「わぁぁ……!」
幼い感嘆の声は海から。
海は壁にくり抜かれて嵌め込まれた窓から外を眺めて、キラキラ目を輝かせている。
輝かく目の中に、深い青色の光が揺らめいて映る。
今、わたしたちは海の中にいる。
トゥラム諸島アクティビティのひとつ。
潜水艦ツアー(運が良ければクジラも観れるかも?)。
ここまで銘打たれたツアーで、今は海中散歩を楽しんでいる。
陸も体を動かすアクティビティではないものの、普段見られない景色に興奮してピーチク語りかけてくる。
ただし、興奮しすぎて大半がよくわからない言語でまくし立てているため、こちらは適当に相槌を打つしかない。
「クジラいないなぁ」
お義父さんが目を細めては、しきりと窓の外を見て呟いている。
「今の時期だと、大体のクジラはもう少し寒いところに行ってるんですよ。北の端とか、南の端とかに」
ガイドのお姉さんが笑顔の中に、どこか申し訳なさそうな声音を浮かべて教えてくれる。
カフウ皇国の出で、こっちで結婚をしたお姉さんは、主にカフウ皇国からの観光客のガイドを生業にしているらしい。
「そうか。残念だな。海はクジラをずっと見たがっていたからなぁ……」
「時期が悪かったんですよ、お義父さん。機会があれば、クジラが見られる時期にでも来ましょう?」
「そうだな、それもいいか」
渋々とではあるが、なんとか納得してもらった。
わたしは陸と手を繋ぎ、実母と手を繋ぐ空のもとへ向かった。
「陽毬、空ちゃん本当にいい子ね」
ずっと言うことを聞いてくれていたと、感心したように母は言う。
その隣にいる空を見て、少し違和感。
「……空、もしかして」
「んんー?」
見上げる空の顔。
いつものきょとん顔ではなくて、目がしょんぼりと細まっている。
「……お腹空いた?」
「すいた」
即答。
「エネルギー切れみたい」
「あら。そろそろお昼だったのね」
遅れて空のお腹から、きゅるるる可愛い腹の虫。
「あと十分くらいで戻るみたいだから、もう少し我慢できる?」
「ん……」
キュッと唇を結んで耐える姿勢の空を見て、わたしは母と顔を見合わせる。
「お母さん、何かある?」
「グミでいいなら」
「空、グミ食べる?」
「食べるぅ……」
しょもしょも手を伸ばす空に、母はカバンからグミを出して渡した。
「陸ー。グミ食べよー」
てってけてー。なんて効果音がつきそうな小走りで、空は陸の手を引いた。
「空のためにあげたつもりだったのに」
少し文句を言う母に、わたしは苦笑いを返した。
「空は二人のために何かができるのが嬉しいんだって言ってたよ」
「優しい子ね」
「三人の世界で完結してるのかも」
「危ないね。もっと外の世界を見せたほうがいいわよ」
「なるようにしかならないよ。人間関係なんて、親に言われて作るものじゃないんだから」
忠言に、返答。
「それより、もう少しで浮上だから、すぐに出られるようにみんなを集めておきたいの。陸と空、お願いしてもいい?」
返答に対して不服そうな母にお願いすると、仕方ないわね、と二人を呼びに行った。
その間に、わたしは義父母のところへ寄る。
義母は、花ちゃんと海を、そっと後ろから見守ってくれていた。
「お義父さん、お義母さん、ありがとうございます」
「いいえ、二人とも大人しく外を見ていてくれたから、ずいぶんと楽をさせてもらったわ」
そうコロコロ笑う義母は、腰掛けたソファから、ねぇ? と義父に同意を求める。
「お?! おう、そうだな!」
突然の呼びかけに、子供たちと同じようにずっと外を見てはしゃいでいた義父は、大慌てで取り繕っていた。
「あら、また外を探していたの? いくら待ってもクジラはいません。子供たちから意識を逸らして、何をやっているのかしらまったく、もう……」
呆れたような叱責に、しょぼんと肩を落とす義父。
思わず溢れた笑い声に、義母はふふ、と上品に笑む。
「それで、陽毬ちゃんはどうしたの?」
「あ、そうです。そろそろ浮上のようなので、固まっておこうかと思って」
「そうね、出口で逸れても大変だものね。あなた、行きますよ」
「も少し……」
「もう浮上と言っているでしょう。クジラは見れません」
「うう……はい」
かかあ天下とはこのことか。
義父をうまく転がす義母に、わたしは尊敬の念を送った。
「海、花ちゃん。そろそろ……」
「あ、はい! 海くん、行こ?」
花ちゃんが窓から視線を逸らした。その一瞬。
「わ」
海の一声。
小さくもよく聞こえたその声に釣られて、窓の方へ顔を向ける。
「え」
潜水艦に影がかかる。
大きな、大きなその影が。
小さな、小さな潜水艦を見下ろしている。
「クジ……ラ……?」
ひと泳ぎする度に、水が波立ち蠢いて。
小魚の群れは散り散りに、再び集まり、散り散りに。
やがてそれらは、クジラとともに泳ぎだす。
小さな魚も、大きな魚も、クジラと共に泳ぎ出す。
その姿はまるで、雄大な自然の中に、ひとつの生態系を作り出して進む箱舟。
ガイドのお姉さんが、唖然として窓の外を見上げている。
「はぐれ、でしょうか。この時期に、ここに。それもこんな浅い場所に、シロナガスクジラがいるなんて」
呆然と呟くその声音には、隠しきれない興奮の色がある。
「物凄く運が良いですね、私たち! 宝くじが当たるよりもすごいかも!」
非現実的な映像が、やがて実体であると実感できたように、彼女は小さく跳ね上がる。
彼女ではないけれど、わたしも自然の偉大さを肌に感じ、今、泣きそうになっている。
「母さん」
海が呼ぶ。
なぁに? と答える。
涙がほんの少し、目の端で揺れる。
海はクジラを指さして。
「クジラが、泣いてる」
海の言う、クジラの泣き声は聞こえない。
けれど、私には聞こえない何かに聞き入っている海は、ずっと海の上を見上げていた。