「来ました! 空港!」
どーん! と両手に陸と空を抱き上げ、飛行機の飛び交う空港へ降り立った。
その後ろをパタパタ追いかけてくるのは花ちゃん。
もう時期中学生になろうとしている彼女は、スラッとした大人っぽいお姉さんになっていた。
その花ちゃんと手を繋いで先導しているのが、海。
「あの、ほんとうにいいんですか? 家族の旅行に私も着いて行ってしまって……」
遠慮がちに聞く彼女がここにいる理由は、海のワガママが発端である。
海はこの夏休み、花ちゃんとたくさん遊ぶ約束をしていたようで、『旅行に行く』ということを、『花ちゃんとも一緒に旅行に行く』と脳内で書き換えてしまっていたらしい。
出発の数週間前になって、花ちゃんに旅行楽しみだねー。と言った所。
「えっ? 私は旅行に行かないよ? みんなで楽しんでおいでよ! あ、お土産よろしくね!」
……その日の海は、世界の終わりかと思うほど泣いて喚いて大騒ぎ。
宥めるのに時間がかかったどころではない。
全くと言っていいほど泣き止まない。
海がここまで盛大な癇癪を起こしたのは、初めてかもしれない。
困って、真理藻さんに電話をかけたあの日。
花ちゃんの声を聞かせてもらって、誤魔化そうと考えたのだ。
すると。
『えーっ?! 海くん、花と離れたくなくて泣いてるのー? かわいいー!』
なんて感想の第一声。
対するわたしは苦い声。
「動機は可愛いけど、かれこれ三時間は泣き続けてるの。同じテンションで三時間だよ? すごくない?」
夕方から、夕飯も食べず駄々捏ね駄々捏ね。
大泣きの横で、おろおろしながらご飯と海とに視線を彷徨わせた陸。
対照的に、一時は慰めようとしていたものの、三分声をかけてみて、これは駄目だと見切りをつけた空。
海が泣く横で、平然とご飯を食べていた。
「だから花ちゃんの声をちょーっと聞かせてもらえたらなーって……。だめ?」
『んー、だめじゃないけどぉ……』
電話の向こうで考え込む声が聞こえる。
海の泣き声は変わらずデカい。
『花ー? ちょっと、花ー?』
なぁにー?
電話の向こうから小さく花ちゃんの声が聞こえた。
『陽毬ちゃん。ちょっと待っててね』
その声を最後に、通話口から遠ざかる気配。
遠くの方で何かを話し合っているけれど、何を話しているのか分からない。そんな微かな気配を感じてしばらく。
『陽毬ちゃん!』
通話復帰した真理藻さんの、ひと際明るい声に、何か含みを感じてしまう。
思わず身構える。真理藻さんは同じテンションで、楽しそうに告げた。
『花、夏休みの旅行に一緒に連れて行ってもらうことって、できる?』
動きが止まった。
わたしはとても、とても言い辛いけれど、彼女にはハッキリ伝えておかないといけない。
「計画してるのは、海外なんだ……」
『……えっ』
やっぱり国内旅行だと思っていたらしい。
だけど、飛行機に乗る=海外という固定観念が、わたしの中に強くこびりついていた。
だから、国内旅行ではなく海外旅行として計画を決めた段階で、実父母と義父母にも協力を依頼し、子どもたちを海外で見守ることができる大人を増やすなど、旅行に対して取り組んできたつもりでいる。
人手も確保した。子どもが一人増えても、万全な状態で臨むことはできる。
問題はもっと別のところにあった。
「花ちゃんひとり増えたところで問題にはならないとは思う。思うよ? だけど、言いにくいんだけどね……。お金が……かかる」
電話口の無言に耐えきれず、叫ぶようにまくし立てる。
「こっちでお金を出して連れてくって提案もしようと思った! だけど真理藻さん、それは嫌でしょ? 全額こっちが出すの!」
『嫌だよ?! 友達だもん! 花を任せるならちゃんと花の分の旅行代はこっちが出すのが筋でしょ?!』
「だよね! 言うと思った! だから提案できなかったんだよー! 真理藻さんの負担が大きすぎるからー! でもそんな真理藻さんが好きー!」
ワッと片手で顔を覆う。
『あはは! あたしも陽毬ちゃんのこと好きよー?』
楽しそうな笑い声が電話口から聞こえてくる。
「ゔゔゔジレンマ……!」
真理藻さんに負担をかけたくないわたしと、海と一緒に旅行してる花ちゃんが見たいわたしと、金は出す! 花ちゃんを旅行に連れて行かせてくれぃ! なわたしがいる。
懊悩と悩んでいると、やがて穏やかな吐息に変わる笑い声。
電話口の向こうで、真理藻さんが微笑んでいる気配を感じた。
『色々言ったけど、海外でも問題ないよ。花の旅行代は払える』
「え、でも」
『去年、家計の大部分を占めていた、要介護のお義母さんが死んだの』
言葉を失った。
だってそんなこと、一言も。
『あまり相性のいいお義母さんじゃなかったからね。お葬式とかも、身内間でこじんまりと済ませたし、もし言ったら来てくれたでしょう?』
「そりゃそうよ」
『お葬式も微妙な空気だったから、来なくて正解。あんまり大事にされていなかったんだなって、あたしでも分かるくらい。そこだけは可哀想だったな、お義母さん』
懐かしむその声に滲むのは、僅かな寂しさ。
その寂しさの対象は、真理藻さんの義母か、はたまた。
『だから、花にはこの年になるまで、ほんとうに色んなことを我慢してきてもらっていたの』
電話口の苦笑い。
母親失格だね。なんて付け足しながら、彼女は自嘲気味に言う。
『花ね、本当は、海くんから旅行に一緒に行くって思われてたって知って、すっごく喜んでいたんだ』
『旅行にも連れてってあげられなかった。だから、初めての旅行に行けるなら行きたいって、さっき、そう言っていて』
初めてワガママ聞いた。
そんな呟きが、小さく聞こえた。
『花は、いい子にしすぎたんだよ。ワガママも、あたしの状況をよく見て、一言も言わなかった』
真理藻さんのこの声のトーンは、いつかわたしが親としての不甲斐なさを、強く感じていたときに似ている。
『だから母親として、こっちからお願いしたいの』
ひと息の間。
電話越しなのに、姿勢を正す気配が分かる。
『花を旅行に連れてってあげてください』
釣られて姿勢を正すと、やや緊張気味の真理藻さんの声。
『もちろんお金に関しては問題ないっていうのは、さっきの話で察してると思うけど、念の為にちゃんと言うね』
いつもの軽い調子は微塵も見当たらない。
真剣な思いを真摯に汲み取り、わたしは次の言葉を待った。
『花の分の旅行代は、きっちり払うから、現地の保護者役をお願いします』
「……もちろん。大切な花ちゃんを、しっかりお預かりします」
電話越し。
わたしは強く、強く頷いた。