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第三話『髪盗り鬼の噂』

公治きみひろの妻が鬼におそわれたというのはまことか?」

 御簾みすの奥から小さな男の子の声が聴こえてくる。

 ただの子供ではない。この国の君主であり現人神あらひとがみであられる『貴きおかた』だ。

 彼の前には多くの公達が頭を垂れている。当然是実もそのうちのひとりであり、座ったまま袖を合わせ、深く頭を下げてゆっくりと面をあげる。

「鬼、というのはまだ分かりませんが、大内裏の四方に検非違使を配し、見回りの数を増やしております。主上おかみはどうかお心安らかに。この是実にお任せください」

 公治というのは『髪切り鬼』の被害に遭った女の夫だ。昨日も内裏へと参内さんだいしていたが、さすがに今はいない。妻を想って自宅にいるのだろう。

「うむ……是実、そなたが言うのなら。して公治は来ておらぬのか?」

「公治殿でしたら――」

「公治殿は物忌ものいみにてせっておられます」

 帝の問いに答えたのは、是実ではなくひとりの男だった。

 政務の場であるここ大極殿だいごくでんの左側最上位、実質的な政の支配者である太政大臣、藤原ふじわらの宗通むねみちがなんとも穏やかな表情で控えている。

「妻が鬼に襲われたとあっては公治殿にもけがれがついておりましょう。日々の参内はかなわぬものと思われます」

「そうか……心配だの。公治と妻にもよく休むよう伝えてたも」

 なんとも無邪気な声色で帝が心を配る。それに合わせるよう貴族達も哀れんだり心配するフリをした。

「主上のお心遣い、なんと温かいこと。この宗通も胸を打つものがございます」

 宗通のあまりにもわざとらしいご機嫌取りの言葉に是実は心の中で悪態をつく。

 大畝おおうねの公治きみひろは内裏でもそれほど強い影響力を持っていなかったが、最近は徐々にその力を示してきた。

 だがここにきての謎の存在による襲撃と物忌みだ。なにか作為的なものを感じずにはいられない。

 それとも本当に『鬼』が出たとでもいうのか。にこやかに微笑んでいる宗通を見て、是実はまさかとほくそ笑む。

 本当の鬼なら帝の側にいる。


 ~・~


 是実が事前に手まわしをしてくれていたのもあって事件の調べはスムーズに進んだ。

 巷で噂となっているのは『髪盗り鬼』というらしい。最初に聞いたのは髪切り鬼だったが、人から人へ伝聞していくうちに名が変わってきたのだろう。

 話としてはそれほど複雑なものではなかった。下級官吏かんりの妻や役人の娘、商女あきないおんななどが夜の大路おおじを歩いていると、視界の外から小さな鬼が現れ、髪を刈って去っていくらしい。

「……馬鹿馬鹿しい」

 取り寄せた調書しらべがきを読んで呟く呉乃。そもそも誰もちゃんと正面から相手を見たことがないというのになぜそれが鬼だと分かるのか。

「少将様がお戻りだ」

 ひと通り情報に目を通したところで、部屋の外から声が聴こえてきた。

 ここまで連れてきてくれた是実の直属の部下だ。呉乃はスッとその場で立ち上がり、資料をまとめていた文机ふづくえから離れる。

「どうだ? 真相には辿り着いたか?」

 視界の端から是実が姿を現した。顔からはやや疲れの色が見えるが女人と少し話せば回復する程度の疲労だろうと決めつけた。

「おかげさまで、様々な情報を得ることができましたが、それでも謎は深まるばかりでございます」

 袖を合わせて頭を下げ、淡々と報告する呉乃。是実は「ふむ」といって顎を撫で、文机の前に座る。

「深まるばかり……珍しく苦戦しているようだな。ではまず、そなたの考えを聞かせてもらおう」

 呉乃は袖に手を合わせたまま頭をあげ、チラッと控えている是実の部下に視線をやった。

 彼は呉乃と是実を交互に見てやがてそそくさと部屋を出ていく。

 これから貴族の悪口も出るかもしれないのだ。わざわざ告げ口だなんてするとは思えないが、聞かれる人間は少ない方がいい。

 呉乃は部下が部屋を離れたことを確認すると、是実の側に戻って話を始めた。

「まず、髪盗り鬼というのは女と思われます」

「……ほう? なぜそう思う? 人々を襲う鬼だぞ? 屈強な男の可能性は? それとも本物の鬼やもしれぬ」

「犯行が行われた場所にあった足跡は常にふたつ。それも殆ど同じ大きさです。長い髪をあえてまとめず、鬼の顔を描いた面布めんぷでもかぶれば夜道に見た者が鬼だと思うのも無理はありません。なにより小さな鬼と証言がありましたから。女の可能性は限りなく高いでしょう」

「なるほど、証言から推測するにそうだな」

「それだけではありません。襲われた女達はみな美しい髪が自慢の女たちでした。しかし貴族の娘や妻ならまだしも、下級官吏の娘や商女など見向きもされません。ですが価値は確かにある」

「そしてそれを知るのもまた女、というわけか」

 呉乃が無言で頷く。だがすぐに「ただ……」と続ける。

「なぜこんなことをしたのか。それが分かりません」

 はっきりとした呉乃の弱気な発言に是実は驚いて目を丸くする。

 と思ったら、これは面白いものを見たとでも言いたげな顔で女官の顔を覗き込む。

「なんだ、鬼がなぜ髪を盗むのか皆目見当もつかないと?」

「それは分かります。として売るためでしょう。美しいかもじはそれだけで絹や錦と同等の価値があります」

「ではなにが分からぬと?」

「なぜ鬼は貴族の妻を狙ったのかということです」

 呉乃がその大きな目を鈍く輝かせて告げる。

 目元の隈のせいでぎょろりと動いているように見えるその瞳は、是実とて最初こそ不気味と思ったが、もう何年も間近で見てきて慣れてしまった。

 これは呉乃の興味がくすぐられている証なのだ。

「これまでの襲われた者達はみな身分の低い女達でした。それに髪を盗られたといっても一房二房程度。そのおかげとでもいうべきか、髪盗り鬼の噂は噂程度のもの。検非違使が本腰を入れて調べることもなかったのでしょう」

「むっ……たしかに、記録自体はとっていたがどうやら見回りの片手間に調べる程度だったようだな」

 事件の記録を改めて確認し、笏で額の辺りをおさえる是実。仕方がないだろう。検非違使の仕事は大小さまざまで日々忙しい。だというのに真偽も定かではない事件に振り回されるわけにはいかない。

「しかし今回襲われたのは大畝公治殿の妻の珠江たまえという女性です。大畝公治殿は正七位下で兵衛尉ひょうえのじょうです。実力はともかく名は十分に知られてはいるでしょう。そんな貴族の妻を狙うだなんて、あまりにも目立ちすぎます」

「それに公治殿の奥方は内裏でも評判のお方でな、見目麗しくしとやかで、その声、鈴のなるごとしと。それでいて博識で和歌も得意と評判の才女でな。ある詩人の詩を自分なりに汲み取り、諷喩詩ふうゆしとして歌ったのだが、それはそれは見事なもので……」

「随分とお詳しいようで……まさか是実様」

「まてまて、公治殿が妻をめとったのは最近の話だ。若い夫婦の仲を引き裂くなど、そこまで私は不埒な男ではないぞ」

 呉乃の疑うような視線に是実は慌てて弁明をする。今朝も人妻と会っていた男の言うことではないとは思うが、ひとまず流すことにした。

「話を戻しますが、とにかく、そんな貴族の妻が襲われたとなれば検非違使も本格的に動くことでしょう」

「うむ、実際襲われたという話が帝にまで及んでいるのだからな」

「そうなれば捕まるのは時間の問題です。それを犯人が理解していない、なんてことはないと思うのですが……」

「なにか狙いがあるのやもしれぬ。ならば実際に話を聞いてみるのが良かろう」

「大畝公治殿にですか?」

「いいや、噂の美女、奥方の珠江殿だ」

 勢いよく是実が立ち上がる。女性のこと、それも美女となるとすぐこれだ。

 とはいえこの行動力は流石と言える。呉乃は静かに頭を下げて是実の後ろを歩く。

「京で暮らす女達が今も鬼に怯えているのだ。京の治安を守る権少将ごんのしょうしょうとして放っておくわけにはいかないからな」

 怯える女達のため――本日も絶好調な主人あるじに、呉乃は短く息を吐いて笑った。

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