午前十時。開会のアナウンスが流れた瞬間、校舎全体がひとつの生き物みたいにざわめき始めた。
廊下からは吹奏楽部のファンファーレ、模擬店の呼び込み、誰かの笑い声。
そのすべてが混ざり合って、心臓の鼓動まで早くなる。
美術室の空気は、外の喧騒とは少し違っていた。
静かで、でも張り詰めすぎない──柔らかな緊張感。
私たちが数日かけて作り上げた空間が、いま初めて外の人の目に触れようとしている。
ドアが開き、最初の来場者が足を踏み入れた。
小さな手を握った母親と、まだ低学年くらいの男の子。
男の子は部屋に入るなり澪の描いた背景布に駆け寄り、海の青を指差した。
「うみだ!」
母親が微笑みながら「きれいだね」と言う。
次の瞬間、男の子は私のキャンバスの前でぴたりと足を止めた。
「このさきには、なにがあるの?」
真っ直ぐな問いかけに、私は言葉を探した。
でも先に千尋が、穏やかな声で答える。
「それは君が思うものでいいんだよ。船かもしれないし、島かもしれないし…」
「たからじま!」
男の子は笑ってそう言い、母親も小さく笑った。
そのやりとりを見ているだけで、胸の奥があたたかくなる。
時間が経つにつれ、人の流れは少しずつ増えていった。
陸は入口で友達や後輩を捕まえては、「な、この群青の絵、やばくない?」と得意げに紹介している。
千尋は文芸部の冊子を手渡しながら、来場者と短く感想を交わし、澪は背景布の前で「はい、撮りますよー」と写真を撮ってあげている。
それぞれの役割が、見えない糸で自然に繋がっていた。
ふと、視界の端に紺野先生の姿が映った。
先生は会場を一巡してから、私の隣に静かに立つ。
「いい表情をしてるな」
不意を突かれた私は、間の抜けた声を漏らす。
「え、あ…」
「人に見られることで、作品は生きる。そして描き手も変わる。…お前の“名前のない色”も、少し変わったんじゃないか?」
その言葉が、胸の奥に波紋を広げた。
気づけば澪と目が合っていた。
澪は遠くから小さく手を振る。
その笑顔の奥に、かすかな揺らぎ──春の海みたいに穏やかで、でもどこか切ない光が見えた気がした。
私は思わず、あの群青の水平線を振り返る。
白く残したその先に、私は何を描くのだろう。
──まだ名前のない、その色を。