土曜の午前。ゆっくり目覚めた美香は、まだ布団の中で天井を見上げていた。
妊娠──その言葉が、体の中に沈殿している。
夢じゃない。確かに、あのエコー画像に映っていた。黒くぽっかりとした小さな影。それが、いま自分のお腹にいる「命」なのだ。
携帯を手に取り、日課のニュースチェックをしようとして、手が止まった。画面には昨日の仕事のメールの通知。プロジェクトの進捗報告、次週の会議資料の確認依頼、部下からの相談メール──現実が、容赦なく押し寄せてくる。
「……どうやって、やっていけばいいんだろう」
呟いたその声は、思った以上に弱々しかった。
リビングに降りると、夫の健一がソファに座って新聞を読んでいた。香ばしいパンの匂いと、温かい紅茶の香り。彼が朝食を用意してくれていたらしい。
「おはよう。気分は?」
「まあまあ……昨日よりはマシかな」
健一は笑って、美香の前にトーストと目玉焼きの乗った皿を置いた。その何気ない気遣いが、今はありがたかった。
食事をとりながら、ふたりは小さな声で話した。結衣にはまだ内緒であること、来週の産婦人科で改めて検査があること、職場にいつどのように伝えるか──。
「俺さ、会社に育休のこと聞いてみようと思う」
健一のその言葉に、美香は驚いた。
「あなたが? 育休なんて取ったら、営業部で浮くんじゃない?」
「うん。でも今の時代、父親だって子育てするのは当たり前だって、言ってやろうかなって思ってさ」
その言葉に、美香の胸がじんわりと熱くなった。
「ありがとう。でも……無理しないで」
「お互い様だろ。君だけに任せるわけにいかないし、今回は俺もちゃんと“父親”やるよ」
そう言って笑った健一に、美香は小さく微笑んだ。
そのとき、階段から結衣が降りてきた。
「おはよー。今日、模試だからお昼は外で食べるね」
「そう、がんばってね」
と声をかけながらも、美香は内心、少し緊張していた。
この子に、いつどうやって話そう。
模試で疲れて帰ってくる娘に、あの話をしていいのだろうか。あまりに突拍子がなくて、ただでさえ繊細な年頃の彼女に、どれだけの衝撃を与えるだろう。
「あ、そういえばママ、昨日倒れたって言ってたけど、本当に平気なの?」
玄関で靴を履きながら、結衣がふと振り返った。
「うん。ちゃんと診てもらったし、薬ももらったから。心配しなくて大丈夫よ」
「ならいいけど……無理しないでね」
玄関の扉が閉まり、静けさが戻ったリビングに、美香はふうっと息をついた。
まだ言えない。でも、必ず言わなくちゃ。
これはもう、自分ひとりの問題じゃない。家族全員の、人生の転換点なのだから。