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第7話  波間に映るもの

午前十時。開会のアナウンスが流れた瞬間、校舎全体がひとつの生き物みたいにざわめき始めた。

 廊下からは吹奏楽部のファンファーレ、模擬店の呼び込み、誰かの笑い声。

 そのすべてが混ざり合って、心臓の鼓動まで早くなる。


 美術室の空気は、外の喧騒とは少し違っていた。

 静かで、でも張り詰めすぎない──柔らかな緊張感。

 私たちが数日かけて作り上げた空間が、いま初めて外の人の目に触れようとしている。


 ドアが開き、最初の来場者が足を踏み入れた。

 小さな手を握った母親と、まだ低学年くらいの男の子。

 男の子は部屋に入るなり澪の描いた背景布に駆け寄り、海の青を指差した。

 「うみだ!」

 母親が微笑みながら「きれいだね」と言う。

 次の瞬間、男の子は私のキャンバスの前でぴたりと足を止めた。


「このさきには、なにがあるの?」

 真っ直ぐな問いかけに、私は言葉を探した。

 でも先に千尋が、穏やかな声で答える。

 「それは君が思うものでいいんだよ。船かもしれないし、島かもしれないし…」

 「たからじま!」

 男の子は笑ってそう言い、母親も小さく笑った。

 そのやりとりを見ているだけで、胸の奥があたたかくなる。


 時間が経つにつれ、人の流れは少しずつ増えていった。

 陸は入口で友達や後輩を捕まえては、「な、この群青の絵、やばくない?」と得意げに紹介している。

 千尋は文芸部の冊子を手渡しながら、来場者と短く感想を交わし、澪は背景布の前で「はい、撮りますよー」と写真を撮ってあげている。

 それぞれの役割が、見えない糸で自然に繋がっていた。


 ふと、視界の端に紺野先生の姿が映った。

 先生は会場を一巡してから、私の隣に静かに立つ。

 「いい表情をしてるな」

 不意を突かれた私は、間の抜けた声を漏らす。

 「え、あ…」

 「人に見られることで、作品は生きる。そして描き手も変わる。…お前の“名前のない色”も、少し変わったんじゃないか?」

 その言葉が、胸の奥に波紋を広げた。


 気づけば澪と目が合っていた。

 澪は遠くから小さく手を振る。

 その笑顔の奥に、かすかな揺らぎ──春の海みたいに穏やかで、でもどこか切ない光が見えた気がした。

 私は思わず、あの群青の水平線を振り返る。

 白く残したその先に、私は何を描くのだろう。

 ──まだ名前のない、その色を。


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