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第15回

「……えっ?」


 テアは驚いた。父親は生まれる前に亡くなったと母親から聞かされていたからだ。

 タガーもそうだった。


「お、とう、さん……?」


 とまどいながらテアが聞き返したときだ。

 家から飛び出してきた母親が、血相を変えて叫んだ。


「2人とも逃げなさい!! 早く!! タガー、テアを連れて、早く逃げて!!」


 そして自身は男の前に回り込み、2人を背後にかばうように両手を広げて立った。


「あの子たちに手を出さないで!!」


 男は笑みを崩さず、むしろますます深めて丸眼鏡の奥の目を糸のように細める。


「いやだなあ、何言ってるの。あの子たちは僕の子でもあるんだよ。

 好き勝手にする権利はきみだけじゃなく、僕にもある。そして――」


 手が、優雅に振り切られる。

 次の瞬間、母親の胸が横一文字に切り裂かれ、血を噴き出してその場に崩折れた。


「さあ。これで僕だけのものだ」


 死んだ母親をひょいと避け――それは、靴底が彼女の血で汚れるのを嫌ったからだろう――男はタガーとテアに歩み寄った。

 2人は、笑顔の恐ろしい男への恐怖に震えて、母親の突然の死も受け止められず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。


「ふふ。2人とも、ちょうどいいくらいに育ったね」

「…………どうして……」


 頭ががんがんする。

 逃げろと言った母。母が死んだ。父が、母を殺した。これは本当に現実なんだろうか?


 死んだ母の姿を見せないように、テアを背にかばった。「こわい……」と涙声でつぶやいて、しがみついてきた彼女の震えが伝わってくる。

 でも同じくらいタガーも震えていて。はたしてこの震えは彼女のものなのか、自分のものなのか、区別がつかなかった。


「ん?」

「どう、して……、母さんを……」


 歯の根が合わない。ガチガチと歯を鳴らしながら、なんとかのどの奥から絞り出した言葉に、男は、ああとうなずくと、「邪魔だったから」とあっさり答えた。


「赤子だったきみたちには必要だったけど、もう要らないし。

 きみたちは僕のものだ。そのためにわざわざ面倒なことをして、つくったんだからね。

 15年も待たされたよ。実験のためとはいえ、ずいぶん歯がゆい思いをさせられた。ほんとは20年待つつもりだったんだけど、それだけ大きくなれば、もういいよね。

 さあ、実験を始めよう」


 もう待ちきれないよ。


 男は歓喜に口角を上げて、三日月のような笑みを浮かべながら、タガーたちを見下ろした。

 男が何を言っているか、タガーには理解できなかった。ただただ、この男が怖かった。


 男の背後から赤い闇が生まれ、広がり。タガーとテアを飲み込んでいく。

 何もかもをはぎ取り、奪い去ってゆく、熱い炎の風。

 目を開けていられない。


 再び目を開いたとき。タガーは一片の光もない閣の中へと戻っていた。


「テ、テアっ!? どこだ!?」


 傍らから消えた気配に驚き、その姿を求めてぐるりと見回す。あせる目に映ったのは、信じ難い光景だった。


 テアが、何者かの巨大な手につかまっているのだ。

 それは畏怖すべき力の象徴。


 こちらが夢なのだと悟るとともに、これから何が起きようとしているのかをはっきりと思い出して、心臓がつぶれるような痛みにタガーは胸を押さえた。


「テア!!!」


 必死にその名を呼ぶが、テアは気を失っていた。


 冷汗が滝のように流れ落ちる。冷たいものが腹の底いっぱいに広がり、膝が恐怖にわななく。

 からからに渇ききった喉、砂をつめこまれたように重い手足はぴくりとも動いてくれない。


 牢の冷たい鉄柵が、テアの元へ行こうとするタガーを阻む。

 そしてタガーは、目前に立ちはだかった巨大な影に、その三日月型にくりぬかれた笑みに、心の奥底……本能から、おびえきっていた。


「テア! テア!」


 呼ぶ声もむなしく、ぐったりとしたテアの姿はそのまま闇に消える。


「ちくしょう! テアを返せ!!」


 鉄柵を両手でつかみ、全身全霊の力を込めて左右に引く。だが鉄柵はびくともしない。

 桁違いの強大な力に恐怖し、おびえて……身動きひとつできず、大切な存在を奪われた。その屈辱に、タガーはのどがすり切れて血塵が舞うのもかまわず、全身で叫び続ける。

 そんなタガーの姿はいつの間にか黒く、闇の色へと変わっていた。


 柔らかな金茶の髪は冷たい黒に。明るい夏の空色の瞳は闇の瞳へ、無垢な肌は汚された。


 母も、テアも。町の友達も、優しい町のおじさんおばさんたちも。

 帰る場所も。

 すべて失った。

 あの深紅の魅魔によって。


「みんな、元に戻せ! 元に戻せ! ちくしょう、ちくしょう!!」


 憤り、こぶしをかためて腹の底から絶叫する。



 これがおまえたちのやり方だ! 何の道理もない。突然現れてすべてを壊し、大切なものを奪い去る! ただただ気まぐれに!


「ちくしょう……」


 あまりの感情の高ぶりに、涙が流れた。ぬぐっても、ぬぐっても、端からどんどんこぼれてゆく。


 どうして思いださなくちゃいけない? どうして2度もこんな思いをしなくちゃいけないんだ!

 こんな、自分の無力さを思い知らされるなんて……どうして!!


 はっきりと思い知らされる。テアを、母を、すべてを失った、こちらが現実なのだと。


 あの日以来、身も心も切り刻む後悔の風は一時たりとやむことはなかった。けして癒されることのない傷は胸にぽっかりと穴をあけ、今も血を流し続けている。

 その血のしたたった先には、冷たい闇の刀身をした大剣があった。


 何も映ることのない、固く閉ざされた面。柄近くに小さく刻まれた銘は、さくら


「まさか魔剣になるとはね」


 剣を前に、面白そうに男はくつくつ笑っていた。

 タガーのほうを向き、あごに手をやって上を向かせると目を覗きこむ。


「それにきみもだ。まさしく、よもやよもやだな。

 うん。想定とは違っていたけど――てっきり2人とも、魅妖になるかと思ってたんだけどね――これはこれで面白いかも。

 だから、きみたちは消さないでおくよ。ほかの子たちみたいにはね」


 男はあははと笑って、全身の痛みで動けないでいるタガーをその場に残して消えた。




「……テア……」


 呼んでも返事は返ってこない。

 変わり果てたその姿に、涙をこぼす。


「……分かったよ。あんたの望みを叶えたら、テアと会わせてくれるんだな、俺を元に戻してくれるんだな!!」


 叫ぶ。それが契約。


 櫻に手を伸ばし、引き抜く。

 その瞬間に、タガーは風乱との闘いの場へ戻っていた。

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