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第61話 それはきっと、あなたの名前をしている 2

 夜、としてはまだ日付も変わっていない早めの夜。

翌朝の出発が早いために早々に眠りについたのだが。


「ママ……」


 隣の空がもぞもぞ動き出す。


「どうしたの?」


 上体を起こすと、空はのそのそこちらのベッドにやってきて、布団の中に潜り込んだ。


「もう、どうしたの?」


 いつになく甘えたな空にクスクス笑うと、布団の中からちょっとだけ目を出して。


「なんでもなーい」


 なんて言うから、わたしは空の頭を軽く撫でる。

満足そうな空の穏やかな顔を見ていると、突然、部屋の外から物音、それから足音。


「なんだろ」


 不審がる。

空が体を起こした。


「陸たちだ」


 さっきまでの甘えたはどこへやら。

空は足取り軽く、部屋の扉を開けた。


「わ、びっくりした」

「なんだよ、空も起きてたのか?」

「やっぱり二人だった」


 驚いた顔、控えた囁き声のような声量。

陸と海がそこに立っていた。


「二人とも、どうしたの?」


 のっそり起き上がって近付くと、バツが悪そうなそっくりの顔。


「……眠れなかったんだ」

「同じく」


 どうやら、少しは気持ちも落ち着いたと思っていたが、緊張状態のまま抜け出せていなかったようだ。


「みんなで一緒に寝る?」


 二人を誘うと、照れたような、どこか嬉しそうな表情を浮かべて、いそいそやって来た。


「敷布団床に敷いて布団皆でシェアすれば入るかな?」

「陸でかーい。端っこ行って、端っこ」

「なんでだよ」

「海真ん中に来る? 空の隣」

「僕は端でいいよ」


 ワイワイ小さな声で盛り上がる、密やかな夜のお泊まり会。

学生のような楽しさと、先生に隠れて盛り上がる背徳感が蘇って来るようだ。


「ベッド動かせるなら動かしたいね」

「このままでもいいんじゃね?」

「でも陸狭いでしょ?」

「全然平気だけど」


 強がるな強がるなって、からかうように笑いながら、窓際のベッドに足を向けた。その瞬間。


 ドオォン!


「なに?!」


 花火が真横に落ちたような振動、爆音、残る耳鳴り。

安穏とした時間に終わりを告げるように、窓の外が一気に明るくなった。


 パチパチ、焚き火が爆ぜる音みたいに可愛い音ではない。

バヂバヂバヂっ!

生ぬるい考えをすべて強制的に捨てさせる、地獄の蓋が開く音。


「みんな、貴重品だけ持ってリビング集合! 電気は絶対に点けないで!」


 寝ぼけ眼はどこへやら。

戸惑い、怯え、それでも懸命に足と手を動かす彼らを部屋の外へ追い立てて、わたしは教授の部屋へ駆け込んだ。


『起きて!』

『うぉっ?! なんだい?!』


 耳元で大声。

文字通り飛び起きた教授は、状況が理解できずに目を白黒させている。


『緊急事態です! すぐ貴重品だけ持ってリビング集合!』


 わたしの表情に鬼気迫る何かを感じたのか、教授は何も言わずに鞄にパスポートやお金が入ったセキュリティポーチを片手に鷲掴む。


『まさかだけど、ここまで余波が来た?』

『たぶん真っ只中! さっき外で爆発音と、たぶん燃えてる明かりが見えました』

『なんてこった。明日、無事に帰れると思ったのにな!』

『言ってる場合じゃありません! ひとまず安全確保、大使館へ向かって保護を要請しましょう』


 雪崩込むようにリビングへ。

中には、三人が固まって、怯えたようにこちらを見ていた。


「みんな、落ち着いて聞いて。今から外の様子を見て、安全確保をしながら大使館へ向かうわ」

「みんな一緒だよね。だれもここに残らないよね?!」


 叫ぶように、懇願するように、わたしの腰元に縋る空。

ええ、もちろん。

そう言おうとして口を開こうとしたとき。


〝○△□○△□○△□!〟


 外から異国の叫び声が聞こえてきた。


「……みんな、声を出さないで」

『先生、声出さないでってママが言ってる』

『大丈夫。聞こえているさ』


 ひそひそ密やかに二、三言。

そっと息を押し殺し、姿勢は低く。

気配よどうか漏れないで。

そしてどうか、嵐が早めに去ることを。


 願う。願う。

皆傷つくこと無く母国の土を踏めたらと。

願う。願う。

せめて、せめて子供たちが無事であれ。

願う。願う。……願っていた。


〝▲◆●▼■◎!!〟


 玄関の扉が、終末の鐘の音の如く、恐ろしい破壊音を響かせる。

鈍器か何かで打ち据える音。

木製の扉は、細長く鋭利なもので突き破られる。

……あれは、バールのようなもの。


『……教授。あの祭壇の前まで後退してください』


 わたしは背中で押すように、子供たちに下がるよう促す。

戸惑ったようにじりじり下がっていく間にも、扉の破壊は進んでいく。


 幸い、中はまだ見えていない。

扉を打ち据える音が大きくて、わずかな物音であればきっと気付かれることもない。


 わたしは、到着直後に動かした机を、同じように像へ押し込む。


 カチリ。


(開いた!)


 狭くて狭くて、薄暗い空間。

その中に、小さな机と小さな像。

遥か昔、ここで暮らしていたであろう民族の、隠れた信仰を守る場所。


 わたしはその中に、子供たちを押し込んだ。


「ママ?!」


 悲鳴のような小さな声。

続けて被せるように、教授もその中に押し込む。


(ああ)


 もういっぱいだ。

わたしが入る隙は、どこにもない。


『……先生。どうか、この後のことをお願いします』

『待ってくれ、待って。君はどうするんだ』

『先生。空をどうか、導いてやってください。やっと、才能を活かすことができるかもしれないんです』


 教授先生の奥に隠れた、子どもたちの顔を一人ずつ見る。

こちらに身を乗り出そうとしている空を、両側の陸と海が、必死になって抑えている。


 辛そうな、だけどどこか拗ねたような陸の顔。

泣くまい、泣くまいと意識を空に、空を抑えることに逸らしているように見える。


「……陸」

「……なんだよ」

「陸はね、どこにでも行ける人。自由に大地を駆けられる人。二人を今まで守ってくれたから、今度はお母さんに守らせて。陸はこれから、どうか、自由に、力強く生きて」


 その反対隣の海を見る。

泣きそうな顔。だけど懸命に堪えている顔。


「海」

「やだ、母さん、母さん……!」

「海は本当に優しく育ってくれたね。コーヒーだって、ブラックが未だに飲めないのに、お母さんの前だと強がって背伸びしていること、知ってるよ。……花ちゃんと、仲良くね」


 最後に。

抑えておかないと叫びだしてしまいそうな空。

両端のふたりが必死に口を塞いでいるその隙間から、まるで懇願するような獣の唸り声。


「ねえ、空。決して、生きることを諦めないで。そうすればね、空の世界は、これからもっと、もぉっと、広がるの……! 楽しいことが、絶対に、たくさん、たくさんあるから……っ!」


 ああ、もう、ダメだ。

最後は、笑顔で終わりたい。

こんな、ぐっしゃぐしゃの顔じゃ、子供たちが安心して前を向くことができなくなっちゃう。


「愛してる! あなたたちのこと、ずっと、ずぅっっ……っと!」


 扉が、破られる音がした。

像を閉じる。

閉じる直前、断末魔のような叫びが聞こえた。

くぐもった、外に漏れない叫びだった。


「……ふぅ」


 涙は拭った。

像から少しでも離れようと、玄関口に近付いて。


『いきなりなんですか!』


 完全に破られた扉。

姿を現した、武装に身を委ねた闖入者は、ようやく室内を視認する。

そして確認するだろう。

異国から来た、浮かれ女が一人だけ。と。


〝〇〇▼▼▲〟

『なんですか。伝えたいならちゃんと分かる言葉を話しなさいよ!』


 怯えを隠して噛み付く女を、武装集団は鼻で笑う。


「うっ!」


 床にうつ伏せに倒される。

重たい、重たい重量が、遠慮の欠片も見せずにのしかかる。


 こめかみに当たる、嫌な冷たさ。

それは今日、何者も手にかけていない、新鮮な冷たさをこめかみ越しに伝えてくる。


 銃だ。

それ以外は考えられない。


 安全装置が外される感覚が、嫌だと思っても伝わってくる。

引き金に指をかけた。そんな音が。


 速くなる鼓動。荒くなる息。

押し寄せる後悔。それと少しの誇らしさ。


(悔しいなあ)


 もっと、陸が大会優勝した時の賞状を持ってくる、あの満面の笑みを見ていたかった。


(悔しいなぁ)


 もっと、海が惚気ている時の甘い顔を見ていたかったし、二人の結婚式にも出たかった。


(悔しいなぁ……!)


 もっと、空に甘えられていたかった。変な人に絡まれないように、処世術だって教えたかった。


(もっと、生きていたいなぁ)


 みんなが高校を卒業する堂々とした姿を見ていたい。

成人した時の姿を見てみたい。

社会に出た時の姿を見ていたい。

疲れた時の止まり木になってあげたい。

巣立つ姿を見たかった。

幸せになった姿を見たかった。

最期の最期のその時まで、子どもたちの成長を見ていたかった。


 引き金が引かれた音がした。

わたしはそっと、目を閉じた。


 ――陳腐な言葉だけど、お母さんね、あの時奇跡が起きたと思ったの。

あなたたちがこの世界に産まれてきてくれた奇跡。

誰ひとり欠けることなく、無事に元気で、お母さんの元に産まれてきてくれた、そんな奇跡。


 あなたたちが生まれる前ね、お母さんとっても不安だったの。

診断では双子って出ていて。元気にお腹ですくすく育っている男の子。

お母さん、初めての子育てで、二人も子供を育てられるのかなって、とっても不安だったの。


 だけど、だけどね。今後の不安とか、出産のときにできた腹の傷の痛みとか、そういうもの全部、あなたたちがいたから吹き飛んだの。

あなたたちを見た瞬間に、そんなものどこかに置いてきてしまったの。


 おかしいと思う? あれだけ散々、双子を育てられるかなって、不安がって、騒いで。

結果、双子のお兄ちゃんたちに隠れてもうひとり妹がいて。

三人をいっぺんに育てることになったのに。お母さん、不安なんて全部なくなっちゃった。

だって、あなたたちがとてもかわいくて、愛しかったから。


 だから、ねえ。わたし、あなたたちに伝えたいことがあるの。ずっと、ずっと、いつまでも伝え続けたいことがあるの。


「愛してる。わたしの宝。大切な子供たち。ずっと、ずっと、愛しているわ」


 こめかみに当たった銃身が弾丸を撃ち抜く。反動で二度、頭を叩く。

そうしていとも呆気なく世界は光の形を失――

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