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第32話 初めての海外 4

「わぁぁ……!」


 幼い感嘆の声は海から。

海は壁にくり抜かれて嵌め込まれた窓から外を眺めて、キラキラ目を輝かせている。

輝かく目の中に、深い青色の光が揺らめいて映る。


 今、わたしたちは海の中にいる。


 トゥラム諸島アクティビティのひとつ。

潜水艦ツアー(運が良ければクジラも観れるかも?)。

ここまで銘打たれたツアーで、今は海中散歩を楽しんでいる。


 陸も体を動かすアクティビティではないものの、普段見られない景色に興奮してピーチク語りかけてくる。

ただし、興奮しすぎて大半がよくわからない言語でまくし立てているため、こちらは適当に相槌を打つしかない。


「クジラいないなぁ」


 お義父さんが目を細めては、しきりと窓の外を見て呟いている。


「今の時期だと、大体のクジラはもう少し寒いところに行ってるんですよ。北の端とか、南の端とかに」


 ガイドのお姉さんが笑顔の中に、どこか申し訳なさそうな声音を浮かべて教えてくれる。

カフウ皇国の出で、こっちで結婚をしたお姉さんは、主にカフウ皇国からの観光客のガイドを生業にしているらしい。


「そうか。残念だな。海はクジラをずっと見たがっていたからなぁ……」

「時期が悪かったんですよ、お義父さん。機会があれば、クジラが見られる時期にでも来ましょう?」

「そうだな、それもいいか」


 渋々とではあるが、なんとか納得してもらった。

わたしは陸と手を繋ぎ、実母と手を繋ぐ空のもとへ向かった。


「陽毬、空ちゃん本当にいい子ね」


 ずっと言うことを聞いてくれていたと、感心したように母は言う。

その隣にいる空を見て、少し違和感。


「……空、もしかして」

「んんー?」


 見上げる空の顔。

いつものきょとん顔ではなくて、目がしょんぼりと細まっている。


「……お腹空いた?」

「すいた」


 即答。


「エネルギー切れみたい」

「あら。そろそろお昼だったのね」


 遅れて空のお腹から、きゅるるる可愛い腹の虫。


「あと十分くらいで戻るみたいだから、もう少し我慢できる?」

「ん……」


 キュッと唇を結んで耐える姿勢の空を見て、わたしは母と顔を見合わせる。


「お母さん、何かある?」

「グミでいいなら」

「空、グミ食べる?」

「食べるぅ……」


 しょもしょも手を伸ばす空に、母はカバンからグミを出して渡した。


「陸ー。グミ食べよー」


 てってけてー。なんて効果音がつきそうな小走りで、空は陸の手を引いた。


「空のためにあげたつもりだったのに」


 少し文句を言う母に、わたしは苦笑いを返した。


「空は二人のために何かができるのが嬉しいんだって言ってたよ」

「優しい子ね」

「三人の世界で完結してるのかも」

「危ないね。もっと外の世界を見せたほうがいいわよ」

「なるようにしかならないよ。人間関係なんて、親に言われて作るものじゃないんだから」


 忠言に、返答。


「それより、もう少しで浮上だから、すぐに出られるようにみんなを集めておきたいの。陸と空、お願いしてもいい?」


 返答に対して不服そうな母にお願いすると、仕方ないわね、と二人を呼びに行った。


 その間に、わたしは義父母のところへ寄る。

義母は、花ちゃんと海を、そっと後ろから見守ってくれていた。


「お義父さん、お義母さん、ありがとうございます」

「いいえ、二人とも大人しく外を見ていてくれたから、ずいぶんと楽をさせてもらったわ」


 そうコロコロ笑う義母は、腰掛けたソファから、ねぇ? と義父に同意を求める。


「お?! おう、そうだな!」


 突然の呼びかけに、子供たちと同じようにずっと外を見てはしゃいでいた義父は、大慌てで取り繕っていた。


「あら、また外を探していたの? いくら待ってもクジラはいません。子供たちから意識を逸らして、何をやっているのかしらまったく、もう……」


 呆れたような叱責に、しょぼんと肩を落とす義父。

思わず溢れた笑い声に、義母はふふ、と上品に笑む。


「それで、陽毬ちゃんはどうしたの?」

「あ、そうです。そろそろ浮上のようなので、固まっておこうかと思って」

「そうね、出口で逸れても大変だものね。あなた、行きますよ」

「も少し……」

「もう浮上と言っているでしょう。クジラは見れません」

「うう……はい」


 かかあ天下とはこのことか。

義父をうまく転がす義母に、わたしは尊敬の念を送った。


「海、花ちゃん。そろそろ……」

「あ、はい! 海くん、行こ?」


 花ちゃんが窓から視線を逸らした。その一瞬。


「わ」


 海の一声。

小さくもよく聞こえたその声に釣られて、窓の方へ顔を向ける。


「え」


 潜水艦に影がかかる。

大きな、大きなその影が。

小さな、小さな潜水艦を見下ろしている。


「クジ……ラ……?」


 ひと泳ぎする度に、水が波立ち蠢いて。

小魚の群れは散り散りに、再び集まり、散り散りに。

やがてそれらは、クジラとともに泳ぎだす。

小さな魚も、大きな魚も、クジラと共に泳ぎ出す。


 その姿はまるで、雄大な自然の中に、ひとつの生態系を作り出して進む箱舟。


 ガイドのお姉さんが、唖然として窓の外を見上げている。


「はぐれ、でしょうか。この時期に、ここに。それもこんな浅い場所に、シロナガスクジラがいるなんて」


 呆然と呟くその声音には、隠しきれない興奮の色がある。


「物凄く運が良いですね、私たち! 宝くじが当たるよりもすごいかも!」


 非現実的な映像が、やがて実体であると実感できたように、彼女は小さく跳ね上がる。

 彼女ではないけれど、わたしも自然の偉大さを肌に感じ、今、泣きそうになっている。


「母さん」


 海が呼ぶ。

なぁに? と答える。

涙がほんの少し、目の端で揺れる。

海はクジラを指さして。


「クジラが、泣いてる」


 海の言う、クジラの泣き声は聞こえない。

けれど、私には聞こえない何かに聞き入っている海は、ずっと海の上を見上げていた。

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