「……えっ?」
テアは驚いた。父親は生まれる前に亡くなったと母親から聞かされていたからだ。
タガーもそうだった。
「お、とう、さん……?」
とまどいながらテアが聞き返したときだ。
家から飛び出してきた母親が、血相を変えて叫んだ。
「2人とも逃げなさい!! 早く!! タガー、テアを連れて、早く逃げて!!」
そして自身は男の前に回り込み、2人を背後にかばうように両手を広げて立った。
「あの子たちに手を出さないで!!」
男は笑みを崩さず、むしろますます深めて丸眼鏡の奥の目を糸のように細める。
「いやだなあ、何言ってるの。あの子たちは僕の子でもあるんだよ。
好き勝手にする権利はきみだけじゃなく、僕にもある。そして――」
手が、優雅に振り切られる。
次の瞬間、母親の胸が横一文字に切り裂かれ、血を噴き出してその場に崩折れた。
「さあ。これで僕だけのものだ」
死んだ母親をひょいと避け――それは、靴底が彼女の血で汚れるのを嫌ったからだろう――男はタガーとテアに歩み寄った。
2人は、笑顔の恐ろしい男への恐怖に震えて、母親の突然の死も受け止められず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「ふふ。2人とも、ちょうどいいくらいに育ったね」
「…………どうして……」
頭ががんがんする。
逃げろと言った母。母が死んだ。父が、母を殺した。これは本当に現実なんだろうか?
死んだ母の姿を見せないように、テアを背にかばった。「こわい……」と涙声でつぶやいて、しがみついてきた彼女の震えが伝わってくる。
でも同じくらいタガーも震えていて。はたしてこの震えは彼女のものなのか、自分のものなのか、区別がつかなかった。
「ん?」
「どう、して……、母さんを……」
歯の根が合わない。ガチガチと歯を鳴らしながら、なんとかのどの奥から絞り出した言葉に、男は、ああとうなずくと、「邪魔だったから」とあっさり答えた。
「赤子だったきみたちには必要だったけど、もう要らないし。
きみたちは僕のものだ。そのためにわざわざ面倒なことをして、つくったんだからね。
15年も待たされたよ。実験のためとはいえ、ずいぶん歯がゆい思いをさせられた。ほんとは20年待つつもりだったんだけど、それだけ大きくなれば、もういいよね。
さあ、実験を始めよう」
もう待ちきれないよ。
男は歓喜に口角を上げて、三日月のような笑みを浮かべながら、タガーたちを見下ろした。
男が何を言っているか、タガーには理解できなかった。ただただ、この男が怖かった。
男の背後から赤い闇が生まれ、広がり。タガーとテアを飲み込んでいく。
何もかもをはぎ取り、奪い去ってゆく、熱い炎の風。
目を開けていられない。
再び目を開いたとき。タガーは一片の光もない閣の中へと戻っていた。
「テ、テアっ!? どこだ!?」
傍らから消えた気配に驚き、その姿を求めてぐるりと見回す。あせる目に映ったのは、信じ難い光景だった。
テアが、何者かの巨大な手につかまっているのだ。
それは畏怖すべき力の象徴。
こちらが夢なのだと悟るとともに、これから何が起きようとしているのかをはっきりと思い出して、心臓がつぶれるような痛みにタガーは胸を押さえた。
「テア!!!」
必死にその名を呼ぶが、テアは気を失っていた。
冷汗が滝のように流れ落ちる。冷たいものが腹の底いっぱいに広がり、膝が恐怖にわななく。
からからに渇ききった喉、砂をつめこまれたように重い手足はぴくりとも動いてくれない。
牢の冷たい鉄柵が、テアの元へ行こうとするタガーを阻む。
そしてタガーは、目前に立ちはだかった巨大な影に、その三日月型にくりぬかれた笑みに、心の奥底……本能から、おびえきっていた。
「テア! テア!」
呼ぶ声もむなしく、ぐったりとしたテアの姿はそのまま闇に消える。
「ちくしょう! テアを返せ!!」
鉄柵を両手でつかみ、全身全霊の力を込めて左右に引く。だが鉄柵はびくともしない。
桁違いの強大な力に恐怖し、おびえて……身動きひとつできず、大切な存在を奪われた。その屈辱に、タガーはのどがすり切れて血塵が舞うのもかまわず、全身で叫び続ける。
そんなタガーの姿はいつの間にか黒く、闇の色へと変わっていた。
柔らかな金茶の髪は冷たい黒に。明るい夏の空色の瞳は闇の瞳へ、無垢な肌は汚された。
母も、テアも。町の友達も、優しい町のおじさんおばさんたちも。
帰る場所も。
すべて失った。
あの深紅の魅魔によって。
「みんな、元に戻せ! 元に戻せ! ちくしょう、ちくしょう!!」
憤り、こぶしをかためて腹の底から絶叫する。
これがおまえたちのやり方だ! 何の道理もない。突然現れてすべてを壊し、大切なものを奪い去る! ただただ気まぐれに!
「ちくしょう……」
あまりの感情の高ぶりに、涙が流れた。ぬぐっても、ぬぐっても、端からどんどんこぼれてゆく。
どうして思いださなくちゃいけない? どうして2度もこんな思いをしなくちゃいけないんだ!
こんな、自分の無力さを思い知らされるなんて……どうして!!
はっきりと思い知らされる。テアを、母を、すべてを失った、こちらが現実なのだと。
あの日以来、身も心も切り刻む後悔の風は一時たりとやむことはなかった。けして癒されることのない傷は胸にぽっかりと穴をあけ、今も血を流し続けている。
その血のしたたった先には、冷たい闇の刀身をした大剣があった。
何も映ることのない、固く閉ざされた面。柄近くに小さく刻まれた銘は、
「まさか魔剣になるとはね」
剣を前に、面白そうに男はくつくつ笑っていた。
タガーのほうを向き、あごに手をやって上を向かせると目を覗きこむ。
「それにきみもだ。まさしく、よもやよもやだな。
うん。想定とは違っていたけど――てっきり2人とも、魅妖になるかと思ってたんだけどね――これはこれで面白いかも。
だから、きみたちは消さないでおくよ。ほかの子たちみたいにはね」
男はあははと笑って、全身の痛みで動けないでいるタガーをその場に残して消えた。
「……テア……」
呼んでも返事は返ってこない。
変わり果てたその姿に、涙をこぼす。
「……分かったよ。あんたの望みを叶えたら、テアと会わせてくれるんだな、俺を元に戻してくれるんだな!!」
叫ぶ。それが契約。
櫻に手を伸ばし、引き抜く。
その瞬間に、タガーは風乱との闘いの場へ戻っていた。