「先生。何度もお手数おかけして申し訳ありません」
「いえ。これも仕事ですので。……それより」
「陸と空は……何も?」
「『もくひけんをこーしする』と空さんが。いやはや。子どもって、どこでそんな言葉を覚えて来るのでしょうね」
「ほんとうに」
軽口を叩き合うその場の空気は重かった。
今日一日で色んな事が起きすぎて、先生も大分お疲れの様子。
無理もない。
見た限り、明らかに
その原因究明をしようとしていたところ、今度は目撃者もある暴行事件。
しかも、この一連の事件は全員が兄妹だというのだから、先生の苦労、親の心労は幾ばくか。
親はわたしだ。
「陸! 空!」
開いた扉から勢いよく入り込むと、そこには陸と空。それから、多分被害者の男の子。
それと。
「先生! この害獣共を早く退学にしてください! このままじゃウチのコ、安心して学校に通えない!」
甲高い声で喚く、多分男の子の保護者が陸と空を責め立てていた。
「お母さん落ち着いてください」
「学年主任! ……あっ?!」
その保護者は、先生の後ろから顔を出したわたしを見て、驚いたように指さした。
「あ、あんた! 児童館の!」
「あ、あーっ! 髪切り男子のお母さん!」
「髪切り男子じゃないわよ!」
「うちの空の髪を切ろうとしてたじゃないですか! 四歳が! 無抵抗なゼロ歳の子の!」
「あれはもう時効よ時効! 今はアンタの子どもが犯罪者なのよ!」
嫌な記憶が蘇ってきた。
いつぞや、児童館で鉢合わせた、陸と空に危害を加えていた子どものお母さんだ。
昔の因縁を思わず喚き合っていると、先生の大きな咳払いで正気に戻る。
「失礼。少々声が大きかったもので」
「申し訳ありません……」
直ぐ様謝罪をして口をつぐむ。
いけないいけない。大人の言い争いは子供の健全な教育に悪い。
「……さて、保護者の方も揃いましたし、お話し合いを……」
「しなくていいでしょ? 全部そっちが悪いんだから!」
場を取りなそうとした先生の話を遮り、相手の保護者が言う。
「陸、空。相手の子を叩いたんだから、先に謝りなさい」
相手の保護者がいくら感じ悪くても、今回は陸と空が手を出した。
だから、謝るべきと促した。だが。
「や!」
プイッとそっぽを向く空。
陸に視線を向けると、同じようにそっぽを向いた。
「空」
「や!」
「陸!」
「ん!」
埒が明かない。
二人はこんなに頑固だったかしら?
「二人とも!」
強めに呼びかける。
そっぽを向いた空から金切り声。
「や! あやまんない! 空悪くないもん!」
「叩いたんでしょ? 叩いたら、まずは叩いてごめんなさいするんだよ?」
「悪くないもん。悪くないもん!」
駄々をこねる空に困っていると、隣で陸もぽろぽろ泣き出した。
「ぇう、だって、だって……」
しゃくり上げながら、なんとか言葉を発そうとする陸から漏れるのは、空気を含んだ嗚咽ばかり。
困って空を見れば、こちらもこちらで顔を真っ赤にして、今にも泣き出してしまいそうな目を頑張って吊り上げている。
まるで泣くのを堪えているかのように。
「だって! 空、聞いたもん! 空聞いたもん!!」
地団駄を踏み鳴らし、小さな怪獣が暴れてる。
わぁわぁ喚き、堪えた涙もボロボロ零し、それでも叫んで伝えてくる。
「その子がろうかでゆってたんだもん! 海ははんぶん色がちがうから! にんげんのできそこないだから、ぶっても、けってもいいって! ゆってたもん! 空聞いてたもん!!」
わあぁぁぁぁっ!
大きな泣き声が室内に響き木霊す。
ギョッとするのは子どもたちを囲む大人たち。
男の子に真偽を問い質すのは教師のひとり。
「それは本当か?」
「そんなわけないでしょ! 親がウソつきなら子供も大ウソつきね!」
室内は阿鼻叫喚。
大人の狂乱が子供にも伝わってしまい、相手の子は何も言えなくなってしまっている。
わたしは彼の前に跪く。
ビクッと大きく揺れる肩。
できる限り威圧をしないよう心がけながら、にっこり笑みを作って問いかける。
「そうなの?」
まるで友達にでも聞くような気軽さに、緊張していた彼の顔が、一気に緩んでぽかんと口を開ける。
「違うに決まってるでしょ!」
「貴方には聞いていません。この子に聞いています」
頭上から口を挟む保護者の、耳障りな金切り声を一喝。
その後、もう一度優しく彼に問う。
俯いてしまった彼は、それでもやがて、ゆっくり言葉を紡いでいこうとする。
「だって……」
「うん」
「ママが、言ってた、から」
はぁ?! なんて叫び、もはや半狂乱。
敢えてそちらは見ない。
ずっと、彼にだけ視線を向けて、できる限り穏やかに、続けて? と催促。
「ママに、新しい子たち、こんな子が、髪の毛がね、白い子と、真っ白を半分ずつわけっこした子たちがいるんだよって、仲良くなりたいって言ったの。そしたらね」
『なんて不気味な見た目の子供かしら! そんな子たちはね、化け物から生まれたの。だから化け物の色なのよ。人間のなり損ないだから、その子たちは蹴って、殴って、人間の世界にいれなくしてあげなさい。それがその子たちのためにもなるのよ』
開いた口が塞がらないとは、多分きっとこういうこと。
敢えて見なかった頭上を見る。
顔を、空にも負けずに真っ赤にして鼻息も荒く、目なんて鬼のように吊り上がっているこの人は、どんな気持ちでそれを言ったんだろう。
「ママが言ってたんだ! ぶっていいって! だからぶった! ママがいいって言ったから! なんで怒られなきゃいけないの?!」
空の泣き声すらも搔き消すほどの怒声には、理不尽を突き刺す不満で彩られている。
怒声、罵声、泣き声、困惑。室内がカオス。
わたしはゆっくり、彼と目を合わせる。
「君、お名前は?」
「……健太」
健太くんは、おずおずと自身の名を名乗る。
それを聞いて、わたしは微笑む。
「健太君。陸と空……。この子達に叩かれたとき、痛かった?」
問いかけの意図を分かっていないのだろう。
ただイエスかノーかと問われたから、イエスと答えた。そんな感じの動作で頷く。
「そうだね。叩かれると痛いもんね。……海も、叩かれたとき、痛くて、怖くて、悲しかったと思うよ」
責めないように慎重に、静かに伝える。
「あ……」
健太君はハッとした顔をして、気まずそうに彷徨わせた手で、自分の胸元の服を握りしめる。
くしゃりと皴になったシャツを見つめ、わたしは健太君から視線を外す。
「陸、空」
二人の名前を呼ぶ。
キョトンとした表情を浮かべて空が。未だにしゃくりあげながら、甘えっ子のようによたよたと陸が。
傍らにやってきたとき、わたしは――。
「人を叩いちゃ、だめでしょ!」
「みゅっ!」
「びゃっ!」
――二人の頭に、思い切り拳骨を落とした。
「いだぁぁぁい!!」
「ママがぶったぁ!!」
びゃあびゃあ、みゃあみゃあ泣き喚く二人と目を合わせる。
「今、痛かったでしょう?」
問いかければ首肯。
「いだい」
「ママのゴリラ」
「誰がゴリラですか」
この期に及んで軽口をたたく空の頭を、もう一回軽めにはたく。
「健太君も痛かったよ」
静かに告げれば、二人は顔を見合わせる。
そしてその顔は健太君へ揃って向けられる。
寸分のズレなく綺麗に揃った動き。まるでロボットのような精密さで向けられた顔に、健太君はたじろいでいる。
「……あのね。海をぶったって聞いて、空、かなしかったよ」
空が先陣切って健太君の前へ行く。
自分よりも小さな子供にじっと見上げられているためか、健太君はぐっと詰まって身を反らす。
だけどね。空は続ける。
「空、いたいのしちゃった。ぶってごめんなさい」
ぺこり。
ごめんなさいのお辞儀をした空に続いて、陸も頭を下げる。
「おれも、ぶっちゃってごめん」
もぞ、と謝罪を口にする陸。
二人の謝罪に、どぎまぎ戸惑う健太君は。
「あ、う、お、オレ……」
「何言ってるのかしらね! この子はほんとにもう!」
何かを言おうとした健太君を遮り、保護者のお母さんが彼の腕を乱暴に掴む。
「お話はもう終わりましたよね! 気分が悪いのでもう帰ります! 健太! 早く行くよ!」
「あっ……! ね、ねぇ、オレ、オレ……!」
「あんな子たちと話しちゃいけません! 化け物が移るよ!」
罵声を最後に残してからも、ぶつぶつ言いながら部屋から出ていく。
何度も何度も振り返り、こちらに何事かを伝えようとしていた、健太君のあの顔が気になった。
「天嶺さん」
「先生。なんか、お疲れ様です」
苦笑を向ければ、返ってくるのもまた苦笑。
「いえ。長く教職をしていれば、強烈な人の一人や二人は見るものですよ」
「その強烈な人に当てはまらないように、気を付けていきたいところです」
雑談を一言二言。
それから、今後のことをほんの少し。
相手方が海に負わせたケガのこと、こちら側が相手に負わせたケガのこと。
軽い注意と一緒に、家でも道徳の教育を、とさりげなく言われたことに、苦笑交じりに、はいと言うしかなかった。
「気になりますか。あの保護者様のこと」
「いえ。そっちはどうでもいいんですけど……。健太君が、心配だな、と」
教師の彼は首を振る。
聞き分けのいい人ばかりではないことも確か。家庭の事情にはなかなか踏み込めないのだと、現場の苦悩をほんの少し漏らす。
「学校では、教師一同、気を付けて見ているようにいたします」
「お世話かけます。何卒、よろしくお願いします」
ぺこりぺこりと会釈の応酬。
やがて緊張の空気から解放されたとき、わたしは三人とともに、駐車場へ向かっていた。
「……ママ、怒ってる?」
おずおず問いかけてくるのは空。
続けて陸が。
「わるいことしちゃった。ごめんなさい」
しょんぼり肩を落として謝ってくる。
ふ、と表情を崩し、二人に言う。
「人を叩くのはいけないことだよ。だけど、お母さん、嬉しいんだ」
「嬉しいの? ぶったのに?」
陸が質問で返してくるから、緩く首を横に振る。
「叩いちゃったのは、お母さん、悲しかった。だけど二人は、海がぶたれて、悲しかったからやり返したんだよね?」
「……うん」
もじもじ、恥ずかしそうに肯定する空。
わたしは彼女の目線までしゃがみ込む。
「その、誰かを大事に思う心が、お母さんはとっても、とぉっても、嬉しかったの。もちろん、叩くのはダメ。だけど、大事な人がぶたれて、悲しいって思える、優しい子たちに育ってくれて、お母さん、嬉しいの」
一言一言を区切りながらしっかりと伝えると、二人は照れたように俯いて、手を繋ぐことを要求してきた。
「海もだよ」
「えっ、ぼく?」
名指しされるとは思っていなかったらしい海が、飛び起きるように顔を上げる。
目を真ん丸にして驚いている海に、わたしはにっこり頷いた。
「海は、みんなに心配かけないように、ぶたれたことを黙っていたのよね。何にも言ってくれないから、みんなすごい心配したけど……。でも、海も、誰かのためを思って選んだ行動だっていうことが、お母さんすごく誇らしいわ」
海の成長も嬉しいのだと伝えると、陸と空と同じように俯き、照れて黙ってしまった。
そんな三人をほほえましく見ながら、わたしは夕焼けになりかけている空を見上げた。
「ハンバーグの材料、今から買いに行くよ」
「おっきなスーパー?!」
「おかし! おかし買ってもいい?!」
「たらこ……」
途端、好き勝手に騒ぎ出す子供たちを手で制し、車の扉を開けて言う。
「お菓子がもらえる子は、いい子にシートベルト着けられる子だけだよ!」