夜、としてはまだ日付も変わっていない早めの夜。
翌朝の出発が早いために早々に眠りについたのだが。
「ママ……」
隣の空がもぞもぞ動き出す。
「どうしたの?」
上体を起こすと、空はのそのそこちらのベッドにやってきて、布団の中に潜り込んだ。
「もう、どうしたの?」
いつになく甘えたな空にクスクス笑うと、布団の中からちょっとだけ目を出して。
「なんでもなーい」
なんて言うから、わたしは空の頭を軽く撫でる。
満足そうな空の穏やかな顔を見ていると、突然、部屋の外から物音、それから足音。
「なんだろ」
不審がる。
空が体を起こした。
「陸たちだ」
さっきまでの甘えたはどこへやら。
空は足取り軽く、部屋の扉を開けた。
「わ、びっくりした」
「なんだよ、空も起きてたのか?」
「やっぱり二人だった」
驚いた顔、控えた囁き声のような声量。
陸と海がそこに立っていた。
「二人とも、どうしたの?」
のっそり起き上がって近付くと、バツが悪そうなそっくりの顔。
「……眠れなかったんだ」
「同じく」
どうやら、少しは気持ちも落ち着いたと思っていたが、緊張状態のまま抜け出せていなかったようだ。
「みんなで一緒に寝る?」
二人を誘うと、照れたような、どこか嬉しそうな表情を浮かべて、いそいそやって来た。
「敷布団床に敷いて布団皆でシェアすれば入るかな?」
「陸でかーい。端っこ行って、端っこ」
「なんでだよ」
「海真ん中に来る? 空の隣」
「僕は端でいいよ」
ワイワイ小さな声で盛り上がる、密やかな夜のお泊まり会。
学生のような楽しさと、先生に隠れて盛り上がる背徳感が蘇って来るようだ。
「ベッド動かせるなら動かしたいね」
「このままでもいいんじゃね?」
「でも陸狭いでしょ?」
「全然平気だけど」
強がるな強がるなって、からかうように笑いながら、窓際のベッドに足を向けた。その瞬間。
ドオォン!
「なに?!」
花火が真横に落ちたような振動、爆音、残る耳鳴り。
安穏とした時間に終わりを告げるように、窓の外が一気に明るくなった。
パチパチ、焚き火が爆ぜる音みたいに可愛い音ではない。
バヂバヂバヂっ!
生ぬるい考えをすべて強制的に捨てさせる、地獄の蓋が開く音。
「みんな、貴重品だけ持ってリビング集合! 電気は絶対に点けないで!」
寝ぼけ眼はどこへやら。
戸惑い、怯え、それでも懸命に足と手を動かす彼らを部屋の外へ追い立てて、わたしは教授の部屋へ駆け込んだ。
『起きて!』
『うぉっ?! なんだい?!』
耳元で大声。
文字通り飛び起きた教授は、状況が理解できずに目を白黒させている。
『緊急事態です! すぐ貴重品だけ持ってリビング集合!』
わたしの表情に鬼気迫る何かを感じたのか、教授は何も言わずに鞄にパスポートやお金が入ったセキュリティポーチを片手に鷲掴む。
『まさかだけど、ここまで余波が来た?』
『たぶん真っ只中! さっき外で爆発音と、たぶん燃えてる明かりが見えました』
『なんてこった。明日、無事に帰れると思ったのにな!』
『言ってる場合じゃありません! ひとまず安全確保、大使館へ向かって保護を要請しましょう』
雪崩込むようにリビングへ。
中には、三人が固まって、怯えたようにこちらを見ていた。
「みんな、落ち着いて聞いて。今から外の様子を見て、安全確保をしながら大使館へ向かうわ」
「みんな一緒だよね。だれもここに残らないよね?!」
叫ぶように、懇願するように、わたしの腰元に縋る空。
ええ、もちろん。
そう言おうとして口を開こうとしたとき。
〝○△□○△□○△□!〟
外から異国の叫び声が聞こえてきた。
「……みんな、声を出さないで」
『先生、声出さないでってママが言ってる』
『大丈夫。聞こえているさ』
ひそひそ密やかに二、三言。
そっと息を押し殺し、姿勢は低く。
気配よどうか漏れないで。
そしてどうか、嵐が早めに去ることを。
願う。願う。
皆傷つくこと無く母国の土を踏めたらと。
願う。願う。
せめて、せめて子供たちが無事であれ。
願う。願う。……願っていた。
〝▲◆●▼■◎!!〟
玄関の扉が、終末の鐘の音の如く、恐ろしい破壊音を響かせる。
鈍器か何かで打ち据える音。
木製の扉は、細長く鋭利なもので突き破られる。
……あれは、バールのようなもの。
『……教授。あの祭壇の前まで後退してください』
わたしは背中で押すように、子供たちに下がるよう促す。
戸惑ったようにじりじり下がっていく間にも、扉の破壊は進んでいく。
幸い、中はまだ見えていない。
扉を打ち据える音が大きくて、わずかな物音であればきっと気付かれることもない。
わたしは、到着直後に動かした机を、同じように像へ押し込む。
カチリ。
(開いた!)
狭くて狭くて、薄暗い空間。
その中に、小さな机と小さな像。
遥か昔、ここで暮らしていたであろう民族の、隠れた信仰を守る場所。
わたしはその中に、子供たちを押し込んだ。
「ママ?!」
悲鳴のような小さな声。
続けて被せるように、教授もその中に押し込む。
(ああ)
もういっぱいだ。
わたしが入る隙は、どこにもない。
『……先生。どうか、この後のことをお願いします』
『待ってくれ、待って。君はどうするんだ』
『先生。空をどうか、導いてやってください。やっと、才能を活かすことができるかもしれないんです』
こちらに身を乗り出そうとしている空を、両側の陸と海が、必死になって抑えている。
辛そうな、だけどどこか拗ねたような陸の顔。
泣くまい、泣くまいと意識を空に、空を抑えることに逸らしているように見える。
「……陸」
「……なんだよ」
「陸はね、どこにでも行ける人。自由に大地を駆けられる人。二人を今まで守ってくれたから、今度はお母さんに守らせて。陸はこれから、どうか、自由に、力強く生きて」
その反対隣の海を見る。
泣きそうな顔。だけど懸命に堪えている顔。
「海」
「やだ、母さん、母さん……!」
「海は本当に優しく育ってくれたね。コーヒーだって、ブラックが未だに飲めないのに、お母さんの前だと強がって背伸びしていること、知ってるよ。……花ちゃんと、仲良くね」
最後に。
抑えておかないと叫びだしてしまいそうな空。
両端のふたりが必死に口を塞いでいるその隙間から、まるで懇願するような獣の唸り声。
「ねえ、空。決して、生きることを諦めないで。そうすればね、空の世界は、これからもっと、もぉっと、広がるの……! 楽しいことが、絶対に、たくさん、たくさんあるから……っ!」
ああ、もう、ダメだ。
最後は、笑顔で終わりたい。
こんな、ぐっしゃぐしゃの顔じゃ、子供たちが安心して前を向くことができなくなっちゃう。
「愛してる! あなたたちのこと、ずっと、ずぅっっ……っと!」
扉が、破られる音がした。
像を閉じる。
閉じる直前、断末魔のような叫びが聞こえた。
くぐもった、外に漏れない叫びだった。
「……ふぅ」
涙は拭った。
像から少しでも離れようと、玄関口に近付いて。
『いきなりなんですか!』
完全に破られた扉。
姿を現した、武装に身を委ねた闖入者は、ようやく室内を視認する。
そして確認するだろう。
異国から来た、浮かれ女が一人だけ。と。
〝〇〇▼▼▲〟
『なんですか。伝えたいならちゃんと分かる言葉を話しなさいよ!』
怯えを隠して噛み付く女を、武装集団は鼻で笑う。
「うっ!」
床にうつ伏せに倒される。
重たい、重たい重量が、遠慮の欠片も見せずにのしかかる。
こめかみに当たる、嫌な冷たさ。
それは今日、何者も手にかけていない、新鮮な冷たさをこめかみ越しに伝えてくる。
銃だ。
それ以外は考えられない。
安全装置が外される感覚が、嫌だと思っても伝わってくる。
引き金に指をかけた。そんな音が。
速くなる鼓動。荒くなる息。
押し寄せる後悔。それと少しの誇らしさ。
(悔しいなあ)
もっと、陸が大会優勝した時の賞状を持ってくる、あの満面の笑みを見ていたかった。
(悔しいなぁ)
もっと、海が惚気ている時の甘い顔を見ていたかったし、二人の結婚式にも出たかった。
(悔しいなぁ……!)
もっと、空に甘えられていたかった。変な人に絡まれないように、処世術だって教えたかった。
(もっと、生きていたいなぁ)
みんなが高校を卒業する堂々とした姿を見ていたい。
成人した時の姿を見てみたい。
社会に出た時の姿を見ていたい。
疲れた時の止まり木になってあげたい。
巣立つ姿を見たかった。
幸せになった姿を見たかった。
最期の最期のその時まで、子どもたちの成長を見ていたかった。
引き金が引かれた音がした。
わたしはそっと、目を閉じた。
――陳腐な言葉だけど、お母さんね、あの時奇跡が起きたと思ったの。
あなたたちがこの世界に産まれてきてくれた奇跡。
誰ひとり欠けることなく、無事に元気で、お母さんの元に産まれてきてくれた、そんな奇跡。
あなたたちが生まれる前ね、お母さんとっても不安だったの。
診断では双子って出ていて。元気にお腹ですくすく育っている男の子。
お母さん、初めての子育てで、二人も子供を育てられるのかなって、とっても不安だったの。
だけど、だけどね。今後の不安とか、出産のときにできた腹の傷の痛みとか、そういうもの全部、あなたたちがいたから吹き飛んだの。
あなたたちを見た瞬間に、そんなものどこかに置いてきてしまったの。
おかしいと思う? あれだけ散々、双子を育てられるかなって、不安がって、騒いで。
結果、双子のお兄ちゃんたちに隠れてもうひとり妹がいて。
三人をいっぺんに育てることになったのに。お母さん、不安なんて全部なくなっちゃった。
だって、あなたたちがとてもかわいくて、愛しかったから。
だから、ねえ。わたし、あなたたちに伝えたいことがあるの。ずっと、ずっと、いつまでも伝え続けたいことがあるの。
「愛してる。わたしの宝。大切な子供たち。ずっと、ずっと、愛しているわ」
こめかみに当たった銃身が弾丸を撃ち抜く。反動で二度、頭を叩く。
そうしていとも呆気なく世界は光の形を失――