「珠江様、盗まれたものはすべて憶えていますか?」
呉乃は改めて珠江へ訊ねる。すると彼女はやや考え込むようなそぶりを見せて、やがてそっと顔を上げた。
「はい、実家から持ち出した
珠江が眉を下げて表情を曇らせる。先ほどまで気丈な様子だったのに、突然の変化に呉乃は首を傾げた。
「山桜が描かれた扇があったのです……それはつづらに入れず枕元に置いていたのですが盗られてしまったようで……あれは、夫からの贈り物だったのに……」
ふるふるとまつげを震わせる珠江。よりにもよって夫からの贈り物まで盗まれてしまうとは。呉乃は彼女に同情しつつも思案する。
(唐物の陶硯と墨……つづらの残り香から松煙墨だろう、唐物ということから察するに一級品だ。それに鉛丹入りの壺……確かにどれも売ればかなりの値が付く。だけど扇? 夫からの贈り物ってことは、それも高い物だったのか?)
「陶硯は構いません。確かにいいものではありましたが、もうすでに古く、使い心地も悪くなっていましたから。墨だってあそこまでの品を使う機会など中々……結局使わずにしまっておくばかりでしたから。ですが扇と鉛丹だけは取り戻したいのです。あれだけは」
「……大切なもの、だったのですか?」
とりあえず質問をしてみる。高かったのですかなんて訊けないので迂回してみると珠江はこくりと頷いた。
「鉛丹は夫が私に預けてくれたものです。そして扇は、あれは私の家にあった山桜を夫が描いてくれたのです」
「そう、だったのですか。さぞ美しい山桜だったのでしょうね」
「本物はそうです。描いてくれた山桜はあまり上手とは言えない出来でした。ですが、それでもあれは、あの人が初めて私に自分が感じたことを伝えてくれた気がして。嬉しかったのです」
目を伏せて珠江がしみじみと語る。
感動的な話を聞きながらも呉乃はますます分からなくなる。
鉛丹入りの壺――公治の役職は
問題は扇だ。盗まれた扇はあくまでも珠江にとって価値のあるもの。実際に本物を見ていないのでどうとも言えないが、下手な山桜が描かれた扇を売ったとしても、よっぽど使っている素材がいいものでなければ大して値はつかないはず。
だというのに髪盗り鬼は扇も盗んでいった。しかも枕元に置いてあったものをわざわざ盗んでいる。そこにはなにかただの物盗りではない別の意思が介在しているのかもしれない。
「珠江様が鬼に襲われたことを
「もちろんです。髪を切られたこと、つづらの中身や鉛丹入りの壺が盗まれたこと。御簾越しに夫と話をしました。それから夫は他にもなにか盗まれていないか
「邸の者はそのときに知ったのですね?」
「ええ、それに足跡も見つけたようでした」
「足跡?」
初めて聞く話だ。呉乃が身を乗り出すと珠江はまた考え込むようなそぶりを見せる。
「私も夫から訊いただけなので詳しくは知りませんが、裏口から外へ繋がる小道に犯人らしき足跡があったのです」
珠江の説明に呉乃は袖で口元を隠して考え込む。
材料は揃ってきた。あともう少しで分かりそうな気がする。
とはいえこの先は話をするだけではどうにもならない。実際に確認しなくては。
「詳しい話は夫と……女房頭のなつから訊いてください。あの二人なら足跡について知っているはずです」
「公治様と女房頭のなつ……殿ですか?」
おそらく先ほど公治の側にいた女房だろう。若く見えたが女房頭だったとは。
呉乃のことを怪しい女呼ばわりをしていた女房頭。そのことに関しては特に気にしてはいないが、それよりもやたらと珠江を人と会わせないようにしていたのだが印象的だった。
実際会ってみると珠江は傷ついてはいるものの、病んでいるようには見えない。なつはなぜあんなにも是実や呉乃を会わせたくなかったのか。
(珠江様を心配していたわけではなく、引き合わせることで髪盗り鬼について知られるのを恐れた? いや、まさか……)
「珠江様、少しお聞きしたいことがございます」
袖を合わせて顔を伏せ、呉乃が訊ねる。珠江はすぐに「なんでしょうか?」と答えてくれた。
「女房頭のなつ殿はどういったお方なのですか?」
「なつ、ですか? そうですね……あの人は幼いころより大畝の家に仕えていて、公治様の幼馴染だと聞いています。この邸のことも私以上に知っているのですよ」
「……この家にはかかせないお方、というわけですね」
「ええ、嫁にきた私にも優しくしてくれて。物忌みしてからも身の回りの世話がすっかり任せっきりなんです」
「よくできた女房殿なのですね」
「はい、ただ……本当に夫と仲が良いので時々妬けてしまいます」
可愛らしく笑いながら話す珠江。淑やかで清楚な雰囲気の人ではあるが、それだけではないらしい。
「お話、ありがとうございました。珠江様」
顔を上げて礼を述べる呉乃。珠江は微笑みを浮かべて首を横に振って応えた。気丈に振舞いながらもその表情には不安が見える。
「私の話が事件解決の手がかりとなればよいのですが……」
「ご安心ください。鬼の正体を必ずや暴いてごらんにみせましょう」
「鬼の正体を……本当に?」
不安に怯えていた珠江の瞳に、かすかに希望の色が浮かぶ。
呉乃はよどみなくその場で立ち上がり、深く頭を下げた。
「私の考えが正しければ、おそらく鬼はまだ扇を持っているはずです」