見つめ、深く息を吸い込んだ。「受けるよ。」
上杉桜は小狐のように嬉しそうな笑みを浮かべた。「ようこそ、清源のCOO。」
二人は笑顔でグラスを合わせた。
上杉桜はグラスを置き、黒川綾斗を見つめた。「綾斗、早乙女家と古川家が手を組んだ以上、記事だけじゃ終わらないはず。これからいろんな手を使ってくるわ。覚悟はできてる?」
黒川綾斗はもう逃げ場がないことを分かっていた。
「もう踏みにじられるくらいなら、リスクを取る方がいい。」
上杉桜はそれ以上、早乙女財閥や古川グループの話を続けず、話題を変えた。「ところで、今夜泊まる場所は?もしよかったら、私名義のマンションが空いてるから。」
黒川綾斗は首を振った。「しばらくはホテルでいい。もう十分世話になった。これ以上は借りを作りたくない。」
……
翌朝、「独占スクープ」と銘打った経済紙が横浜のオフィスビルやカフェにあふれていた。
一面トップには、「早乙女財閥専務が堂々入室?七年越しの結婚詐欺、巨額の手切れ金が絡む!」と大きな見出しが踊る。
写真はモザイク入りのぼやけたショットだが、囲いがされた「黒川綾斗」と「早乙女織奈」だと分かる。記事の内容は、黒川綾斗が早乙女家に取り入り、金も名声も狙い、ついには追い出されたと強調している。
オフィスでは、新聞を手にした社員たちがあれこれ噂し合い、一方で気にしない人もいた。ビジネス界で夫婦の別れは珍しくないが、「六千万円の慰謝料」「結婚を利用した財産形成」といった言葉には、さすがに多くが関心を寄せる。ネット上でもメディアが次々と記事を転載し、「黒川綾斗」の名前はまるで晒し者のように扱われていた。
清源テクノロジー本社の最上階会議室。
上杉桜が席の中央に座り、隣には新任COOの黒川綾斗。
その下手には山本維、さらに財務責任者や人事部長など、十数名の幹部が並んでいる。
黒川綾斗の就任を発表した後、上杉桜は現状の問題を皆に説明した。
「山本さん、弁護士としての対応はどうなっていますか?」上杉桜は万年筆を回しながら尋ねた。
山本維は今朝、横浜市経済新聞の編集長と連絡を取ったが、返事は曖昧で「再度確認する」「協議する」と言うだけだった。裏で大きな力が働いているのは明らかだった。
山本維は書類を開きながら言った。「新聞社は強気な態度です。間違いなく誰かの指示がある。法的手段は取れますが、時間がかかります。その間に噂は広まる。今すぐ記事を消させるには、新聞社が大きなリスクを感じるほどの証拠を提示するしかないでしょう。」
その言葉に、皆の視線が黒川綾斗に集まった。
黒川綾斗は息を吐き出した。「正直、こんな大事にしたくはなかった。でも、早乙女家がここまでやるなら、もう遠慮はしない。」
そう言って、彼はスマートフォンの動画データを山本維に送った。それは早乙女織奈と時雨竜介がホテルや車、邸宅で一緒にいる写真だった。
これを見るたび、彼の中の怒りが再び燃え上がるのだった。
上杉桜は机を軽く叩いた。「なら、これを武器にしましょう。早乙女財閥がその気なら、こちらもとことん付き合うまでよ。」
会議室の一角で、マーケティング部長の坂本美智子が写真を見て舌を巻いた。「早乙女のお嬢さん、見た目は清楚だけど、やることは大胆ね……これが本気ってやつか。」