「ぽへー」
「……」
「ぽへー」
「……」
「ぽへー」
「……ねえ、空、どうしちゃったの?」
昨日帰宅してきてから、空はずっとこの調子。
最初は黙ってぽへーと虚空を見上げているだけだったのに、とうとうぽへーって口に出して言い始めた。
「分かんない。昨日、進路指導室に連れていかれてからずっとあんな感じで……」
海でさえ分からない様子。
陸に視線をやっても、両手を軽く上げるだけでお手上げ状態。
「ボーっとしているだけならよかったんだけど……」
「空」
海がどこか心配そうな言葉を吐く横で、陸が果敢に空へ切り込んでいく。
「ぽへ?」
「あー……。とりあえずそろそろ夕飯だし、着替えて来るくらいはしたらどうだ?」
「ぽへ」
「え? なに? 『ちょっと待って』?」
「ぽへぽへぽへぽっへー」
「『腰が抜けて立てないから陸抱っこ』? しゃーねぇなぁ」
「なんで話が通じてるんだよ!!」
本当になんでよ。
空の語彙が『ぽへ』しか無くなった状態で、どうして意思疎通が図れるんだ、陸よ。
海なんて珍しく大声でツッコミをしているじゃないの。
「空」
「ぽへ」
「……着替えて、人の言葉を話せるようになってきなさい」
「ぽへぽっへ」
アイアイサー! って言っているのか。
警察のような敬礼をした空は、陸に俵担ぎにされてリビングから出て行った。
「本当に何があったのかしら……」
「ごめん、何もわからない」
二人で首を傾げていると、机に置きっぱなしの携帯が鳴りだす。
「空のだ」
「誰から?」
「えっと……。『教授』?」
あ、切れた。
海が表示名を確認した途端、着信は切れた。
それと入れ違いに入ってきた、部屋着に着替えた空。
「ようやく落ち着きまして」
「あ、ちゃんと人間だ」
言葉が戻ったことを茶化しつつ、海は安心したようにそっと胸をなでおろしている。
「さっき電話来てたよ。教授って人から」
「えっ? 教授?」
なんだろー。って言いながら、空がこの場で電話をかけ直す。
使っているのは、ヒデ語じゃない、どこか別の国の言葉だったけれど。
「なんとか戻ってよかったね」
「ほんとだよ。まさか着替えも手伝えって言われるとは思わなかった」
疲れた調子の陸は肩をぐりぐり回す。
「手伝ったの?」
「なわけ」
からかう海。
陸はしれっと否定した。
「いつまで経っても甘えっ子なんだから」
海は県外の進学を希望しているし、陸ももしかしたら高校卒業後は、スポンサーになってくれる企業のところで働くようになるかもしれない。
いつまでも、共にはいられない。
空がこんなに甘えん坊だと、二人が安心して離れることもできないんじゃないかしら。
そんな心配をしていると、空がスマホを片手に、困ったように聞いてきた。
「ママ。夏休みね」
「うん」
「教授が、世界の少数言語採集に行こうって誘ってくれてるんだけど……」
空の手の中にあるスマホは、まだ相手に繋がっていた。
***
「お会イできて光栄デス。空サンのおかあさん」
「お話は伺っています。ミスター」
近所の喫茶店で、外国然とした男性と握手を交わす。
「早速ですが、娘から聞いた話だといまいち要領が掴めず。もう一度説明の方をお願いしてもよろしいでしょうか」
「モチロンでス」
「……その前に、カフウの言葉は話し辛いでしょうか?」
片言になってしまっている彼へ問うと、少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「マァ、チョット……」
「んー……。わたしはカフウ以外だとヒデ語しか話せないのですが、ヒデ語はいかがでしょう」
『助かります。カフウの言葉よりは得意です』
『それは何よりです。では、このままお話いたしましょう』
彼、アルス=マオ=リザレンは、近所のチェーロ国際大学で言語学を教えている教授とのこと。
自身も言語学の研究者で、長期休みができる度に、世界中の希少言語を求めて飛び立つバイタリティの高い男性。
……と、空に紹介を受けた彼は、どこか胡散臭さが抜けない。
『えっと……。まず、あなたは大学の教授で……。空を大学にスカウトしたと』
『はい。空さんの才能は開花させるべきです。今までの環境であれば、身に着けることはできても発信することは滅多にできない。それは宝の持ち腐れです』
彼はまず環境面から切り込んできた。
たしかに、カフウにいる限り、空の言語をすぐに覚えることができる才能が生かされる場面は滅多に来ない。
『……なるほど。今、空は高校生ですが、それは生徒として、大学を受験してほしいと、そういうことですか?』
『そうです。生徒から始めてもらって、卒業後、もし空さんが望むのであればボクの助手として雇いたく思っています。空さん次第ではありますが、行く行くは教授への道も拓けるかと』
わたしは唸る。
これが真であるか偽であるか……。
嘘であることは多分無いのだと思う。
しかし、先ほどから何度も、空次第と言っている彼の言葉が引っかかる。
『先程からおっしゃっている空次第という言葉ですが、それを言うからには簡単ではないのですよね?』
『……ええ、まあ。まず、そもそも勉強をすることが向いているかは人にもよりますし』
『ええ。その通りです。それに、第一の関門として大学受験があるでしょう?』
『おっしゃる通りです』
彼はタハハと頭を掻く。
『……でも、大学受験については心配ないかと』
『なぜ?』
訝しんだ表情が浮かんでいたのだろうか。
分かりやすいように彼は、指を一本立てる。
『うちの大学は、AO入試を採用しています。多少他の学科が苦手でも、空さんの得意……。他国語を複数話せるという強みを活かすことができれば、合格も見えてくるでしょう』
『それ、教授が保証して大丈夫なんですか?』
『あくまでボクの主観である、ということを付け足しておきましょうか。絶対ではないけれど、と』
おどけて笑う教授。
わたしも同調して小さく笑うと、最後にダメ押し。
『あくまでも、空が希望した場合、と強調してもいいですね?』
『もちろんです。空さんの才能はたしかに希少ですが、やる気の伴わない結果は不幸しか生まないですから』
ひとまずこれで、彼の望む進学の形については話がついた。
わたしはコーヒーを口にする。
『……それで、今年の夏休みの件ですが』
『もちろん、説明します。今年の夏休み、空さんをアルバイトという形で助手として雇いたいと思っているんです』
『空には何をさせようと?』
『期待していることを正直に申し上げると、使い手が数人しかいなくなった希少言語、その音のコピーですね』
『はぁ』
『空さんは、文字を覚えて音を聞くことで、驚異的な速さで言語を身に着けているとか。その特性を生かし、文字が無くとも音だけを採集して、大学に持ち帰り、その言語、その音のデータを記録する。空さんにはこの仕事をしていただきたいと考えております』
なるほど。
たしかに空に向いていそうな仕事ではある。
『ただ、仕事場所が大学以外にも、海外に出なくてはならないので。未成年である空さんを連れ歩くには、親御さんの許可が必要になります』
だから今日、この話し合いを承諾したのかと納得する。
『……もし、空が』
行きたいと言ったのなら。
と、言葉を続けようとしたとき。
「ママ! ここにいたぁ!」
「空?!」
入口の小さなベルをチリンチリンと激しく鳴らし、娘が中へ入ってきた。