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第26話 新しい友達

 アゲハを失った喪失は、幾度も夏木を苦しめた。


 何も出来なかった夏木。アゲハを救えなかったことは一生の汚点だ。


 サインズに対して恨みや怒りを覚える。夏木の手で制裁を下してやりたいと思うが、それは叶わない。本当に、無念だ。


 夏木は天井を仰ぎ見る。きっと今頃、エデンの園にいるであろうアゲハを想う。彼女はそこでは幸せを感じていてほしい。


 携帯を開き、フォルダにあるアゲハと夏木の写真を見る。泣いたから少し目が充血している夏木と、優しく微笑んでいるアゲハ。あの日、一生の友情を誓い合った。その記念の写真だ。


 これを見ると、今でも涙ぐんでしまう。もう既に七月。事件から一カ月が経っている。アゲハの存在が何よりも夏木の希望であった。その希望を失い、ただ絶望してしまいそうな現実だけが残っている。


「ほんと、どうしよう……」


 するとノックが鳴った。わざわざ夏木の部屋に来るのは祖母ぐらいだ。


 祖母は菓子が敷き詰められたバスケットを持って入室してくる。夏木が先ほどまでの感情を悟られまいと努めて笑う。


「夏木、女子会しない?」


 微笑む祖母。多分、不登校な現状を危惧した祖母が、女子会という体裁を作って話そうとしてくれているのだ。その気遣いに、優しさに嬉しく思う。


祖母が床に座り、菓子を広げる。そのどれもが夏木が幼少期の頃に好きだと言ってよく買ってもらっていた物ばかりだった。好みを覚えていてくれたんだ……。


「夏木……最近学校行ってないよね。何かあったの?」


 そう言われても正直に答えられない。祖父が原因だと知ったら、祖母は負い目を感じてしまうからだ。だから適当な理由を伝える。


「学校で少し陰口を言われていて、それが嫌になったの」


 するとわざとらしく祖母が怒りを露わにした。


「酷い人がいるものね。腹が立ってきちゃった。こんなにかわいい夏木の悪口なんて、許せない」


 夏木は苦笑いした。本当は陰口よりも陰気で、でも質素ないじめなんだけどな。


「普通、この場合は将来のことを考えると無理してでも行った方がいいとか言うべきなんだろうけど、私はそう思わない。人それぞれ自分に合う居場所や環境があるからさ。無理して合わない環境に居おうとしなくていい。夏木にとって今この部屋が安心できる場所なら、しばらくここに居てもいいと思う。いつか、別の環境に出てみようと思える瞬間がきっとあるはずだから」


 夏木に合う環境。かつては『アラウンド』だった。甘んじた場所で、そこで交流をするたびに夏木は心が安らぐのを感じた。多分、夏木には心を休めせる場所が必要だったのだと思う。


 それから事件が起こり、『アラウンド』に行かなくなった。『アラウンド』について報道されるニュースも避けた。それは見たら嫌悪感を抱くからだ。コメンテーターや評論家が好き勝手に口走る内容に、悪寒がした。未成年をレイプするために作れられた集団だとか、こうした集まりは新たな犯罪を助長するだけだとか、そんな内容に腹が立つ。あの集団は、悩みを抱えて、でも一人では解決できないくすぶらせた感情を発散させるためのものだ。サインズが問題を起こしたことで、そうした本質が捻じ曲がり、悪として世間に印象を与えることになった。メディアリテラシーもへったくりもない。


 ——夏木が安らぐ場所は、祖母の言う通りこの自室なのだと思う。でも、それで本当にいいのかと不安になる。社会に出ていかず、倉に閉じこもっていてもいいのか。


 そんな気持ちを察したのか、祖母が「安心して。大丈夫だから」と言ってくれた。


 祖母の言葉が咀嚼され、溶けていく。それはとても温かいもので、胸の辺りで感じられる。


 そして祖母は話もそこそこに帰っていった。


 別の環境に出てみようと思える瞬間、か。多分、それは今なのだと思う。アゲハが亡くなって彼女が再び学校に行く機会は失われた。なら、夏木がそれを代わりに果たすべきなのではないか。


 祖母の言葉で踏ん切りがついた。明日、行ってみよう。たとえそこで排斥されていたとしても我慢するんだ。もうその我慢することすら、アゲハは出来ないのだから。


 翌日。窓を開けて新鮮な空気を感じる。朝の空気は好きだ。清々しくて、夏木の潔癖な性格に似合う。


 制服に袖を通す。この感覚、久しぶりで少し昂揚した。


母の顔を見ると気分が萎えるので、リビングで朝食を取らずそのまま家を出る。夏の日差しが照り付けるのを感じる。


歩いていると、生徒たちが列をなして歩いているのが見えた。反射的に体に緊張が走る。


学校に着くと下駄箱で靴を履き替えて教室へ向かう。教室へ入ると生徒の注目を一瞬だけ浴びた。「なんでお前がここにいるんだ」という目線。だがすぐそらされ、また夏木のいない“日常”に戻る。元々、クラスという歯車に夏木が存在していなかったかのように。


夏木は自身の席に座り、一息つく。まだ朝なのに一日の終わりのような疲労感を感じていた。家に帰りたい気持ちが溢れる。


すると、六月とは違ってもう一人歯車から外されている人物がいた。


猫背で背が低い女子生徒。名前は思い出せない。その女子は明らかに生徒からのけ者にされていて、上履きは鋏で裂け目を入れられてぼろぼろだ。表情は重苦しく、いかにも世の中全てに嫌気が刺しているといったようだ。


夏木はその女子にアゲハの姿を重ねていた。自信のなさや、不条理を呪っているさまを見てアゲハみたいだと思った。


彼女に話しかけてみよう。——それはどこか期待があったからかもしれない。かつて友達になってくれたアゲハと同様に夏木を無条件で信じてくれると。犯罪者の家族でも、許してくれると。


本にかじりついている女子に話しかけると肩を震わせて驚いた様子だった。


「なんですか」


「えーと、なんの本読んでるのかなって」


 しばし女子は呆けた様子のあと、


「O・ヘンリーの『賢者の贈り物』です」


 言われてもそれがなんの本なのかわからない。曖昧に頷き、「あーそれね……」と言い淀んだ。


 女子は警戒心たっぷりに、「知らないんだったら知らないでいいんですよ」


「そうね。正直に言うと知らないかな。そんなに本に興味があるわけでもないし」


「じゃあなんで訊いてきたんですか」


 夏木は頬を緩ませて、呟いた。


「本を読んでいるあなたに興味があったから、かな」


 いぶかしみながらも、「なんですかそれ」と笑ってくれた。


「私の名前は織田夏木……って、知ってるか。噂になってるもんね」


 自嘲気味に話すと、女子も名乗ってくれた。


「橘有希です」


 よろしくね、と笑いかけると有希は頷く。


 ぎこちない二人の関係はこうして始まった。二人は互いにないものを補いながら関係を深めていった。性格に共通点などなかった。元々陽気な性格で、潔癖症な夏木と、陰気な有希。だが相反するのに意外と仲良くなれた。


 夏休みをはさみ、九月。新学期が始まりを告げ、喜ぶ者、鬱陶しがる者など様々な反応に別れた。


 夏木は有希を誘って昼食を取っていた。この学校は給食がなく、各自食事を持って来ることになっている。一階に購買があり、そこで食事を買うことも出来る。夏木はその購買のメンチカツサンドが好きで、よく買っていた。今日もそれを頬張りながら有希の話に相槌を打っていた。


「ドラマや映画なんかだと屋上に出られるんですけど、安全面の配慮から駄目なんですよね」


 ここは屋上前の踊り場。本当は屋上の新鮮な外の空気を吸いながら食べたいところだが、現実それは禁止されている。


「橘さんはさ、生き辛いなって感じたことはない?」


「え、どうしたんですか急に?」


 有希が目を見開いて驚いている。確かに唐突な話題かもしれないなと感じて、ゆっくり説明を交える。


「いや、クラスメイトから無視されることに時々辛くなるというか……」


「私もですよ……」


 有希が消え入りそうな声で呟いた。床の一点をただ見つめ、胸のどろどろとした中身を吐露するように。


「私は空気が読めないことが原因でいじめられているんですけど、何がいけなかったんだろうって思って。——まあ自分が悪いんですけど。それでも考えてどうしようもなく苦しい時、ありますもん」


「どうして世の中こんな辛いことばかりなんだろうね」


 アゲハの存在を思い出す。アゲハはいつもこの不条理な世の中を呪っていた。いつだって厳しくて、抗っても抗っても太刀打ち出来ないそんな世の中。それに腹立たしさを感じていた。


 いつだって、世間は甘くない。アゲハはそれを誰よりもわかっている少女だった。まだ夢を見てもいい時期なのに、現実を直視していた。それはいじめられていたという事実が、彼女をそういう風に変えたのかもしれない。


「でも、私たちは教室の爪弾き者同士、仲が良いんだから。いつまでもこうしていようね」


 そう微笑むと、有希も笑ってくれた。




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