〔ほい、茶〕
〔ありがとー。これ、何のお茶?〕
〔裏の畑で採れた茶葉を、
〔おばあちゃんの手作り?! すごい! あっ、おいしい!〕
【……】
音のない空間の中、空は招いてくれたおばあちゃんとひたすら
顔の表情筋を動かして、目の下の動き方で、アルファベットABCに類似する要素を使って、言葉を形作っていく。
【……空、空は彼女の言葉……でいいのかな? それを理解できているのか?】
【うん】
おばあちゃんに、ちょっと待ってねって言ってから教授の方に振り返る。
教授は、しばらく何か考え込んだ様子で、よし。と声を出した。
【空、彼女との間の通訳をお願いしてもいいかい?】
【まかせて】
ぐっとこぶしを握り、ガッツポーズみたくして、教授に答えた。
〔その男はあんたの……オヤジか?〕
〔ううん。ちがうよ〕
空はおばあちゃんの言っていることを教授に伝える。
教授は少し面食らった表情を浮かべたけど、咳払いひとつですぐに気を取り直した。
【マダム。ボクの名前はアルス=マオ=リザレン。大学で言語学を教えています】
〔おばあちゃん。この人はアルス=マオ=リザレン。大学ってとこでね、言葉の先生をやってるの〕
〔けったいな名前だね〕
【けったいな名前だって】
教授、なんか唸ってる。
【通訳ってこんな感じだっただろうか?】って悩んでる。
ごめんね、空、通訳の人と会ったことないから分かんない。
〔それで、なんだい。その先生とやらは、何をしに来たんだい?〕
【何をしに来たの? って】
【ボクは、今はもう使い手の少ない希少な言語を研究するために、こちらに来ました】
〔えっとねぇ、使う人が少なくなっちゃった珍しい言葉を研究しに来たんだよ!〕
〔そうかい、そうかい。なら、あんたたちは幸運だったねぇ〕
〔え? なんで?〕
〔
〔それがおばあちゃん?〕
〔そうだよぉ〕
そのまま教授に伝えると、興奮で叫びだしそうな口を慌てて両手で塞いでいた。
〔教授嬉しそう〕
〔それはよかった〕
おばあちゃんはお茶を飲んで、喉を潤している。
落ち着いてきたら、室内にも余裕をもって目を向けられるようになってきた。
木でできたあばら家。壁にも屋根にも穴が開いているから、天気悪いときとか寒いときとか大変そう。
使われている食器も少し汚れてる……。お茶はおいしいけど。
(外の国だと衛生が重要視されてないところもあるって聞くし、これがここの普通なのかも)
教授は気付いてないっぽい。あとでママに、胃薬教授にあげるように言おうかな。
〔それなら、昔話でもしてあげようかねぇ〕
〔いいの?〕
〔サービスじゃ、サービス〕
おばあちゃんは茶目っ気のある顔で笑う。
【教授】
【なんだい?!】
【おばあちゃん、昔話をしてくれるって】
【なんてことだ! 神よ、ボクにこんな機会を与えていただき感謝します!】
教授が叫んで、大仰に天を仰いで神様とやらに祈り始めちゃった。
〔そうしたら、話し始めようかねぇ……〕
おばあちゃんは、ぽつり、ぽつり話し始めた。
――昔、この国はひとつの民族だけが暮らしていた。
その民族は声を発さず、表情のやり取りでコミュニケーションを取っていた。
現代に生きる人たちが真似できないような、複雑な表情さえも作れたという。
平和だった。でも、陸繫がりの大国が攻め入ってきてしまった。
大国は、思想をまず統一したがった。その民族が信仰している神の像や、協会と同じ役割を果たす施設を焼き払い、大国の神を信仰するよう強制してきた。
同時に、その国の言葉も奪われた。
表情だけで会話をする彼らは、今まで使ったことのなかった喉と声を使い、やがて表情の筋肉も退化していった。
この国に数多の民族が生まれた理由は、言葉を使う異民族が交わり、独自の言語を生み出していったからであった。
けれど彼らは、細く細く次世代に言葉を伝え、家の裏に穴を掘った。
その穴に祭壇を立てた。ばれないようにひっそりと、彼らは己の神に祈りを捧げた。
奪うことしかしない大国へのささやかな抵抗。
それは今日まで連綿と続く。
そして今、その残骸はこの国の至る所に存在すると言われている――
「ほへぇ」
空は今、放心してる。
教授に昔話を時間をかけて伝えたら、教授も言葉をなくしている。
おばあちゃんは一人、ほっほっほなんて言いながら、のんびりお茶を飲んでいる。
〔これが、伝えられる言えるすべてさ〕
〔おばあちゃん……〕
空は考えた。
おばあちゃんは、どんな気持ちでこの言葉をずっと覚え続けてきたんだろうって。
だれも一緒に話せる人がいない中で、ずっと一人で、だれとも会話を交わすことができない言葉を、ずっと。
(まるで呪いみたい)
昔々の、空がまだ生まれてもいないずっと昔から、未来の子孫をずっと苦しめる呪いだ。
空がしょんぼりしていると、おばあちゃんが空の頭を撫でた。
しわしわでごつごつしている、長い時間を生きてきた手だった。
それが、どれほどの孤独を、って考えて、空はちょっぴり泣いちゃった。
〔落ち着いたかい?〕
〔ゔん〕
おばあちゃんがゆっくり微笑む。
外のお日様はもう傾き始めていた。
【長居してしまったし、そろそろ帰ろうか、空】
【うん。あ、ちょっと待って】
おばあちゃんに挨拶をしようと思って教授を引き留める。
〔おばあちゃん、空、そろそろ帰るね〕
〔そうかい。寂しいねぇ〕
名残惜しそうに握手を求めてきたおばあちゃんは、最後に何か聞きたいことはあるか? って聞いてきたから、空はずっと気になっていたことを聞いてみた。
〔おばあちゃん〕
〔なんだい?〕
〔
おばあちゃんが笑う。
顔にたくさんあるシワが、うんとうんと深くなって、おばあちゃんの目を埋もれさせた。
〔もう
***
【いやぁ……】
教授が深い深い溜息を吐いている。
【すごい話を聞いてしまったねぇ】
【ほんとにねぇ】
空たちは、山を下りた麓の市場で、飲み物を飲んで一休みしていた。
【学術的に本当に貴重な話ではあったし、希少言語だったはずが、絶滅間近の言葉だったとは】
教授の言葉はとても、のしかかるような重みを含んでいる。
だけど。空は教授に違うと否定した。
【絶滅しないよ。だって、空が覚えているから】
教授はちょっぴり寂しそうに笑った。
【……そうだね。言葉は、無くならないね】
どうして教授が寂しそうなのか分からなくて、少し気まずくて。
【空、何か食べ物買ってくるね】
逃げるように、近くの果物を売っている屋台に走った。
『おじちゃーん、これいくらー?』
『おー、らっしゃい。これはー……悪い、値札外れてたな』
『じゃあ、これで。多分ちょうど』
『いち、に……ちょうどだな、毎度』
この国は、少数民族が使う言葉がたくさんあるけれど、多くの人が使う公用語はヒデ語だ。
……多分、攻め入った大国って、ヒデ国。ヒデリアって国。
『ねえ、おじちゃん! この辺にさ、珍しい言葉を使う民族の人っているかな?』
『お? んー、もっと離れたところには知っているけど……。おーい』
おじちゃんは店の奥に大声で叫んだ。
奥から女の人の声が聞こえてくる。
『奥さん?』
『そ。オレの妻』
『美人じゃーん。おじちゃんやるぅ』
このこのーってふざけると、よせやい、なんて言いながら嬉しそうなおじちゃんがいた。
『で、何で呼んだんだい?』
『あー、この嬢ちゃんが、珍しい言葉を使う人がいるかって』
おじちゃんが伝えると、奥さんも少し困ったように眉を下げた。
『うーん、もしかすると山の人がそうだったかも……しれないけど……』
『あの山の上?』
空が山を指さすと、奥さんはでも、と口ごもっている。
『あの山に住んでたおばあさんなんだけど……』
すごく言い辛そうにしている奥さんの言葉を継いで、おじちゃんが代わりに言う。
『もう死んでるよ』
『……えっ?』
『一年前くらいだったかな。子供もいないから、しばらく放置された状態で見つかったってよ』
『えっ、でも』
困惑した。
えっ? 死んでいるって、だれが?
空の困惑を知らないように、おじちゃんは言葉を止めない。
『残念だけど、今はあのばあさんはいないんだよな……。まあ、一年前に来ても話すのは難しかったと思うぞ?』
『な、なんで?』
『おかしくなってたんだよ。頭。来客来るたびに草刈り鎌振り回して追っかけるもんだからさ。認知症ってやつ? 晩年は行政の福祉課の奴らがたまーに行くくらいで、ほとんどだれも関わらなかったって話だ』
空は、呆然とした気持ちで山をもう一回見た。
信じられない気持ちって、多分こういうこと。
だって、本当にそうなら。じゃあ。
(空たちが見たあのおばあちゃんは、誰だったんだろう)