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第20話 別れ

「はっ……! はぁっ……っ! はあっ……!」


 走る。走る。

雨が降っていようが気にならず。

 走る。走る。

泥が跳ねても気にならず。

 走る。走る。

手から滑り落ちたスマートフォンの画面はひび割れた。

 走る。

病院の入り口に。


「はぁ……っ!」


 息切れが、どこか遠くの世界から響く不思議な音に聞こえてくる。

まるで別世界の心地に苛まれながら、雪崩込むのは受付に。


天嶺あまね、天嶺望の妻です。夫は」

「お待ちしていました。こちらです」


 何処か沈痛な面持ちの看護師が、足早に案内をしてくる。

廊下を駆けて、病室を越えて……。

病室ではない、ひとつの部屋に。


「……ご確認を」


 真ん中にひとつだけ置かれたベッドに、布で覆われ隠された、人一人分の膨らみが。


 震える手を抑えつける。

鼓動が早鐘を打つ。

息が浅くなる。

頭の中に耳鳴りのような耳障りなノイズが走る。


 布を捲られる。


「……っ、そ、あぁ……っ!!」


 息ができない。

捲くられた布のその下に、固く目を瞑る人だった者のその顔は、確かに望さんだった。


「なんで、うそ、どうして、しごと、いって、そんな、のぞ、さ、のぞむさん、望さんっ!!」


 取り乱す。

彼の遺体に縋る。

何も考えられない。

何も考えられない。


「あ、あぁ、あぁぁっ!」


 連絡を受けた時、わたしは子どもたちと部屋の飾り付けをしていた。

折り紙で輪っかを作って、クレヨンで文字と絵を描いて、スポンジケーキにクリームを塗って、子どもたちが各々飾り付けて。

 子どもたちも楽しみにしていた。【パパの誕生日】。

 出掛けにその片鱗を、うっかり空が零してしまったけれど、望さんはとぼけて知らないフリをした朝の時間。

メッセージアプリの記録は、望さんの【今から帰るよ。みんなの顔を見るのが楽しみ】。それからわたしの、【安全運転で帰ってきてね】。そのやりとりから動かない。


 帰宅途中。

彼の運転する車が玉突き事故に巻き込まれた。

 とても運の悪いことに、望さんは大型運送車二台に挟まれる形で、彼の運転していた車体が潰れたという。

免許証で身元を確認したけれど、本人かどうかの確認をしてほしいと、病院の場所を教えてもらった。


 電話をもらった時、血の気が引いて、すぐにでも飛び出していきたかった。

けれど、お誕生日会を楽しみにしている子どもたちを置いていくわけにもいかなかった。

だから今、家には義母と義父がいる。

わたしの実母が到着次第、義父母もこちらへ来るだろう。


 彼らの、実の息子の死なのだから。


***


「この度はお悔やみ申し上げます」

「ご焼香の列はこちらでしょうか」

「気を落とさずに、ね? お子さんもまだ小さいんだから……」


 次々と目まぐるしく入れ替わる、望さんの縁故の方々。

喪主として彼らの対応に当たるわたしは、うまいこと笑えているだろうか。


「陽毬ちゃん!」

「真理藻さん……」


 パタパタ慌ただしく駆け寄ってくる真理藻さんを、眉をひそめて注意をするおばさまに、彼女は小さく頭を下げて謝罪する。

それから、向かう歩みは遅くなったが、気は確実に急いていた。


「陽毬ちゃん。大丈夫? ちゃんとご飯食べれてる?」


 彼女が真っ先に心配することが、わたしの生活面であることに、ほんの少しだけ心が和らいだ。


「うん。一応、なんとか」

「ごめんなさい。まさかこんなことになってるとは思わなくて、あたし、呑気に遊びの連絡なんて入れちゃって」

「知らなかったんだもん。仕方ないよ」


 表では何とか笑おうとするけれど、口元が引きつり歪な表情になっているのを感じ取る。


「お焼香、してあげて」


 遠慮がちにこちらを何度も振り向きながら、望さんの元へ向かう真理藻さんを見送るわたしの背に、お義母さんが声をかけてきた。


「陽毬ちゃん、少し休憩しては? 顔色が優れないわ」

「お義母さん。いえ、問題ありません。それよりお義母さんたちこそ、ずっと座れていないじゃないですか」

「ねえ、陽毬ちゃん」

「どうしましたか?」

「無理して笑わないでいいの」


 お義母さんの指摘に、引き攣る口元が一瞬のうちに脱力する。

それでも尚、取り繕おうとするわたしの表情に、お義母さんは厳しい声で告げた。


「自分を偽らないで、悲しい時に思い切り悲しいと泣いてあげて。そうして、立ち直って。子どもたちのために」

「子ども、たちの」

「泣き時を失うと、今後忙しくなって泣けることが無くなります。そうすると、自分の中で整理ができなくなってしまって、ある時プツンって、壊れてしまうんです」


 お義母さんの言葉には妙な説得力があった。

リアリティがあるとでも言うべきか。

まるで彼女自身が見てきたかのような。


「あの三人は、あなたたちの子どもで、私たちの孫です。生活面や進学面は望の遺産で何とかなると思いますが、細やかなサポートの協力は惜しみません。それは子どもたちだけじゃなくて、あなたに対してもですよ」


 包み込むような優しい言葉に、だけどまだ、泣くことはできない。


「お義母さん、色々考えてしまうんです」

「ええ」

「なんで、あの日だったんだろうって」

「ええ、ええ」

「望さんの誕生日会を、子どもたちがすごく楽しみにしていて、それで、それで」


 涙は溢れない。

代わりに後悔がほろほろ流れ出て止まらない。


「あの日、空が行かないでってワガママを言ったのを、止めなければよかったのかな、とか。今後会社をどうしたらいいのかな、とか。そもそもわたしがメッセージを返信せずに、ほんの一瞬の見る時間をずらすことができたら、この結果は変わっていたのかな、とか」


 ありもしない『もしも』を語っては首を振る。

静かに聞いていたお義母さんは、やがて口を開く。


「そんなもしもを変えたところで、結果は変わらなかったかもしれないわ」

「でも、助かったかもしれないじゃないですか」


 そんなもしもを試す機会なんてもう訪れないことなど分かっている。

望さんがもういないことだって、痛いほど。


「陽毬ちゃん。会社は心配しなくていいわ。お父さんもまだ現役で働くことはできるし、社長役は別の優秀な者に継げばいいのだから」

「……代々血縁で継いできたのでは」

「結果的にそうなっていただけよ。お孫ちゃんたちが継いでくれればうれしいけど、無理に引き継がせたくはないわ」


 お義母さんの目を覗く。

優しい光に濡れていた。


「三人には、三人の道を進んでほしいの。もしもその中のひとつに会社を継ぐって選択肢が出てきたのなら、その時は喜んで社長教育に協力するわ」


 何を言っていいのかも分からず、しばらく無言になっているわたしの背後から、台所で待機させていたはずの子どもたちの声が届く。


「ままー、ぱぱ、ねんねなの」


 真っ先に到着した空を抱き上げ、もう片腕に海を抱く。

陸は着物の裾をキュッと握り、いつもと違う空気に怯えているようにも見えた。


「パパに、お別れしに行こうね」

「陸くん、ばあばと一緒に行く?」


 三人連れを大変に思ったらしいお義母さんが陸と視線を合わせるも、陸はプイッとそっぽを向く。


「や! ままがいい」

「そうね、ママと一緒がいいわね」


 それなら、一緒に着いて行ってもいい?

そう問うお義母さんに、陸は小さく頷く。


「いーよ」

「ありがとう。陽毬さん、行きましょう」


 さり気なく陸の側に立ち、突飛な行動を取っても対応できるように準備してくれているお義母さんに頭が下がる。


 一歩。また一歩。

棺は近付くのに、距離は遠く感じる。

いっそこのまま、永遠に辿り着かないで欲しい。そんな願いも虚しく、わたしたちは棺の前に到着してしまった。


「ほら、みんな。パパにバイバイするよ」

「パパ、バイバイ? なんで?」


 澄んだ空の色した目。

まだ、【死ぬ】ことを理解しきれていない、純粋な目に見上げられ、思わず顔を逸らす。


「パパはね、いなくなっちゃったの」

「ここにいるよ?」


 陸も追撃。

棺に横たわる望さんを、不思議そうな顔をして見ている。


「パパの身体はここにあるけど、パパだったものは、もう無いの。もう、パパ、動かないの」

「父さん、しんだってこと?」


 随分ドライに聞こえるセリフは、抱き上げた海のもの。

だけど本人は、純粋に知らないことを疑問として口に出しているだけのような気がする。


「そう。……死んじゃったの」


 ふと、思い立ったように空が下りたがる。

そっと海と空を下ろすと、空はじっと望さんの顔を覗き込んで一言。


「まま、きょうのごはん、かれーがいい!」


 脈絡を見つけられない空のセリフに面食らう。

どういうこと? 問い返そうとすると、空は嬉しそうに言う。


「ぱぱ、おちごとがんばったから、ねんねなの。だから、ぱぱがおはよーしたら、かれーたべるの!」


 思わず身体から力が抜ける。

カレーは、望さんの好物のひとつで、子どもたちと食べる時間が幸福だと言っていた食べ物。


 それを空が記憶していたことの嬉しさと、永遠に叶えてあげることができない悔しさと、もう彼はどこにもいないことの悲しさと――。


「あぁぁぁぁっ! ぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 わたしは今日、初めて声を上げて涙を流した。

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