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第25話 海、水族館に行く 2

「かーいー! 戻らないよ、先行くよ」

「さっきのすいそう!」

「もー! イルカさんどうするの!」


 再確認。

海はまだまだ、まだまだ子供!


 やはりさっきの小さな水槽が心残りだったようで、海はそちらに戻ると言って聞かない。

子供らしいわがままではあるけれど、このまま戻ってしまうと、大きな水槽に割く時間が無くなってしまう。

大きな水槽には、イルカやジュゴンやサメが泳いでいるらしいから、そこでかじりつくのは容易に予想ができる。

だから、できれば戻りたくはないのだ。


 イルカショーも楽しみにしているみたいだったから! 見られなくなってしょんぼりする海は見たくない親心!


「……海」


 こうなれば、最後の手段。

あまりこれは使いたくなかったが、仕方がない。


「大きな水槽の向こうにね、お土産屋さんがあるんだよ」


 ぴたっと動きが止まる。

海の長い睫毛が上を向く。


「ぬいぐるみもね、いっぱいあるんだって」

「いっぱい……?」

「そう。クマノミさんとか、ペンギンさんとか……。イルカさんとか」


 それを聞いた瞬間、海はわたしの腕をぐいぐい引っ張る。


「早くいこ」


 作戦がうまくいって、心底安心する。

秘儀、『動かないなら、おもちゃで釣ればいいじゃない』作戦!

 ……尚、この作戦に味を占めてしまうと、何かアクションを起こす前に物を買う約束をしなければならなくなるため、多用は注意と、昔読んだ育児書に書いてあった。あんまり使いたくはなかった。


「海が欲しいのはイルカさん?」

「うん。イルカ」

「本当にイルカさん好きねぇ」


 ほのぼのと言えば、だって、とか細い声。


「花ちゃんが、イルカさん好きだから……」


 あらあら、あらあら!

 我が子ながらきゅんとした。


 青春というには幼く淡い思い出は、海の現在いまに確かに息をしている。


 少し照れたような海と手を繋ぎ、薄暗い廊下を歩いていく。

やがて、頭上から足元を照らす、青い光に包まれる。


「わぁ……!」


 感嘆の声は海から上がる。


 そこはまるで海の中。

頭上にたくさんの海洋生物が泳ぎ踊る水中廊下。


「かあさん、あれ、エイ?」

「エイだねぇ」

「エイって笑うんだね!」

「あれってお鼻なんだって」

「え?」


 昔どこかで聞いた、エイの顔に見える部分は実は鼻という雑学を披露すると、海はまるで宇宙に放り出された猫のような顔で呆然とした。


 水中廊下を海は歩く。

いつの間にか手は解かれていたけれど、海を見失わないように、背後から見守って歩く。


 海は、海の底を歩いているようにゆっくり歩む。

その足取りはふわふわ浮遊しているような、どこか不思議なリズムを刻む。

クラゲのような浮遊感で、海は水中廊下を渡り切る。


「おっきー……」


 思わず漏れた呟きを拾い辿る先に、この水族館の目玉、大水槽が広がった。


 この水族館で一番広い水槽の中には、イワシが群れを成し渦を作り、それよりも大きな魚がちょっかいをかけ、群れは離散しまた集う。

 その自然界のやり取りを横目に優雅に泳いでいくエイ。

そのはるか頭上に影を作って、イルカが二頭、仲良さそうに連れだって泳いでいる。


 多種多様な生態系を彩る水の中で、ひと際異色を放つ生物に、海の視線は奪われていた。


「じんべえざめ」


 その名を呼んだ海は、頭上を大らかに、力強く泳ぐジンベエザメを追い、上を、上をずっと見て、はるか頭上を通り越し。


「わっ」


 ぽてんと尻餅をついて尚、視線は頭上から離れない。


「すごい大きいね、ジンベエザメ」


 海を助け起こしながら、共に同じ目線でジンベエザメを見上げる。


(こんなに大きくて、広い世界を見ているんだ)


 まだ小さい子供。

だけどその世界は、大人が見ているよりも広くて、自由に見えた。


「かあさん、くじらはいるの?」


 ジンベエザメを呆然と追っていった海から、突然質問。

わたしは水槽を見上げる。

この中で一番大きな生物は、ジンベエザメだった。


「クジラは、ここにはいないみたい」

「どうして?」

「クジラって、この水槽では狭くてのびのび泳げないから、ここでは育てることができないの」


 もう一度水槽を見上げる海。

吐き出される言葉は、どこか夢見心地に聞こえる。


「そんなに大きいんだ」

「そう。とっても大きいの」


 小さな手を、大きな水槽にかざす海。

眩しいものから、視界を遮るような動作で、もうひとつの質問。


「くじらには、どこのすいぞくかんに行けば会えるの?」


 思わず遠くを見つめてしまう。

少なくとも、海の望むを飼育してる水族館は、このカフウ皇国には存在していなかったように記憶している。


「……クジラは、水族館にはいないよ」

「えっ。じゃあ、くじらはどこにいるの?」


 海は問う。重ねて問う。

わたしは返す。


「クジラは、海にいるんだよ」

「うみ……」


 水槽を見上げる動作は、今日だけで何度行ったことだろう。


「そう。海の、ずっと、ずぅっと深いところで、クジラは生きているんだよ」


 海は何度も、海、と繰り返している。


「うみって、広いの?」

「広いよ」


 間髪入れずに即答する。

すると海も、間を開けずに聞いてくる。


「ここよりも?」


 空を見上げる。

空を泳ぐイルカが二頭。顔に影を作っていく。


「広いよ。ここよりも」

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