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第8話  夕暮れ、名前のない色

午後四時、閉会のアナウンスが流れ、賑やかだった校舎が少しずつ静けさを取り戻していった。

 片付けに追われる廊下で、模擬店の看板が外され、教室から机を運ぶ音が響く。

 美術室でも展示作品を外し、机や椅子を元に戻していく作業が始まっていた。


「蒼、これ、外してくれる?」

 澪が背景布の端を押さえながら呼びかけてきた。

 「うん、ちょっと待って」

 脚立に上り、留め具を外す。布がふわりと揺れ、その青が夕陽に染まって一瞬だけ紫がかった。

 ──あ、と思う。

 この色、さっきまでの群青とも違う。


 片付けが終わる頃には、窓の外は茜色に沈みかけていた。

 陸はサッカー部の打ち上げに呼ばれ、千尋は文芸部の反省会に向かって行った。

 残ったのは、澪と私だけ。


「ちょっと、海行かない?」

 澪が何気なく言った。

 断る理由なんてなかった。


 校舎裏の坂を下りると、潮の匂いが近づいてくる。

 春の海は、昼間よりも穏やかで、波の音が心の奥にすっと染み込むようだった。

 澪は海を正面に見て立ち、何も言わずにただ呼吸をしていた。

 風が彼女の髪を揺らし、その横顔は昼間よりも大人びて見えた。


「今日さ…」

 私が口を開くと、澪はゆっくりこちらを見た。

 「何?」

 「澪の背景布、すごく評判よかった。…あれがなかったら、私の絵もあんなふうに見てもらえなかったと思う」

 澪は少し笑って、

「蒼の絵があったからだよ」

と返す。

 どちらが先か、どちらが支えたかなんて、もうどうでもよかった。

 ただ、並んでこの海を見ている事実だけが、確かにここにあった。


 遠くで漁船の灯りがともり始める。

 その光が波間に揺れる様子は、私の中の“名前のない色”を、また少しだけ変えていった。



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