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第7話 ショプロン

●7.ショプロン

 林原はベルガーが運転する車で、オーストリアとの国境を越えハンガリーに入った。ハンガリーの北西端にあるショプロン市は、中世の面影を残した、茶色の屋根瓦の家並が続く美しい街という印象であった。旧市街にはゴシックからバロックまでの様々な建物が建ち並んでいた。

「ベルガーさん、久しぶりにヨーロッパの地に戻って、懐かしいですか」

助手席から窓の外を眺めている林原。

「日本も良いですが、オーストリア、ハンガリーの西寄りはドイツの影響がありますから、どことなく落ち着きます」

「ショプロン市長のナダーシュ・フェレンツさんは、ドイツ語がわかるのですか」

「祖父がドイツ人という家系ですから、わかるようです。それにハンガリーにはドイツ人が1.9パーセント程住んでいます」

「まさに陸続きの国同士って感じですか。このナダーシュ・フェレンツのどっちが苗字ですか」

「あぁ、それですか。ハンガリーは日本と同じで姓・名の順です。でも英語圏に行くと名・姓にすることもありますけど」

「ハンガリーの有名人の表記がまちまちなのは、そのためですか」

「さて市庁舎はに行くには、…この道を真っ直ぐのようです」

ベルガーはカーナビを横目でちらりと見ていた。

「ナダーシュ市長は、我々に興味があると聞きましたが、党員になるつもりはあるのですかね」

「どうでしょう。党員にできるかできないかは、我々党首の説明次第と言えます」


 ショプロン市庁舎は旧市街の中央広場に面して建てられたバロック様式の建物であった。林原たちは市長室の隣にある応接室に通されていた。歴史の重みを感じさせる応接室の窓の外には、中央広場の真ん中に建つ三位一体柱とゴシック様式の山羊教会の鐘楼が見えていた。


 「祖国を追われた移民は人道的に受け入れる必要があるとEUや国連が言ってきますが、そんなきれいごとでは済まされない面があります。それだけでなく、観光客によるマナー違反は結構目につくようになりました。ハンガリーは観光大国を目指しているわけではないのにです。この美しい街並みは後世に残す必要がありますが、今のままではダメです。そこでたどり着いたのがあなた方の『郷に従え』のフレーズです。まさにその通りです。共感しました」

大柄なナダーシュ市長はドイツ語で熱く語っていた。ベルガーは時折深くうなづき、林原はスマホの翻訳経由で聞いていた。

「そう言っていただく、AI幹事長にドイツ語で説明させた甲斐があります」

ベルガーはドイツ語で応えていた。

「そこで『郷に従え』党では、自国ファーストと他国の関係はどのように見ていますか。この点がAI幹事長で曖昧な答えだったので、直に会って聞きたかったのです」

「自国ファーストは、その国の人が決めたことなので尊重します。しかし他国に対して尊重する姿勢が見られない政策などには抵抗します。互いのリスペクトが失われることは望まないのです」

「『郷に従え』でその国のルールというか方針が、他国を貶める場合は従わないということですか。それは矛盾しているような気がしますが」

「郷と言う概念が国家と違ってくる面は確かにあります」

ベルガーは言葉に詰まり気味になっていた。

「『郷に従え』の提唱者の方、どうぞ」

ナダーシュ市長は林原が何やら言いたそうにしているので、じろりと見た。

 「日本の『郷に入れば郷に従え』に類似するものにハンガリーでは『家の数だけ、習慣の数だけ』という表現がありますよね。いずれも、訪れる場所に応じてその文化や習慣に従うことの重要性を訴えています。しかしその文化や習慣の中に他国を貶めるものがあるでしょうか」

「クロワッサンのルーツは、オスマントルコを食うというところが発祥と聞きますが」

「オスマントルコに対する勝利を記念しているので、憎しみが永続していると思えませんし、そもそもキプフェルとかキッフェルンと言われている三日月型のパンは、第二次ウィーン包囲以前からオーストリアで伝統的に食べられてきたと言われてませんでしたっけ」

「林原さんは、オーストリア周辺の歴史に詳しいですな」

「他国を貶める言動やプロパガンダはありますが、あくまで一時的であってそれが長年蓄積された文化になり得るとは思っていません」

「性善説ですか」

「いえ。憎しみの感情が永続して文化なるようでは、人間はとっくの昔に滅んでいる気がするだけです」

林原もナダーシュ市長に負けずに熱く語っていた。

「いかにも。負の感情は、それを言い訳にして人間を堕落させるかもしれませんな」

「『郷に従え』からちょっと論点がズレたので、元に戻しますと、私はこの『ゴウニシタガエ』という日本語をそのまま広めて、世界を安定させたいと思っています」

「つまるところ、いろいろなことに関わりを持つ、そのワンイシューが党是ということですな。今までにない考え方です」

ナダーシュ市長は遠い目をしていた。

「共感していただけましたか」

「ここショプロン市と日本の鹿角市は姉妹都市なので、日本語クラブもあるくらいです。『郷に従え』に共感しやすい土壌もあります。今後が楽しみですな」

「ハンガリーでの我が党の窓口はナダーシュ市長でもよろしいですか」

林原は一歩推し進めていた。

「いゃー今日は良かった。AIではなく生身の人間と話せて。私は次の予定があるので、こちらで失礼します」

イエスともノーとも言わないナダーシュ市長だが、表情は満足気であった。


 市庁舎の近くにあるオープンカフェで一服する林原たち。心地良い木漏れ日が差し込んでいた。

「あの市長は党員になってくれますかね」

ベルガーは党員にこだわっていた。

「ならなくても、支援はしてくれそうな感じじゃないですか」

林原はナダーシュ市長の表情を思い浮かべていた。彼はスマホを手に取り何気なく『郷に従え』党のホームページを開いた。

「新たな党員登録は、…ないか…、あっ一人登録がありました。えぇと確認してみると、登録名はNeumayerです。ドイツ人ですね」

「林原さん、たぶんそれは祖父がナダーシュに改姓するまえの苗字でしょう。職業は何になってますか」

「市長となっていますよ」

「間違いない。ナダーシュ市長が登録してくれたんです」

ベルガーは表情を緩めてコーヒーを飲んでいた。

 ショプロンの町は、車が走っているものの、ゴミが落ちておらず、落書きもなく中世の雰囲気がそのまま漂っていた。しかしこの景色に似つかわしくないアジア系の観光客の一団が、歩道に広がり歩いてきた。街並みの写真をスマホで撮り、スナック菓子の袋を持っていた。袋が空になると、周りを見回していた。数メートル先に歩道に置かれたゴミ箱を見つけると、丸めた袋を思い切り振りかぶってから投げた。すると風にあおられゴミ箱の手前に落ちていた。しかしそれを無視してそのまま歩いて行った。

「マナーのない中国人か」

林原は吐き捨てるように言った。

「そのようですね」

ベルガーがため息をついていた。観光客の一団が林原たちの席の横を通りかかると日本語が聞えてきた。

「えぇ、日本人」

思わず林原は叫んでしまった。林原は袋を投げた若い男と目があった。

「あのさ、君、あそこのごみは拾ってゴミ箱に入れた方が良いんじゃないか」

林原が言うと、若い男ちょっとムッとした顔になったが、周りの友人に促されて、照れ笑いしながら袋をゴミ箱に入れていた。観光客の一団は、はしゃぎながら、立ち去って行った。

「『郷に従え』って言っている国の人でも、これだがら先が思いやれる。海外に行く日本人にも徹底させる必要がありますよ」

林原は、珍しく感情的であった。

「日本人だけでなく、世界中の人にも言えることでしょう」

ベルガーはなだめるような感じであった。

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