「黒川綾斗はまたパトロンを乗り換えて、相変わらず詐欺まがいの結婚や恋愛で生きてるらしい」――そんな皮肉が囁かれる一方で、「早乙女家との一件、実は表向きほど単純じゃないのでは?」と密かに推測する声もあった。
とにかく、このニュースが流れるや否や、世間は大騒ぎになった。
実際、清源テクノロジーの社内でも、黒川綾斗の加入を歓迎しない空気があった。
何しろ、彼はちょうど早乙女財閥から降格されたばかりで、世間の目も厳しい。
「清源が早乙女家から見捨てられた人間を拾った」と思われれば、会社のメンツも丸つぶれだ。
会議室では、上杉桜が三人の取締役を前に、微動だにせず座っていた。
小早川一郎は六十歳近く、業界でも名の知れた人物だ。目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「上杉社長、綾斗の実力を疑っているわけじゃありません。ただ、今このタイミングで彼を経営陣に加えるとなれば、世間の反発を招かないでしょうか?そのせいで資金調達に悪影響が出れば、本末転倒です」
三十代前半の浅野玲子は財務管理に長けている。「それに、彼は早乙女財閥の内部情報をかなり握っています。もしメディアに“情報漏えいを狙っている”と取り沙汰されたら、大きなリスクになります」
上杉桜はいつもの通り毅然とした態度で、反対意見は予想していたようだ。
「皆さんのご心配は理解しています。でも、清源が今後成長していくには、経験あるオペレーション人材が不可欠です。綾斗は間違いなく最適な人材です」
「情報漏えいについては、厳格なコンプライアンス契約を結んでいます。彼が一線を越えることはありません」
エンジニア出身の木村拓也も口を開いた。「私は綾斗について特に異論はありません。ただし、今進めている“疫雲メディカル”プロジェクトが、早乙女家や古川家の反感を買った場合、影響は避けられません」
上杉桜は薄く微笑んだ。「もういくつかのファンドと話をしましたが、彼らはゴシップには興味がありません。見るのは我々の収益性だけです。それに、早乙女家でなければならない理由もありません」
取締役たちは互いに視線を交わし、すでに腹は決まっていた。
彼女は社長であり、最大株主。決定権は揺るがない。
小早川一郎は渋々頷いた。「分かりました。では、今後を見守りましょう」
浅野玲子も微笑んだ。「綾斗さんが会社に新しい風を吹き込んでくれることを期待しています」
その言葉には、微かな含みがあった。
若く端正なCOOと、美しく決断力のある女社長――この組み合わせが週刊誌に狙われたら、どんな話題にされるか分からない。
……
夕方になり、清源テクノロジーの管理部はてんやわんやになっていた。
各メディアから電話が殺到し、特に黒川綾斗の過去や「元妻騒動」について根掘り葉掘り聞きたがっていた。
マーケティング部と広報部が連携し、黒川綾斗の周囲を固める。
ようやく新しいオフィスで少しだけ静けさを取り戻したが、持ち込んだキャリーケースはまだ開けてもいない。
山本維が足早に入ってきて、書類を数枚手渡した。「綾斗、これが声明文です。要点は、“あなたが早乙女財閥を自ら辞めたのは純粋にキャリアの選択で、恋愛スキャンダルとは一切無関係”という内容です」
「それから、虚偽報道に対しては法的措置も辞さないという文言も入れています」
黒川綾斗は文案に目を通し、目を細めた。「よく書けてる。ただ、声明の効果は限定的でしょう。早乙女家がさらに仕掛けてくるなら、こちらも備えておく必要があります」
山本維は頷いた。「上杉社長の方針としては、織奈の“明確な証拠”を出すタイミングを見計らって、一気に世論を覆す予定です」
黒川綾斗は淡々と答えた。「了解した」
そこへ、スマートフォンが震えた。発信元は早乙女織奈。
見慣れた名前を見て、彼は冷ややかに口元を歪め、そのまま電話を切った。
すぐにメッセージが届く。
「まだ諦めてないのか……」と、彼は小さく呟いた。
清源テクノロジー本社の受付には、“特別な訪問者”が現れた。
早乙女織奈はダークパープルのワンピースに身を包み、完璧なメイクで受付に立っていた。
警備員も上層部の指示で、見て見ぬふりをするしかない。
エレベーターが「チン」と開き、黒川綾斗が現れる。
彼女は目を輝かせて駆け寄り、華やかに微笑んだ。「やっと会ってくれるのね」
「話なら今ここで。10分だけだ。終わったら帰ってくれ」彼の声は冷たい。
その冷たさに、織奈は胸を締め付けられた。
悔しさを抑え、声を落として頼む。「もう少し静かな場所で話せない?」
「必要ない」黒川綾斗はきっぱりと断る。
「ここで十分だ。嫌なら帰れ」
織奈の瞳にかすかな哀しみが浮かぶ。昔のように、しおらしい口ぶりで彼を揺さぶろうとした。「本当に、少しも昔の気持ちは残ってないの?」
黒川綾斗は無表情で返す。「茶番はやめろ。付き合ってる暇はない」
織奈は歯を食いしばり、ついに仮面を外した。「いいわ、じゃあはっきり言う。綾斗、私、妊娠したの。責任を取る気はあるの?」
わざと声を上げたので、周囲の社員たちが一斉に振り向いた。
「早乙女家のお嬢様が妊娠?相手は黒川綾斗?」――どよめきが広がる。
黒川綾斗の表情が一気に険しくなり、低い声で答えた。「DNA鑑定が終わるまでは、勝手なことを言うな」