少女はテディベアを抱き締めた。買ってもらったばかりなので新品の爽やかな香りがした。
祖母に「ありがとう」と言うと皴だらけの顔で喜んでくれる。少女の頭を撫でてくれた。
玩具屋があったデパート、そこから出ると夏の日差しが少女たちに降り注いだ。
「帰りたくない」と少女は愚図った。
——家に帰ると嫌なことが待っている。六歳という幼い少女はすでにそう自覚していた。
祖母は困った顔をしてうなった。「そうだよねえ」と言ってから、「じゃあファミレスで晩ご飯食べよっか」
その言葉に少女は無邪気に喜んだ。
午後六時。夕方の紅が差す頃。少女は玩具がもらえるというお子様カレーを、祖母は鉄火丼を食べていた。
会話に花が咲く。少女はその歳相応の笑みを見せた。それに幸せそうに相槌を打ってくれる祖母。互いに幸福を感じていた。
この時は——。
帰宅すると少女は両親から邪魔者扱いを受けた。父は少女を睨み付け、嫌悪感をにじませながら「帰ってきやがって」と呟いた。大事に持っていたテディベアを見やり祖母に向かって、
「こいつをあんまり甘やかすなよ。ろくな女にならなくなるぞ」
と顔を顰める。すると祖母は少女を守ろうとしたのか厳しい表情になって、「信介。私の勝手だろ。それとも盾突く気かい?」と固く言った。それに怯えた父は祖母に謝って寝室に消えた。
母は少女を見てもあえて何も言わず、ただ全ての鬱憤を晴らすかのような溜息をついた。
——これが織田夏木の幼少期の頃の話だ。
どうして両親が夏木を目の敵にするのか。それを深く理解できたのは十二歳の頃だった。
父は貿易会社の社長。母と結婚した時、子供は男がいい、と決めていたそうだ。だが、母は不妊症を患っており、なかなか子供が出来なかった。ようやく授かったのは母が四十代半ばに差しかかった頃だった。しかし、産まれたのが娘だったことに父は激しく憤った。「なんで女なんか産みやがったんだ。この役立たずが」と怒声を浴びせた。もう母の年齢から考えられるに子供は作れない。
それから父はたとえ不倫相手の子供だったとしても息子が欲しいと思うようになって、外で女を作るようになった。
母は自身から離れていく父のことを思って、その腹立たしさを娘である夏木に向けるようになった。全ての元凶はお前であると。
だが祖母の目もあってあからさまなネグレクトや虐待は与えなかったが、しきりに無視するようになった。
それを知った時、夏木は理不尽だと感じた。教えてくれたのは祖母だ。この現状に耐えかねて質問すると、訥々と語ってくれた。
「いつかは知っておいたほうがいいから」
今にも泣きだしてしまいそうだった夏木に、祖母はそう言った。それに夏木は悲しくも頷くしかなかった。
祖父はあまり夏木に興味がなかったが、祖母は親からもらえない愛情を代わって与えてくれる存在だった。
夏木が家に居辛いと感じていると祖母がそれを察して外出につれて行ってくれた。そんなある日に買ってくれたのがテディベアだった。夏木はそれを辛い時、寂しい時によく抱き締めた。
中学に入学した時、祖父がヤクザの総長だということを知った。家にやってきた風貌の悪いスーツ姿の男性たちが祖父に、「総長」と呼びかけていたから悟った。
そのことに、夏木が持っていた潔癖さが悲鳴を上げるのを感じた。身内に犯罪者がいる。そのことを汚らわしく思ったのだ。
夏木はリビングで洗い物をしながら、そんな男たちと祖父とのやりとりを傍目に見ていると、祖父の側にいた祖母が発言した。
「それでもあんたはうちの参謀かい」
その発言は、十分に祖母がヤクザに関わっているとわかるもので、夏木は戦慄した。祖母に初めて嫌悪感を抱いた。
リビングから逃げるように出ていき、自室で夏木はテディベアを見ながら泣いた。
祖母には犯罪とは無関係でいてほしかった。夏木の潔癖さがそれを許せないでいる。
六月のある日。乾いた風が流れる教室で、夏木の友達である高城姫乃が不安気な声で訊いてきた。
「ねえ、私のお兄ちゃんから聞いたんだけど、うちの学校に暴力団の総長の孫がいるって言ってたんだ。お兄ちゃん、暴走族でね。多分、その話本当だと思う。……もしかしてだけど、夏木ちゃんじゃないよね」
そんなことをわざわざ
すると女友達の表情が段々と崩れてきた。そして——。
「じゃあ、もう友達やめよっか」
そう冷たく言い放ち、去っていった。
夏木は奈落の底に落ちたように苦痛を感じた。それぐらいショックを受けた。衝撃だった。
それから学校で、夏木は空気のように扱われた。そこに存在していないかのように。
こうして、夏木は学校でも家でも居場所を失った。そのことを自覚したくなくても絶えず夏木を苦しめ続けた。
いつしか登校せず自室に籠るようになった頃。部屋にあったノートPCでツイッターを眺めていた。誰か自分と同じ悩みを持つ人を見つけて、このような環境で辛いのは夏木一人じゃないのだと安心したかったからだ。
すると、あるアカウントを見つけた。それは『アラウンド』という、社会から排斥された若者が集うアカウントだった。
家や学校に居場所がない人や、自殺願望を持つ人が自身の境遇を発信し、慰め合うというのが主な利用方法だった。それに夏木は共感を得られた。
色んなメッセージを見ていると、どうやらこの『アラウンド』には集会があるらしい。
それを知って、夏木は実際に行ってみようと思った。顔も名前も知らない人との交流は不安もあるけれど、新鮮で楽しそうだ。
早速その日の晩、運営者にDMを送って何通かやりとりをし、そこで提示された場所、新宿中央公園に行ってみることにした。
ただの傷の舐め合いかもしれない。それでもそこしかすがる場所がなかった。
夜の十一時。都営大江戸線に乗って都庁駅前で降りた。
公園の中心では、皆陰湿な雰囲気を身にまとった二十人ぐらいの若者が集まっていた。一人は金髪で、手には煙草があり、三人ぐらいのグループで暗い表情で会話をしている。
その集団に近付くと奇異の目線が突き刺さった。つい、おどおどしてしまう。
すると赤髪の、二十代半ばといった男が近付いてきた。目付きが鋭く、腕には竜の刺青がある。
「君がDMをくれた子かな」
「あ、えーと、そうです」
するとその赤髪は笑って、発する硬い雰囲気には似合わない柔和な微笑みを見せた。
「僕の名前はサインズ。よろしくね」
サインズ? 夏木も名前を名乗ろうとすると手で制された。
「ここでは皆、ハンドルネームで呼び合うんだ。犯罪に巻き込まれないようにね」
夏木はそれに頷いて、それから少し考えてから、
「じゃあ、サマーって呼んでください」
と言った。すると近くにいたパーカー姿の少女がこちらに歩み寄ってきた。
「初めまして。アゲハって言います。よろしくね」
アゲハ、と言ったその少女は袖口を気にしながらそう言った。夏木も努めて笑いかける。
「ここ、『アラウンド』の運営は全部僕が担っているから。何か気になることや困ったことがあったら相談してね」
と、サインズがなぜか粘着質な視線を投げながら言ってきた。それに若干の気持ち悪さを感じながらも頷いた。
これが、夏木と異質な存在の集まりである『アラウンド』の出会いだった。
ここから劇的な変化などは特になかった。互いにぬるま湯の時間を感じながら過ごすだけだ。その環境に、夏木はいつしか甘えるようになった。そこにはアゲハという少女の存在があったからかもしれない。アゲハは痛い気な少女で、自身に背負った傷をかばいながら生きているような、そんな様子もあった。
二人はいつしか、打ち解け合うようになった。そこには、互いに共通する部分があったから仲良くなれたのだろう。
潔癖さ。それが二人の共通する性質だった。
犯罪者が許せない。いじめが許せない。当然としてある社会悪が許せない。
二人は互いに共感しながら、仲を深めていった。その時の会話のテーマがいつも、悪とはなんたるかだったが、それでも自分の思考や信念を伝えられる存在がいることは、夏木は嬉しかった。
ゆえに、怖い部分もあった。もし、夏木の祖父が犯罪の象徴であるようなヤクザの元締め――総長であると伝えたらどうなるのだろうか。激しく拒絶されるかもしれない。そんな不安が夏木を襲った。
ある日、アゲハと一緒に集団から少し離れたベンチに腰掛けて、空を眺めていた。
「実は、私学校でいじめられていたんだ」
唐突に始まった暴露に、少し夏木は身構えた。
「それでね、耐えられなくなってリストカットを繰り返すようになった」
そう言って袖をまくり上げた。無数の深いリストカット痕が露わになる。
「なんかこんなことする自分が気持ち悪くなって、こんな社会からも自分からも逃げられる場所を探したら『アラウンド』があった。ここの人は皆、優しくて私に親切にしてくれた。それに友達も出来たしね」
そう言って少し笑いかけてくるアゲハ。夏木もつられて笑った。
「サマーちゃんはどうしてここに来ることにしたの?」
「私も……同じだから」
「え?」
夏木は俯いて、少しずつ考えながらその思考を言葉にしていく。
「私も学校でいじめられた。おじいちゃんが特殊な職業の人でね。それを知られて嫌悪感を持たれてさ。それから空気みたいに扱われた。家でも居場所がなくてどこか自分を肯定してくれる場所がないかって探したら、『アラウンド』があった」
「特殊な職業って?」
こんな話し方をすればそこを聞かれるよな。夏木は苦笑しながら腹を決めた。
「ヤクザの総長なんだ」
アゲハの顔色が曇った。それに肝が冷える思いを感じた。もしかしてまた嫌われるんじゃないか……。
「そんな辛い環境にいたんだね。サマーちゃんは犯罪をする人を嫌っているから、そういうの許せないでしょ。私もその理不尽な気持ち、理解できる。ほんと、今まで大変だったね」
「ごめん……」
夏木は押し寄せる悲しみにこらえきれず涙を流してしまった。初めて理解された。わかってもらった。それが嬉しくて。ただ嬉しくて。
アゲハが背中をさすってくれる。その優しさに感謝して、今は悲しみに抗わずただそれを感じようと思った。