「空……。空、起きて。そろそろ着くよ」
「んむ」
寝ぼけ眼で目を擦る空を起こす。
静かに見ていたはずの空も内心興奮していたようで、上空まで昇ってある程度時間が経過した時には、いつの間にか眠っていた。
「ほら、見て。あそこが目的地のトゥラム諸島だよ」
「んぇ……?」
寝ぼけ眼は相変わらず。
しぱしぱ目を瞬き、空は外を覗き込む。
「う、わぁー!!」
途端、目が覚めたようで、ぱっちり大きく目を見開く空の姿が窓に映し出される。
広大な青が広がる目下の世界に、緑色の小さな小島が点々と連なっている。
カフウ皇国から大体三時間。
目的地であるトゥラム諸島に到着した。
***
トゥラム諸島は二十にも及ぶ小島が集まる島国である。
公用語はヒデ語。
昔、大国であるヒデ
なお、ヒデ国はカフウ皇国独特の呼び名で、実際はヒデリアと発音する国名だとか。
そんな情報が書かれたパンフレットに目を通しながら、保護者女性組は、ビーチに設置されたパラソルベンチに寝そべり、はしゃぐ子どもたちを見守っていた。
トゥラム諸島に連なる島のひとつ。
現地語で
「わっはー!!」
とても楽しそうな叫び声が聞こえてくる。
陸が今楽しんでいるのはカイトボード。
素人目にはサーフィンに似たスポーツに見えるが、大きな違いはパラグライダーのようなカイトを駆使し、風の力で水の上を滑ってトリックを決めるスポーツ。だと説明を受けた。
ボードの上で見事にバランスを取る陸を見て、インストラクターのお兄さんはポカンと呆気に取られていた。
『貴方のお子さんすごいね。ほんとうに十歳? 嘘ついてない?』
驚いたように捲し立てられる。
わたしは苦笑を小さく漏らす。
『十歳よ。人より運動神経がいいの』
『将来オリンピックメダリストにでもなれるんじゃない? 今からファンになっておこうかな』
『それはいいかもね。本人がやりたいって言えば、最古参よ』
肩を竦めて軽口を叩くと、同調して彼も肩を竦める。
『いい将来を選ぶことを祈ってるよ』
『子どもたち次第ね。残り時間もお願いします』
インストラクターの彼に頼むと、陸に教えるために、波打ち際に歩いていく。
その彼の後ろ姿から左に視線を向けると、そこには二人分の小さな波紋が立っている。
ポコポコ、小さな泡がたくさん生まれ、大きな波飛沫が二つ立つ。
「海ー! 花ちゃんー! 楽しいー?」
シュノーケルとゴーグルを身に着ける二人の姿に声をかけると、大きく手を振ってくる。
陸がカイトボードにはしゃいでいる横で、二人はシュノーケリングを楽しんでいた。
初めて直に見る海の中。
海のはしゃぎようは推して知るべし。
付き添いのインストラクターのお姉さんに休憩と告げられ、砂浜に上がってきたふたり。
興奮した風に駆け寄ってくる海と、その後ろを追う花ちゃん。
「母さん、母さん! 海の中に、すごいカラフルなサンゴ礁があったんだ!」
「おお。ここは水のきれいな海なんだね」
「水がきれいだと、何かあるんですか?」
花ちゃんの疑問に、たしか、と記憶を辿る。
「サンゴ礁は、水がきれいな場所じゃないと生きられないって、見たことがあるんだよ」
サンゴ礁があると水がきれい。
サンゴ礁を中心に、その海では独自の生態系を構築することができる。
サンゴ礁は隠れ家にもなるから、小魚などもたくさんいる。たしか、そんなこと。
「それなら、サンゴ礁の近くに行けばもっと色んなお魚が見れるかも!」
ワクワクと花ちゃんが言えば、海もその気になっている。
だけどわたしは待ったをかけた。
「待って待って。ふたりがやってるのはシュノーケリングでしょ? 海には沈めないよ」
「あっ……」
シュノーケリングは海面にフィン、呼吸をするための筒を出して、呼吸をしながら海中観察ができるアクティビティ。
筒が水の中に沈めば、当然息はできなくなる。
「そっ……か、そうでした、私ってば、早とちりしちゃって……」
しょんぼり肩を落とす花ちゃん。
海は彼女を気遣い、こちらへ視線を向けてくる。
「ねえ、本当に潜れないの?」
「うーんん……」
唸る。
シュノーケリングでは潜ることができないのは自明の理。
それ以外の解決策と言うと……。
『マウア、ミス、マウア!』
困ったわたしは、インストラクターのマウアの元へ駆け寄っていく。
『シュノーケリングでも潜る方法、ですか?』
『サンゴ礁を間近で見たいって。もし無理なら、こっちで説得するから』
『ふーむむ……』
マウアが考え唸る数秒間。
彼女は三つ、指を立てる。
『いくつか方法はありますよ。一つ目が、スキンダイビングって方法。シュノーケルを付けたまま、息を止めて潜水するの。だけど、コツが必要だし、初めてだと怖いかも』
なるほど。
確かに、さっきまで吸えていた息を止めて泳ぐってことの切り替えは、練習なしには小学生には難しいかもしれない。
『次が、スキューバダイビング。エアータンクを背負って潜水する方法ですね。だけどこれは、何時間かの講習が必要です。扱いを間違えると死んでしまうしね』
海に潜ると言うと真っ先に思いつく方法かもしれない。
けれどそれは現実的ではなかった。
わたしは手を振って、無理。を表現する。
マウアはだよね。と言った。
『で、最後がこれ』
マウアがカバンの中から取り出した、筒状の物体。
ガスボンベを圧縮したような、小型のボンベの形をしたもの。
『これ、なに?』
『エアーボンベです』
マウアはにこりと笑った。
『小型の、最近販売し始めたやつなんですよ』
この小型エアーボンベは、海中で連続呼吸をして四分間保つらしい。
ただし、マウアは安全のために、三分間で海上に上げると言った。
『海中にいるには短いんですけど、この下にあるサンゴ礁を観察するだけなら十分かと』
思わずマウアの手を握る。
ワオ! と驚いた声を出したマウアへ、感激のまま声を上げた。
『最っ高! そういうの、求めていたの!』
『喜んでくれて良かった! 休憩が終わったらレクチャーから入るわね!』
両手を握り合い、ぶんぶん上下に振るわたしたち。
離れたところから、海と花ちゃんの、何やってるんだろう……。と言いたげな視線を感じる。
『それでは休憩後もよろしくお願いします』
『もちろん。任せて!』
マウアは筋肉質な胸を叩く。
「ハナ! カイ! やすミ、終わリ! およグ、行クヨ!」
カフウ皇国の公用語、カフウ語を使い、張り切って海たちを呼びに行くマウアを見送る。
「さて……」
わたしはビーチパラソルの傍らでしゃがみ込む、少女の姿を捉える。
「……空。海で遊ばなくていいの?」
真っ白なツバ広帽子。真っ白な水着。真っ白な肌と波打つ真っ白な髪。
砂浜に降り立った真っ白な妖精は、ひたすら砂堀りをして、掘り出したヤドカリにちょっかいをかけて遊んでいた。
「うん。空はいいよ」
特段遠慮をしているという風には見えない。
本心から言っているらしいその言葉に、わたしは疑問を覚えた。
「どうして?」
「見て、ママ! きれいなピンク色!」
疑問に被せて空が、拾った貝殻を見せてくる。
空の手の平に収まるサイズのその貝殻は、薄く色づく桜色。
欠けも汚れも見当たらない、完璧な姿のその貝殻を、空は大切そうにビーチバックの中にしまう。
「あのね、ママ。空ね、お空を飛びたいって思ったのは本当で、お空飛んで楽しかったよ。でもね、それよりも、もっと」
空は水面の方を見る。
大人顔負けの技を繰り広げる陸に、花ちゃんと一緒に海中に潜っていく海。
二人の様子に、空は嬉しそうに目を細める。
「空ね、陸と、海と、花ちゃんが楽しそうなのを見るのが、とっても好きなんだ」
わたしは、空という一人の人物を、勘違いしていたのかもしれない。
自己主張の控えめな、他の人に合わせることを早々に覚えてしまった子供ではなかった。
傍目にそう見える行為を、彼女はそれが好きだと主張する。
砂浜にぺたんと座る空の隣で、わたしもしゃがんで座り込む。
「……そうだね。とっても楽しそう」
「でしょ?」
空は嬉しそうに、にひひと笑った。