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第五話『妻・珠江との出会い』

 主人あるじのもとを離れ、呉乃は邸の北の対、妻である珠江の居所を訪れた。

 邸の主人である公治によって話は通っているらしい。部屋に入ると御簾みす越しに座っている人を見つける。

 間違いなく妻の珠江だろう。呉乃は袖を合わせて頭を下げた。

権少将ごんのしょうしょう、高篠是実様の側付きの女官、呉乃と申します。此度は急な訪問と謁見をお許しください。奥様」

「おもてをあげてください、呉乃様」

 聴こえてきたのは鈴が鳴ったかのような軽やかな声だった。

 呉乃が想像していたよりも若い声だ。そしてそれ以上に美しい。なるほどこれなら評判になるのも必定だろう。

 だがそんな美しい声よりも、呉乃の心を惑わせたのは彼女のその言葉だった。

 慌てて周囲に人がいないのを確認し、おそるおそると御簾へ顔を向ける。

「ありがとうございます奥様、ですが、私のような端女はしためにそのような呼び方、もったいのうございます。どうかただの呉乃と。でないと女房殿や我が主人あるじに叱られてしまいます」

「あら、それは困りますね。でもご安心ください。人払いは済んでおります。ここでの会話を聞かれることはありません」

 しゃらんと御簾があがる。首の辺りで切りそろえられた髪が柔らかく舞う。

 あどけない顔立ちのこれまた線の細い女性だった。当たり前のように顔を見せて来た珠江に呉乃は驚きつつもジッと観察する。

(これが大畝様の奥方の珠江様……確かに綺麗な声だし繊細そうなお顔立ちだけど、いきなり御簾から顔を出してくるなんて性格はそうでもないのか……?)

「髪盗り鬼について訊ねにきたのでしょう? 呉乃殿。なんでも訊いてください。一刻も早く鬼を捕まえるためにも、私の知る限りのすべてをお話させていただきます」

 涼やかな声ではっきりと意思を表明する珠江。貴人に呉乃殿と呼ばれるのはむず痒いがここは我慢するしかないだろう。

 それにしてもだ。物忌みで臥せっているという話だったが彼女の姿を見る限りそうは思えない。

(鬼に襲われる悪夢を見てやつれたお姿、ねぇ……)

 どこからどう見ても健康体だ。むしろ髪を切られた恨みと怒りで殺気立っているようにも見える。

 確かに身体自体はやや痩せ気味ではあるものの、元からそうだったのだろう。

 とはいえ、それならそれでありがたい。話を聞き出すにはまず相手の心を開かなければと思っていたがこの状態ならばその手間は省ける。

「では、恐れながらこの呉乃が是実様の名代みょうだいとして、お話を聞かせていただきます。まずは襲われた時のことを詳しく聞かせてください」

 袖を合わせたまま顔をあげる。珠江は長かった髪に触れようとして空を切り、落ち込んだ表情を浮かべた。

「そう、ですね。二日前の夜更けでした。その日私は少し疲れていたので早めにとこへついたのですが、翌朝起きたときは既に髪を切られていました」

「床へ着いてから一度目を覚ますことはありましたか?」

「いえ、その日は珍しく途中で起きることもなく、起きたら既に朝だったのです」

 話を聞きながら呉乃は考え込む。珍しく途中でということは、普段は違うのだろう。なにか薬でも盛られたか。それとも単純に疲れが溜まっていたのか。とにかく、そんな風にぐっすりと眠っているところを鬼は狙い、珠江の髪を切ったのだろう。

「髪を切られただけですか? それ以外にも怪我を負ったとかは」

「いえ、そういったことは。ただ、いくつか物が盗られていたようで……」

「鬼が物盗りを?」

 呉乃が目を丸くする。どうにもおかしい。これまで調べてきた『髪盗り鬼』の情報と矛盾する。

 髪を切って盗っていくから髪盗り鬼、だというのに物まで盗んではただの野盗だ。

 確かに貴族の邸ならばかもじ以上に高くつくものがあるかもしれないが、あまりに迂闊すぎる。

 髪はともかく盗品の場合は市に流せばそこから足がつく可能性だってあるのだ。これまでの犯行と比べるとあまりに短絡的と言うほかない。

「珠江様、差し支えなければどういったものが盗まれたのか、お聞かせください」

「ええ、私の寝所しんじょにあったつづらが開けられていて……」

 部屋の奥から珠江がつづらを持ってくる。呉乃はそれを恭しく受け取り、中身を検めた。

(使い込んでいるであろう筆に書き起こした文、それに使い途中の墨……ん? 空っぽの墨匣すみはこ? なぜここに墨を入れてないのだろう……それにこの匂い)

 つづらを持ち上げて匂いを嗅ぎ、さらに空の墨匣を取り出して確認する。

 柔らかな甘さの香木こうぼく、かすかに麝香じゃこうの匂いもする。松煙墨しょうえんぼくだろう。懐かしい香りに呉乃は今は亡き母の顔を思い出す。

 御簾の中で母と娘のふたりきり。母が手ずから墨を磨く。その姿をじーっと見ていると母は微笑み、娘をひざ元に置いて手を取り、一緒に墨をすってくれた。

 あのときと同じ匂い。呉乃はこれ以上思い出が溢れないよう目を開けてつづらを見下ろす。確かにこれほどの品ならば盗まれてもおかしくはない。

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