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第3話  母として、一人の女として

土曜の午前。ゆっくり目覚めた美香は、まだ布団の中で天井を見上げていた。


妊娠──その言葉が、体の中に沈殿している。


夢じゃない。確かに、あのエコー画像に映っていた。黒くぽっかりとした小さな影。それが、いま自分のお腹にいる「命」なのだ。


携帯を手に取り、日課のニュースチェックをしようとして、手が止まった。画面には昨日の仕事のメールの通知。プロジェクトの進捗報告、次週の会議資料の確認依頼、部下からの相談メール──現実が、容赦なく押し寄せてくる。


「……どうやって、やっていけばいいんだろう」


呟いたその声は、思った以上に弱々しかった。


リビングに降りると、夫の健一がソファに座って新聞を読んでいた。香ばしいパンの匂いと、温かい紅茶の香り。彼が朝食を用意してくれていたらしい。


「おはよう。気分は?」


「まあまあ……昨日よりはマシかな」


健一は笑って、美香の前にトーストと目玉焼きの乗った皿を置いた。その何気ない気遣いが、今はありがたかった。


食事をとりながら、ふたりは小さな声で話した。結衣にはまだ内緒であること、来週の産婦人科で改めて検査があること、職場にいつどのように伝えるか──。


「俺さ、会社に育休のこと聞いてみようと思う」


健一のその言葉に、美香は驚いた。


「あなたが? 育休なんて取ったら、営業部で浮くんじゃない?」


「うん。でも今の時代、父親だって子育てするのは当たり前だって、言ってやろうかなって思ってさ」


その言葉に、美香の胸がじんわりと熱くなった。


「ありがとう。でも……無理しないで」


「お互い様だろ。君だけに任せるわけにいかないし、今回は俺もちゃんと“父親”やるよ」


そう言って笑った健一に、美香は小さく微笑んだ。


そのとき、階段から結衣が降りてきた。


「おはよー。今日、模試だからお昼は外で食べるね」


「そう、がんばってね」

と声をかけながらも、美香は内心、少し緊張していた。


この子に、いつどうやって話そう。


模試で疲れて帰ってくる娘に、あの話をしていいのだろうか。あまりに突拍子がなくて、ただでさえ繊細な年頃の彼女に、どれだけの衝撃を与えるだろう。


「あ、そういえばママ、昨日倒れたって言ってたけど、本当に平気なの?」


玄関で靴を履きながら、結衣がふと振り返った。


「うん。ちゃんと診てもらったし、薬ももらったから。心配しなくて大丈夫よ」


「ならいいけど……無理しないでね」


玄関の扉が閉まり、静けさが戻ったリビングに、美香はふうっと息をついた。


まだ言えない。でも、必ず言わなくちゃ。


これはもう、自分ひとりの問題じゃない。家族全員の、人生の転換点なのだから。



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