リスト侯爵夫妻に客室を使用する旨を伝え、ノアンとヒリスを飛ばした客室を訪れたヒルデガルダは何もしていない室内の光景を見て少々呆れた。折角ベッドの上に着地するよう設定したのにヒリスは寝かせられており、今尚媚薬の効果で苦しむノアンはソファーに倒れている。ヒルデガルダの思い通りになるのが嫌だろうと身体の疼きを早く鎮める方法は一つ、ヒリスを抱く以外ない。呆れながらノアンに近付くと腕を引っ張られた。倒れ込むことはなかったけれど体勢を崩し、ノアンの腰辺りに座った。
赤く染まった顔、涙目で強く睨んでくる紫水晶の瞳、力の入っていない手。全て媚薬によって齎されているノアンの現状。
「意味不明ですわ」
「お前にだけは言われたくないっ」
「何故マクレガー公爵令嬢を抱かないのです。再び婚約する絶好の機会だというのに」
理由が理由だけに公になれば好奇の視線を受けるのはノアンとヒリス。対策だってしっかりと取る予定はしている。ノアンとの関係改善が不可能だと国王に話し、更にヒリスとの再婚約の為に強大な魔力を手に入れたと強く訴えたことにより、晴れて二人は再び婚約者となる。という筋書き。真相は国王に話すがオーギュストとヒルデガルダが企んだとなれば諦めがつくだろう。その旨をノアンに伝えても彼の表情から険しさは消えない。
「やっぱり意味不明ですわ」
「一時は良くても、時間が経てば何れ後悔する日が来る。勢いのままに身を任せ犯してしまった愚行を」
「だとしても、それを上回る幸福を貴方もご令嬢も手に入れられる。ねえノアン様、貴方は先程からマクレガー公爵令嬢の名誉を理由に拒んでいますが全て貴方の都合でしょう? 彼女の気持ちを考えないのですか」
「それについてもお前にだけは言われたくない!」
「はあ」
どんな言葉を使おうとノアンは理性を保つ限り間違いを起こそうとしない。
「オシカケ」
「なンですか」
「こういう場合はどうすれば相手を屈服させられる?」
「そんなンお嬢の得意分野……ああ、脳筋のお嬢じゃ無理か……。あ〜……以前王子を襲った時と同じことでもすればいいンじゃないですか」
「だ、そうですわよ、ノアン様」
にっこりと笑ってやれば、途端暴れられるもノアンの全身に重力を纏わせ動きを封じた。
「強大な魔力を手に入れようとノアン様と私の力の差は埋まりませんわ。オーギュストが言っていませんでした?」
「っ……」
憎々し気に強く睨むノアンを嘲笑うヒルデガルダの手はクラバットを外しにかかった。服の釦を外して上半身を曝け出した。一度襲ってから日数が経っていない為、二度目だろうが筋肉の少ないノアンの上半身は男らしさに欠ける。すべすべな肌を指先でなぞれば擽ったいのか歯を食いしばって耐えるノアンの唇を眺め、吸い寄せられるようにキスをした。
紫色の瞳が大きく見開かれた。前にラウラに勧められた濡れ場の恋愛小説に出て来る口付けではない、唇同士を触れ合うだけの口付け。
ノアンの顔から少し離れると呆ける様をまじまじと見、再度口付けた。揺れる紫色の瞳に気付いて漸くヒルデガルダは身体を離した。
「何してンですかお嬢」
絶対にヒルデガルダとノアンを見ないと徹底していたオシカケの呆れた声に応えてやれない。ヒルデガルダ自身も答えを持っていない。
「二度目なら襲う気になれると思ったのに、全然そんな気になれないの」
「それは良かった」
「あ。そうか、ノアン様が抵抗する術がないからよ」
「抵抗する術を奪ってンのはお嬢!」
「ヒルダ……」
抵抗する術を持たせたら襲う気は起きると判断したヒルデガルダが動き出そうとした矢先、様子を見に来たであろうアイゼンの不機嫌極まりない声が届いた。扉に鍵を掛けるのをすっかりと忘れていた。オシカケを呼んでも「あ〜おれはなンにも聞こえません聞こえませんよ」とスルーする始末。後で覚えていろと内心で吐き、大股で此方に来るなりアイゼンに立たされた。
「何これ、ヒルダは王子を可哀想としか思っていないんじゃないの」
「可哀想以外は何も抱いてない」
「襲ってんじゃん」
「前にも一度襲った」
「は……!?
「オシカケ」と他人の振りを徹底して自分だけは絶対に混ざらないと天井を見上げたままのオシカケを再度呼ぶ。意地なのか、絶対に関わらない鉄の意思を見せられ仕方なく諦めた。オシカケは後で罰ゲームをくれてやると心の中で吐きつつ、大層不満なアイゼンを再び見上げた。
「襲ったと言っても何もシていない。シていないというか肌を触っただけでそれ以上の接触は何もしてない」
「キスはしたのに?」
「前はしてない。今初めてした」
キスをした理由を訊ねられても答えを持っていないせいで言葉を詰まらせた。疑り深いアイゼンをどうやって信じさせるか、と困っていればオシカケから助け船が出された。
「あ〜……お嬢が言っているのはホントですよアイゼン様。今みたいに王子を襲ってましたが王子の上半身触って終わりです。キスは…………なんでしたンですか」
「分からん」
「王子が初めてだったらどうするンですか」
「初めて……」
初めてのキスは恋愛小説でファーストキスと書いてあった。確認の視線をノアンへやるとぷいっと逸らされた。つまり……ある意味ではノアンの初めてを奪ったのだ。ヒルデガルダが。
「恋愛小説に登場する悪女みたいね」
「お嬢が悪女なのは認めますよ。ポンコツですけど」
「お前、屋敷に戻ったら覚えておきなさい」
説明下手なヒルデガルダに代わって、関わりたくないマンを貫きたかったオシカケが役割を担ったのは不機嫌なアイゼンの魔力が急上昇しているのを察知したからで。高位魔族は魔力を上昇させるだけで周囲に影響を与える。現に部屋の壁に罅が発生してしまっており、近付いて修理を施す。
オシカケの説明とヒルデガルダの下手説明を受けても未だ不機嫌なアイゼン。他人へのご機嫌取りをしたことのないヒルデガルダだが、どうすれば機嫌を直してくれるかは相手によっては分かっているつもりだ。
「アイゼン」
顔を下げてとお願いすれば、不機嫌なのはそのままでも言う通りにしてくれた。両手でアイゼンの両頬を包み、頬に触れるだけのキスを送った。自分よりも薄い青の瞳が丸くなり、これでは駄目か、と頭を悩ませるも。「……ご機嫌取りのつもり?」と問われ「まあ……直らないか?」と返せば、不機嫌な面持ちは些かの呆れの混じった微笑へと変わった。
「いいよ。場所は不満だけどヒルダからキスをしてくれるなんて」
お返しと頬に口付けをされた。
隣下から鋭い視線を受け、ノアンの存在をすっかりと忘れていた。信じられないと言わんばかりに見開かれた紫水晶の瞳。気のせいかショックを受けている。何故? と抱くが閃いた。しかし、披露する直前アイゼンに抱き締められた。ノアンに見せ付けるように。「アイゼン?」と呼ぶと「僕に任せて」と小声で話され大人しくすることに。
「一国の王子に生まれたからには、周囲への模範となるよう育てられるのは僕にも分かる。国の為とあれと育てられれば、尚のこと個人の意思は隅に置かれるのも。ただ、僕は此処にいるヒルデガルダがずっと好きなんだ。君と元婚約者が復縁する絶好の機会を与えられたんだ、一度くらい自分勝手に考えたって罰は当たらないさ。神だって一々一人の人間を罰する程暇じゃない」
「ヒルデガルダの、知り合いだったのかっ」
「そんなとこかな。ヒルダは君と元婚約者の純愛が見たくて君と婚約解消したい。僕はヒルダが好きだから君という婚約者がいなくなってくれれば良い。君は元婚約者と復縁出来る。誰も不幸になんてならない」
「ヒリスには、既に新しい婚約者がいるんだ。勝手に変えられるものじゃない」
「いいえ、ノアン様」
ランハイド侯爵家には、事前にヒルデガルダからレイヴンへ報せた。詳細は昨日オーギュストが話を通しており、隣国の公爵令嬢との婚約を持ち掛けるとランハイド侯爵もレイヴンもあっさりと受け入れた。既に隣国の公爵家とも話を付けており、後日顔を合わせる段取りをしているところ。ヒリスと婚約解消となってもランハイド侯爵家にとっては無問題。マクレガー公爵については、今日ノアンとヒリスの既成事実成立後に話すつもりであった。
「マクレガー公爵令嬢とランハイド殿が婚約解消となっても、ランハイド側には新しい婚約者候補……恐らく婚約成立となるので婚約者がすぐに現れます。ノアン様やマクレガー公爵令嬢の障害はもう何もありません」
乱れた衣服を整えようとノアンへ手を伸ばしたらアイゼンに止められた。
「触りたいなら僕を触らせてあげる」
「お前……やっぱりそうなのか」
「やっぱりとは?」
自分一人納得され、何がと返せば、アイゼンとの浮気を疑われた。肉体関係を結んでいないとは言え、同じベッドで何度か寝ている。こういう場合は同衾と表現すべきか、だが性行為をしていないから使うのも違うが気がしてヒルデガルダは黙った。
「は……サンチェス公爵との関係は否定しておきながら、その男については何も言わないのか」
「オーギュストとは事実養父と養女以外の関係はありません。オシカケも。アイゼンとは……ええっと」
性行為をしていなくても一緒に寝ている。こういう場合どう言うべきか思い付かず、無関係の振りを徹底するオシカケへ怒り声で助けを求めれば。
「そこでおれを呼んでどうすンですか! ああもうっ、お嬢とアイゼン様は身体の関係を持ちましたこれで心置きなくノアン王子は国王陛下にお嬢の不貞を理由に婚約破棄を突き付けられます!」
「持ってない。一緒に寝てるだけ」
「持ってないンですか!? ええと、じゃあこういう場合は……ああもうっ、婚約者以外の男性と一緒に寝てる時点で不貞です十分婚約破棄をする理由になりますなのでノアン王子は心置きなくお嬢に婚約破棄を突き付けられます!!」
半ば自棄気味にヒルデガルダが言いたい言葉を全て代弁してくれた。