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第62話 それはきっと、あなたの名前をしている 3 空の✕✕

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 ここは?


 目が覚めて、真っ先に世界に映ったものはボヤけて境界が曖昧になった白い世界。


 特に痛くもない四肢。

カピカピに乾燥した頬の皮膚。

喉は何だかイガイガしている。カラオケで全力で歌った後みたいな。


(空、なにしてたんだろう)


 前後の記憶が思い出せない。

ただ、頭の後ろが鉛のように重くて、どうも起こせそうにない。


(そうだ)


 みんなで旅行に来てたんだ。

空と、陸と、海と、あと……。


(教授と、あと……)


 あと……。


(なんだったっけ)


 靄がかかった頭の中で、迷子をしているみたい。

本当はそっちじゃないことを分かっているのに、敢えて間違った道に進んでいるみたいな、不思議な感覚。


(ここ、どこだろう)


 ようやくクリアになった視界で世界を見渡してみる。

部屋だった。空が知らない部屋。

 白い天井に、スカイブルーの壁紙。

晴天の空よりも濁ったパステルカラーのシンプルな部屋。

 ベッドひとつ。小さなサイドテーブルと、それと対になる腰掛け椅子。

窓はない。閉め切られた空間で、なぜか空は眠っていた。


(大事なことを忘れている気がする。何か、何か)


 ズキズキ痛む頭を必死に揺り起こそうと藻掻く心地でいると、部屋のドアノブが回った。


「……空! 起きたのか」


 ドアの向こうには、三つ子の長男、陸が立っていた。


「……く、……たの」

「ガッサガサだな。待ってろ、水もらってくる」


 部屋を出ていこうと、ベッド脇で踵を返す陸の袖を掴む。


「な、にが、あ、った、の」


 途切れ途切れになってしまう発声を、根気強く最後まで聞いた陸は視線を逸らす。


「えっ……と」


 何から話そうかと、陸が口元を片手で覆った。


「あー……。まず、ここは、大使館の中。職員のご厚意で、一部屋貸してもらってる」

「大、使館? ……陸と、海は、部屋、あるの?」

「俺らはないよ。そもそも空の目が覚めるまでって条件だったし……。たぶん、これからもっと人が増えるから、その前に起きてくれてよかった」


 安心したように肩を下ろす陸。

今いる場所はわかったけど、なんでここにいるんだろう。


「なら、空は何でここにいるの?」


 言葉に詰まる陸。

なんと言ったものか、なんて小さな呟きが聞こえた直後。


 ドォン! ドオォン!


「!!」


 部屋の外。もっと遠くの方から、くぐもった爆発音が聞こえてきた。


(そうだ、思い出した)


 あのヴィラで、爆発の音を聞いたんだ。

それで、それで。


「マ、マは?」


 ママはどうなったの?


 空は、狭い部屋みたいなとこに皆と入ってて、なんでか陸と海に口を塞がれてて、目の前に教授の背中が見えていて、部屋の入り口にほんの少しだけ切れ目みたいなものが入ってて、灯りがそこから一筋漏れてて、そこから外が見えていて、それで、それで、それで。


「……あ」


 ようやく陸の顔を見ることができた。

陸は隠れて泣いた跡があった。

唇には薄い歯型と滲んだ血。

一生分のひどい顔をしていて。


 していて。察した。


「う、そだ」


 陸は首を振る。

大きく大きく首を振る。

後悔も悲しさも気が狂いそうになる怒りだって、全部を振り払うように。


「母ちゃん、死んだよ」

「嘘だ!!」


 陸に掴みかかる。

ベッドの上で立ち上がって。胸倉掴んで。ずーっと寝ていたものだから、立ち眩みを起こして倒れ込んで。陸も一緒に倒れ込んで。


「ウソだ、ウソだウソだウソだ! ママ、死んでないもん! 死んでない! 死んでないの!」

「現実を見ろ! ……見てくれよ、空。母ちゃんは死んだ。銃で撃たれて死んだ!」

「死んでない! 生きてるもん!」

「空!」


 普段聞かない強い声。

空が馬乗りになった陸が、必死に張り上げた声で空は動きを止めた。


 顔は真剣。

嘘じゃないって、嫌でも気付かされる顔。


「……ママ、死んだの……?」


 声が震える。

目を伏せた陸が、空と同じくらい震えた声で、一言だけ。


「……死んだ」


 どうして?

どうして、どうして、どうして。

どうしてママは死んだの。

死ななければならなかったの。


「……空のせいだ……! 空がバイトでみんな行こって言ったから……! 空がこの国に来たいって言わなきゃ、ママはまだいた! 生きていた!!」

「違う!」

「違わないよ!」

「空は悪くない! 絶対に悪くない! 悪いのは、悪いのは……っ!」

「悪いのは何なの! 空のせいじゃないなら、誰が悪いの!」


 言葉を喉の奥に詰まらせて、息がし辛くなっているみたいな浅い息。

空は、陸に掻き抱かれる。


 陸の顔が当たる肩が冷たい。

言葉にならない声が唸って、空の耳朶を悲しく叩く。


「なんでママは死んだの……。なんで、なんで……。なんであの人たちはママを殺したの……。なんで……」


 力はもう入らなかった。

空の口だけが、意味無く弱く、言葉らしきものをうわ言のように繰り返す。

叫ぶ気力ももうなくて。責める気力ももうなくて。

ただ、ずっと、原因のようなぼんやりとしたものがあるのだと言い聞かせて。

思考がだんだん痺れて痺れて、そうしてぼんやり鈍っていく。


「あ、あぁ……! わあぁぁぁ……っ!!」 


 滝が空の体から流れていく。

さわやかさの欠片もない、ドロドロしていて、悲しくて、苦しくて、怒りさえも感じるような汚い滝が。


 だけど、どれだけ泣こうが喚こうが、ママはもういないんだ。

それだけが、鉛よりもずっと重くのしかかっていた。

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