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第63話 それはきっと、あなたの名前をしている 4

 ママの遺体が帰ってきた。

帰国後、おばあちゃんたちの家にお世話になっていた空たちがそのお知らせを受けたのは、周りの大人がお葬式の準備を恙無く終えた後だった。


 帰国してから、空はずっと学校に行けていない。

ママの行ってらっしゃいが聞こえないって、認めるのが怖かったから。

祖父母の家で借りている一室で、寝て、起きて、また寝て、たまに食べて、それでまた寝てを繰り返して……。


(……肌、荒れちゃった)


 今までできたことのなかったニキビができている。

髪も、キシキシ傷んでいて、指通りが悪くなった。

体が重くて、お風呂に入れない時も何日もあって、さすがに臭いがクサくなってきた時は、陸が抱えて連行して、海が洗面台で頭を洗って、その流れでお風呂に放り込まれていた。

だけど次の日からは、またお風呂にも入れなくなる。そんな毎日を繰り返していた。


(……なんか空、痩せたかも)


 ご飯もたまに食べるけど、ずっと食欲がなくて、数日に一食くらいしか食べなかったからかも。

 お葬式に行くために久しぶりに袖を通した制服。

そこから見える脚も、腕も、骨の形が見えてきている気がする。


「空」

「海。今行くよ」


 部屋の外から控えめに、海。

軽めに返事をして、適当にひとつに髪の毛を縛った。


 部屋を出ると、おばあちゃんとおじいちゃんも勢揃い。

すごく久しぶりに見る気がする祖父母は、空の姿を見て痛そうに顔を歪めていた。


 ママがいなくなった子供に対する哀れみ?

それとも、もっとわかりやすく、ご飯も食べられていない体を見てそうなった?


 祖父母の哀れみの視線を遮るように、陸がぬっと壁になった。


「じいちゃん。ばあちゃんも、いつ出るんだ?」


 普段通りの声のトーン。

陸はどんな思いを抱えて、そんなトーンで話せるんだろう。

いつも通りに振る舞えるんだろう。


(空にはきっと、一生分からないよ)


 大事な人を亡くして、平然としていられるなんて。きっと一生分からない。


 だれも声を発することのない車の中で、空はぼんやり、そんなことを考えていた。



***


 お葬式の会場に着いたのは、家から出て三十分後のことだった。

係の人に促されるまま、ひとつの広い部屋へ入る。


 たくさんのお花。

顔の見えない、蓋が閉まった棺。

その上に、あの旅行の集合写真を切り取った、満面の笑みのママの写真。


 お葬式って感じがする。


 小さい頃に、パパがいなくなった時の様子は、ぼんやりとしか覚えていない。

でも、ママが泣いてたことだけ覚えてて、人が死ぬと、人は泣くんだって学習した。


 だけど覚えているのはそのくらいで、空の中でパパはずっと写真の人。

遊んでくれたって記憶は、大きくなるにつれて薄れていって、今は欠片も思い出せない。


「空、お焼香」

「……ん」


 海に促され、先んじて焼香をあげに行っていた、陸の背中を追いかける。


「ママ」


 開かない棺の蓋に声を掛ける。

焼香をあげる前、空は、ママのおばあちゃんたちの方を見た。


「ママの顔、見たい」


 突然顔色が変わる、ママの祖父母。

必死に首を振りながら近付いてくる。


「ダメよ、陽毬の……ママの顔は見れないの」

「やめよう、な?」


 何ていうか、支離滅裂。

具体的な理由も言わないで、ただやめさせようと台詞を吐く祖父母に覚える不信感。


 嫌な予感がした空は、制止の言葉も聞かないで、閉じられた棺の蓋を勢いよく開けた。


 背後から息を呑む音。

小さな悲鳴は誰のもの。


 そんな些細なことは、頭に血が登って、沸騰しそうな空には関係なかった。


「……いい加減にしてよ」


 グラグラ、グラグラ煮立つ脳。

目の前の光景が信じられなかった。……信じたくなかった。


「馬鹿にするのもいい加減にしてよ! 空たちが! 空たちがこんなのでごまかせると思ったの?!」


 叫ぶ。

祖父母が止めに入る前に、陸に羽交い締めにされる。


「落ち着け、空!」

「ママはどこ?! ママは、ママはこんなマネキンじゃない!!」


 棺の中には一体、人の形をしたマネキンが入っていた。


「ごめんね、ごめんね、空ぁ……!」


 おばあちゃんが泣き崩れる。

おじいちゃんが、辛そうに顔を顰めて、絞り出すように声を出した。


「……陽毬は、右手に」

「右手……?」


 ドクン、ドクン。心臓、うるさい。目の前がチカチカ、チカチカ。砂嵐みたいなの、邪魔。

息が浅く速く。息、邪魔。止まって。……止まって。


 見るな見るなと叫んでいる。

空の心が叫んでいる。


 だけど、空は見てしまった。

無機質な、血の通わないマネキンの右手が。

人の手に入れ替わっていることを。


「……なんで?」


 なんで、どうして、ママがこんな目に遭わなきゃいけないの。

ママ、そんなに悪いこと、した? してないよね?

じゃあ、陸と海とか、空が悪かったの? ママが右手しか残らないくらいまで、それが罰だって言われるまで、何か悪いことしたの?

空、頭良くないからわかんないよ? ねえ、なんで、なんで、なんで。


「……なんで?」


 その右手には、空のあげたブレスレットが大切そうに下がっている。

見慣れた形の見慣れた色の、唯一無二の世界のどこにも同じものが存在しないブレスレット。


 それがあるから、ママって分かった。

それがあるから、分かってしまった。


 いっそ何もなくて、全部全部、全部偽物で、いるんだって、ママはどこかで生きているんだって、希望を持たせてくれたのなら。


「空! 空! おい、戻ってこい!」

「だめだ、過呼吸になってる! 誰か紙袋! なければビニールでもいい、早く!」


 息が苦しい。胸が苦しい。頭が痛いのか苦しいのか分からない。ぼんやりしている。


 こうなってようやく、周りに人がたくさんいたことに気がついた。

誰がいるのかなんて、もうぼやけて見えないけど。


 でも、その人混みから聞こえてきた小声は、確かに形を持って、空の頭に粘っこくこびり付く。


「戦争に巻き込まれて、可哀想に」


 ……ああ、そうか。

何も悪くなくても、は、人の善悪関係なく奪っていくのか。


(戦争、の、せい、で)


 意識を失うその直前。

空はを強く憎んだ。

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