文化祭の朝、校舎はまだ開ききらない花のように静かだった。
廊下にはカラフルなポスターや装飾が半分だけ貼られ、どこか落ち着かない空気が漂っている。準備の音や、どこかで流れる軽快な音楽が、開演前の緊張感をかすかに震わせていた。
美術室のドアを開けると、昨日までの賑やかな準備の名残が消え、ただ作品だけが静かに並んでいた。
澪が作ってくれた背景布が、壁一面を柔らかく覆っている。その中央に、私の描いたキャンバスが立てかけられていた。
群青を基調にした海の絵。
水平線の向こうは、あえて何も描き込まず、白く残した。
“その先”は見る人が想像する場所──そう決めていた。
「おー、やっぱりすげえな」
突然、背後から声がして振り向くと、陸がサッカー部のユニフォーム姿で駆け込んできた。額には朝練の汗がまだ残っている。
「この空の色…この前の練習試合のあと、海沿いを歩いたときの空と一緒だ」
そんなふうに具体的に言われると、少し照れくさい。
でも、彼が覚えている景色と私の絵が重なったのだと思うと、心の奥が温かくなった。
「それ、蒼の得意技だよ」
千尋が、文芸部の冊子を抱えて入ってくる。
「見る人が自分の思い出を重ねられる絵。…ね、澪」
「うん。だからこの展示、すごくいいと思う」
澪は壁際で、最後の飾りを整えながら笑った。
「千尋の小説と蒼の絵、陸のポスター、全部そろったら…ひとつの物語になるね」
陸が笑って「じゃあ俺、ラストシーン担当だな」と言うと、千尋は苦笑しながら冊子を差し出した。
「蒼の絵を表紙に使わせてもらったよ。テーマは“まだ名前のない色”」
そのとき、美術室のドアが静かに開き、紺野先生が顔を出した。
「…いいな。この空間ごと作品になってる」
展示を見渡しながら、少しだけ目を細める。
「蒼、お前の“名前のない色”も、少しずつ形になってきたんじゃないか?」
私は答えられず、ただ群青の海を見つめた。
胸の奥で、波が静かに寄せては返す。
それは喜びでも、不安でもなく、ただそこに在る感覚。
この色の名前を、私はまだ知らない。
けれど、今日の終わりには──少しだけ、その名前に近づける気がしていた。