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第9話  波打ち際の約束

潮が満ち始めているのか、さっきまで乾いていた砂に水がしみ込み、足元が少し沈んだ。

 波が引くたびに、砂粒がするすると流れ落ちていく。

 それをぼんやりと見ていると、澪が口を開いた。


「蒼、もし…来年、私がここにいなかったら、どうする?」

 あまりにも突然で、風の音よりも聞き取りづらい声だった。

 「……どういう意味?」

 問い返しても、澪は海を見たまま。

 視線は遠く、水平線のもっと先にある何かを探しているようだった。


 「別に。…ただ、そうなったとき、蒼はどうするかなって思っただけ」

 その言葉が冗談なのか本気なのか、判断できなかった。

 でも、胸の奥に冷たい水が一滴、落ちたような感覚があった。


 私は少し間を置いてから答える。

 「……絵を描く。澪がいなくても」

 澪がこちらを見た。驚いたような、でも安心したような笑顔。

 「そっか。…じゃあ、安心だね」

 その笑顔の奥に、かすかな翳りがあった。

 それは、私の“名前のない色”に、また新しい濃淡を加えた。


 波打ち際まで歩いていくと、冷たい水が足首をかすめた。

 澪も隣に来て、同じように波を感じていた。

 「じゃあさ、約束しよう」

 「約束?」

 「来年の春も、この海で会うこと。…もし、私がいなくても、ちゃんと絵を見せに来て」

 「……うん」

 短く答えたその瞬間、夕陽が海に沈みかけ、空の群青と水面の橙が溶け合った。

 その色には、やっぱりまだ名前がなかった。


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