時雨龍介はその場に立ち尽くし、複雑な表情を浮かべていた。
彼はスマートフォンを取り出し、連絡先から水卜涼太の番号を探し出して発信した。
……
その頃、清源テクノロジービルの中。
黒川綾斗は巨大な透明ディスプレイの前に立ち、指先で様々なデータやグラフを操作していた。
オフィスの中にはプロジェクト資料が散乱し、壁一面にはカラフルな付箋が貼られている。それぞれに彼の考察や改善案が書き込まれていた。
「すっかり仕事モードね。」
上杉桜がコーヒーを二つ持って入ってくる。
「初日からそんなに飛ばして大丈夫?」
黒川綾斗はコーヒーを受け取りながら言った。
「もう慣れてる。疫雲メディカルのポテンシャルは大きいけど、市場戦略はまだ練り直す必要がある。」
上杉桜はディスプレイに顔を近づける。
「何か新しいアイデアでも?」
「B向けの戦略が守りに入りすぎてる。」と黒川綾斗は投資回収グラフを指差した。
「まずは地方の中小病院で成功事例を作ってから、大都市に展開した方がいい。それと、政府との繋がりも意識して、厚労省のテクノロジーデモプロジェクトに切り込める。」
上杉桜は目を輝かせた。
「なるほど、前の案より現実的ね。」
「これはあくまでたたき台。もっと市場のデータが必要だ。」黒川綾斗はコーヒーを置きながら言う。
「さっき言ってた取引先は?」
「横浜市の医療技術評価センターよ。」上杉桜が微笑む。
「ここを押さえれば、横浜の市場は大きく広がるわ。」
黒川綾斗はうなずいた。
「分かった。じゃあ、何を準備しておけばいい?」
「そのままで大丈夫。こういうのは綾斗の方が得意でしょ。」上杉桜が彼を見つめる。
「そうだ、山本さんが早乙女財閥について新しい情報を送ってきたけど、見る?」
黒川綾斗は少し考えてから答えた。
「メールで送っておいて。」
上杉桜が何か言いかけたその時、受付から内線が入った。
「上杉社長、下に早乙女財閥の伊藤部長がお見えで、綾斗さんにお会いしたいそうです。」
黒川綾斗は眉を上げた。
「佐藤部長?佐藤浩?」
「知り合い?」
「彼は早乙女財閥で一緒にチームを組んだことがある。優秀な人材だよ。」
上杉桜がうなずいたのを確認して、黒川綾斗は言った。
「上がってもらって。」
数分後、30代前半でスーツ姿の男がオフィスに入ってきた。
黒川綾斗の姿を見るや、満面の笑みを浮かべる。
「綾斗さん、ようやくお会いできました!」
黒川綾斗は手を差し出した。
「佐藤さん、久しぶりですね。」
佐藤浩は上杉桜を一目見て、黒川綾斗が紹介する。
「こちらは清源テクノロジーのCEO、上杉社長です。」
「はじめまして。」佐藤浩はすぐに手を差し出した。
「上杉社長のお名前は以前から存じております!」
上杉桜は微笑みながら握手した。
「今日はどんなご用件ですか?」
佐藤浩は少し照れくさそうに笑った。
「実はご相談がありまして。綾斗さんが抜けてから、ギャラクシープロジェクトが完全に混乱していて、時雨さんが引き継いだのですが……」
彼はそこで言葉を切り、話題の重さに気づく。
黒川綾斗はうなずいて促す。
「困っているなら話してほしい。7年も一緒に働いた仲だろう。」
佐藤浩は意を決して話し始めた。
「時雨さんはプロジェクトにまったく詳しくなく、とにかくコスト削減ばかりで品質が一気に落ちました。先週納品したスマートコミュニティシステムも大きなトラブルが出て、クレームの電話が鳴り止みません。チームも疲弊していて、このままだと持たないので、アドバイスをいただけないかと……」
黒川綾斗は眉をひそめて考える。
「具体的にどんなトラブルがあった?」
……
上杉桜は黙ったまま黒川綾斗を見つめ、そのプロジェクトへの深い理解と自然なリーダーシップに、ほんのりと口元を緩めた。
やがて話が終わり、佐藤浩はホッとした表情で礼を言った。
「ありがとうございます、綾斗さん。おかげで何とか今の危機には対応できそうです。」
「気にするな。みんな大事な仲間だから。」黒川綾斗はやさしく返す。
一通り話を終え、佐藤浩は帰り際に言った。
「綾斗さん、みんなあなたをとても懐かしがっています。今の早乙女財閥は、どのプロジェクトも調子が悪いんです。」
黒川綾斗は多くを語らず、静かにうなずいた。
「無理せず、体に気をつけて。」
佐藤浩が去った後、上杉桜は静かに言う。
「彼、本当にあなたを尊敬してるわね。」
黒川綾斗は窓の外を見つめながら答えた。
「この問題は、実は僕が辞める前から予兆があった。早乙女財閥は拡大しすぎて、管理が追いつかなくなっていたんだ。品質が落ちるのも時間の問題だった。」
「あなたがいなくなったからよ。」上杉桜は彼の隣に立ち、同じように窓の外を眺める。
「会社の核となる人が抜けると、崩れるのは想像以上に早いものよ。」
黒川綾斗は苦笑いを浮かべて首を振る。
「僕はそんな大した存在じゃないよ。」
「でも、あなたが育てたチームは今もあなたの帰りを待ってる。」そう言って上杉桜はドアへ向かう。
「でも、現実を見てもらわないとね——あなたはもう清源の人間なんだから。」
ドアが静かに閉まる。
黒川綾斗は窓辺に立ち、下の車や人の流れを眺めながら、複雑な思いを抱えていた。
彼はスマートフォンを取り出し、上杉桜から届いたメールを開く。
そこには山本維のレポートが添付されていた。
早乙女財閥の株価は最近大きく乱高下し、主力プロジェクトの多くが危機に陥っている。市場の信頼も揺らぎ始めていた。
本来なら痛快に感じるはずの報告だが、今の彼に喜びはなかった。
……
城東で最も高級なプライベートクラブ「逸影」の個室。
古川浩介はグラスを手に、向かいには少し恰幅のある中年男性、古川春樹が座っていた。
彼は古川グループのトップである。
「これが最新の市場調査です。」古川浩介は書類を差し出す。
「早乙女財閥は最近、プロジェクトが次々と問題を起こしています。特にギャラクシープロジェクトは、すでに赤字に転落しました。」
古川春樹は冷たく笑った。
「やっぱり黒川綾斗がいないとダメか。時雨龍介はどうだ、食いついてきたか?」
「涼太の話だと、あちらから連絡があったそうです。」古川浩介はグラスを揺らして得意げだ。
「焦ってるみたいですね。」
古川春樹は葉巻をゆっくり吸いながら言う。
「早乙女財閥が崩れたら、上杉桜に仕掛けるチャンスだと思わないか?」
古川浩介は驚いた表情を見せる。
「どういう意味ですか?」
「彼らの強みはどこだ?」古川春樹はひとつずつ問いかけ、息子のビジネスセンスを試す。
「早乙女財閥は政財界のコネ、清源は技術力。だが、どちらにも足りないものがある。我々古川グループは、その両方を持っている。」
古川浩介はうなずいた。
「つまり、黒川綾斗が早乙女財閥を去ったのはチャンスだった、と?」
「その通りだ。早乙女財閥は力を失い、清源は黒川を受け入れたことで敵対関係になった。今こそ、我々が一番美味しい思いをする時だ。」古川春樹は冷笑する。
「時雨には様子を見ながら接触しろ。正体を見破るな。あいつは欲深くて浅はかな男だ。少しおだててやれば、すぐに釣られるさ。」